「これが?」 「うん、これが」 あっさりと答えてくる相手を凝視し、彼女は改めて問題の物体に視線を移した。 古びた石の扉。 深い海底に、ぽつんとそれは立っていた。 表面には逆さ向けの大樹が刻まれている。 大きく張り出した枝には丸い窪みが七つ、まるで実のような位置にあった。 彼女は静かに歩き、そっと石の扉に向かった。 彼女が一歩進むたび、海底の砂がふわりと舞い上がる。 しかし、結界に包まれた彼女には何の影響も及ぼさない。 触れた石の扉は冷たかった。 「ただの石の扉にしか見えないが……」 肩越しに振り返り、不審そうに呟くと、同じように結界を張っている青年はへらりと笑った。 ふわりと揺れる金色の髪、澄んだ翠の瞳に、柔和な容貌。 時折、神々しささえ纏うのに、そうやって気の抜けた笑い方をするのが青年の常だった。 癖、ではないのだろう。 むしろ、故意、なのだろう。 そうやって、人の苛立ちを煽り、その反応を楽しんでいるのだ。 「ただの石だよ」 「……」 すうと彼女の双眸が細められる。 氷のような蒼い瞳は冷ややかなくせに、その奥底では激しい感情の光が宿っていた。 その表情に、青年は笑みを深めた。 「だって、それは本来なら開くはずのないものだからね。それを開くための鍵が揃うことなんてないはずだった」 青年の微妙な言い回しに、彼女は思わず肩を震わした。 『鍵が揃うことなんてないはずだった』 揃うはずのない鍵を求めたのは彼女。 揃うはずのない鍵に導いたのは彼。 鍵を手に入れるために、いかなる犠牲も払う覚悟だった。 そして、実際、多大な犠牲を払った。 突き刺さるような胸の痛みに、彼女は瞳を伏せ、唇を噛み締めた。 嘆き哀しむ権利などない。 何度、同じ状況になっても、鍵を望んで、その犠牲を認めるだろう。 『……これで、私は自由になれるのですよ。もう、何も思い悩まなくていい。だから、躊躇うことはありせまん』 そう言って微笑んだのは初老の紳士。 『忌々しい! ただ、そなたの願いが我が望みより強かっただけのことだ。妾を哀れむなど許さぬぞ!!』 怒りに猛って叫んだのは女王。 「……鍵は七つ。そして、君はそれを手に入れた」 静かな青年の声が彼女の思考を現実に引き戻す。 「それを使わないなら、石の扉は石のまま。でも、使うなら、それは扉としての役割を創世の時から初めて果たすことになる」 手に入れた『真実』が彼女に、石の扉の向こうに在る別次元の世界を見せる。 虚像と虚像が重なれば、それは『真実』に転化する。 それが、この世界に隠された一つの実像。 「どうする?」 笑いを含んだ問いに、彼女は振り返りもせずに答えた。 「決まっている」 そう決まっているのだ。 すべては最初から。 人間であることを止めた時から。 鍵穴に合う鍵があって、自らの願いが叶えるのに、何を躊躇うことがあるのか。 彼女は再び扉に視線をやった。 この石の扉はいわば封鎖された裏口だ。 神の下僕たる天使たちが地上に降りる際には天空にある光の扉を使うらしい。 そして、それには石の扉には逆さに刻まれた樹が正しい向きになっているのだという。 七つの実をつける樹。 それは神が坐す背後にある世界の要にして支柱。 その樹になる実は世界の支点。 光の扉を開ける鍵は神のいる世界には持ち込んではならない七つの罪源。 地上の人々にも知られている『七つの大罪』のことだ。 憤怒、嫉妬、高慢、肉欲、怠惰、強欲、大食。 鍵穴にそれらの七つを嵌め、その身から罪の源を消した者のみが光の扉を潜れるのだ。 今、彼女の目の前にある石の扉の鍵はその逆――『七つの徳目』。 信仰、希望、愛徳、正義、賢明、剛毅、節制。 天使の世界と、魔物の世界は空間的に鏡面関係にあるのだという。 神がいるのは二つの世界が重なった隙間。 彼女は目の前の石の扉から魔物の世界へ行き、そこから天使の世界に侵入するつもりだった。 「……引き返すことなど、ありえない」 だから。 「愚問だ」 そして、彼女は鍵穴に触れた。 |
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