通りの人込みに、彼女は気圧されて、思わず路地裏に入り込んだ。 賑やかさが遠退き、薄暗い影が広がっているのに、彼女はそっと息を吐いた。 見慣れない街並。 誰もが顔見知りだった故郷の村とは違い、知る人は誰もいない。 どれほど多く人がいても、彼女は独りだった。 人込みの中にいると、見知った人がいないかと無意識のうちに探してしまう。 そして、孤独を思い知るのが辛かった。 それに比べれば、こうして人気のない路地裏にいる方がよほど気が楽だ。 何も期待しなくてもいい。 独りだということが事実として、そこにある。 一瞬、彼女の肩が震えた。 そして、彼女は俯いて唇を噛み締め、眉根を寄せた。 失ってしまったものを想うのはひどく辛い。 ひりひりと、まるで火傷のように心が痛む。 肌を赤く焼いた火傷は、もう治っているのに。 そう、治っているのだ。 緩々と彼女は自分の腕を見た。 あの、神々しい冷徹な炎が白い教会を赤く染めた時、炎は確かに彼女を舐めて焼いた。 水分を失い、引きつっていく肌の感触を覚えている。 神経に突き刺さるような鋭い痛みと熱も。 それが数日のうちに治ってしまった。 あれが、軽い火傷だったとは思えないのに、治ってしまった。 無意識のうちに自身の体を抱き締めて、彼女は地面に視線を落とした。 (何が、起こっている……?) 神の御使い。 炎上した教会。 殺されてしまった姉、そして義兄となるはずだった人。 現実とは思えない出来事。 それを『現実』だと認識することを拒否して思考が止まりそうになる。 だが、紛れもない現実だ。 そうでなければ、今、全身を支配する虚脱感と絶望は何だというのだろう。 (どうして、姉さんが……!) 次の瞬間だった。 じゃりと土を踏む音と同時に、人の気配が路地の影から現れる。 現れたのはにやけた表情をしている風体の悪い男たちだった。 「!」 本能的に危険を察して、彼女は咄嗟に大通りに戻ろうとした。 しかし、それより先に男たちの一人が回り込み、行く手を阻む。 「おっと、ご挨拶だねぇ。人の顔を見ただけで逃げようなんてさ〜」 下卑た笑いを交えながら、見下ろすように言われて、彼女は強く睨み付けた。 元来、気が強い性格なのだ。 この手の人種には嫌悪感を激しく覚える。 「……どいて」 大切なものを奪われて、見知らぬ地に連れて来られて。 自分の知らないところで、何かが起こっている。 苛立ちが彼女を奮い立たせた。 「ふぅん、見たところ、どっかの花店から逃げて来たんだろ?」 『逃げた』 その言葉に、彼女は思わず反応していた。 (逃げた……?) 逃げた、ことになるのか――これは。 彼女の態度に、男たちは更に誤解した。 「やっぱ、図星だな」 「なぁに、別に差し出しやしねぇよ」 「俺たちが、ちゃあんと匿ってやっからよ」 次いで、重なる哄笑に、彼女は我に返った。 勘違いした男たちの言葉の意図を理解すると同時に、走り抜けようとする。 だが、簡単に腕を捕られ、路地裏の奥に引きずり込まれた。 「離せッ!」 「おお、気の強いことで」 「こりゃ、躾甲斐あるな」 さっと彼女の顔から血の気が引く。 恐怖ではない。 それは恐怖ではなかった。 (こんな) こんな奴らに良いようにされるのか。 そんなことを許してしまうのか。 (私が弱いから?) 目の前の男たちにわずかな抵抗もできないほど何の力もないから、あんな『現実』を認めるしかないのか。 (これから起こることも?) 嫌ダ。 嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ。 (嫌だッ!!) その瞬間だった。 彼女の腕を掴んでいた男が体ごと吹き飛ばされる。 「ッ!?」 突然、自由になった彼女は尻餅を着き、何が起こったのか分からず大きく瞬いた。 「ん〜、思ったより、よく飛んだな〜」 気の抜けた声。 緩々と顔を動かすと、明るい大通りを背に一人の青年が立っていた。 目覚めて最初に見た顔だ。 一見、穏やかな風貌をしている青年が人間ではないと誰が思うだろう。 「何で……」 彼女の呻くような小さな声をしっかり聞き取って、青年は小さく笑った。 「何で、僕がここにいるかって?」 彼女はかぶりを振った。 目の前の青年は人間ではないのだ。 どこに現れたって不思議ではない。 不思議なのは。 「何で、私を、助ける……?」 あの時も、今も。 (どうして) その瞬間、青年はくすりと優しい表情で笑った。 「知りたい? どうして、僕が君を助けるか? どうして、君だけを助けようとするのか?」 どこか熱を帯びたような声音に、彼女は背筋が震えた。 青年の声は穏やかだ。 穏やかなのに、何故、恐怖を覚えるのか。 「教えてあげてもいいよ? 君がそれだけの意志を僕に示すのなら」 「な、に……」 何を示せと。 翠色の双眸を細め、青年は少し首を傾げて続けた。 「僕自身もまだ確証はないんだよね。まあ、でも、たぶん、君だと思うし、っていうか、君だからあいつらも手を出してきた訳だし」 その言葉に、彼女は一瞬にして顔色を変えた。 気の抜けた驚愕の表情の代わりに浮かび上がる、動揺と憎悪の入り混じったものへと。 「あいつら……?」 その代名詞が示す存在は問うまでもない。 そんな彼女を見つめ、青年は満足そうに頷いた。 「じゃ、とりあえず、帰ろっか?」 そして、青年は躊躇いもなく彼女に手を差し出した。 その当たり前のように目の前に現れた手のひらに、彼女の思考が停止した。 まじまじと見つめ、戸惑いながら青年と手のひらを見比べる。 「どうかした?」 「どうかしたじゃねえよ!」 青年の問いに答えたのは彼女ではなく、路地裏から現れた男たちだった。 「何なんだよ、てめぇはよ!?」 声を荒げて、脅しをかける男たちに、青年はゆっくりと首を巡らした。 そして、へらりと笑いかける。 「君たちには用はないから、さっさと消えてくれる?」 「舐めやがって!」 怒りに我を忘れた男たちが一斉に襲いかかってくる。 それをやや呆れたように見つめ、青年は不意に薄く笑んだ。 「仕方ないなあ。じゃあ、僕が消してあげるよ」 そして、青年は差し伸べていた右手を下から上へと斜めに目の前の空間を薙ぎ払った。 その瞬間、男たちの姿が消える。 文字通り、消えたのだ――跡形もなく。 悲鳴もない。 まるで、幻のように。 最初からいなかったような錯覚さえ与えて。 だが、彼らはいたのだと掴まれていた腕の痛みが彼女に教えてくる。 「何を、した……?」 茫然とした問いに、青年はあっさりと答えを寄越した。 「んー、だから、消した」 「何で」 「だって、後腐れはない方がいいでしょ?」 そして、青年は苦笑しながら、再び右手を差し伸べる。 「さ、行こ」 男たちを消した右手が彼女の手を待っていた。 触れた瞬間、自身も消されるのではないかと一瞬思った。 思ったが、それだけだった。 手を繋いで、立ち上がり、彼女は挑むように青年を見据えた。 「私が知りたいことをお前は知っているんだな?」 青年は笑った。 「知っているよ」 「お前は、それを私に教えると言った」 「うん」 素直に頷く青年とは対照的に彼女は表情を歪めた。 そして、嘲笑うような奇妙な笑みを浮かべた。 (きっと私は気が狂っている) それとも、感覚が麻痺しているのか。 この異常な現実を目にして、欲しいと思った。 この繋いだ手にある力を。 |
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