耳について離れない歌がある。



 曲名は知らない。



 確か、街中を一人歩いていた時、旅芸人が歌っていたものだ。

 素朴な楽器を使った、素朴な演奏。
 けれど、その音色に重なって流れる歌はひどく興味をそそられた。

 足を止めたのは彼女だけではなかった。

 買い物途中の主婦。
 散歩中の老人。
 若い男女。

 街を行く人々の誰もがふと足を止め、そして名残惜しそうに歩き出していった。



 残されるのは歌い続ける旅芸人と、少しずつ増えていく小箱の中の銅貨。



 古い異国の言葉だった。
 聞いたことのない旋律は、どこか懐かしく、そして、ひどく彼女の心を揺さぶった。

 それを自覚した時、彼女は何かに駆り立てられるように、その場から逃げ出していた。



 旅芸人からは逃げられた。
 その曲を聴いていた人々からも。


 けれど、その歌から逃げられない。


 ふと気付けば、流れている、調べ。
 演奏の音色は消え、ただ、その調べだけが今も、尚、響き続けている。



 まるで、耳元で誰かが歌い続けているよう。



 幻の歌は耳を塞ぐこともできない。
 聞こえ続ける理由さえ分からず、心が掻き乱されることを抑えることもできない。

 いい加減にして欲しいと彼女が柳眉をひそめながら、軽く頭を振った時だった。


 歌が、聞こえた。


 咄嗟に振り返ると、歌声の主が翠の瞳を軽く瞠って、小首を傾げた。

「何?」
「……その歌」
「ああ、コレ?」

 青年はくすりと小さく笑った。

「古い、移民の歌だよ」
「移民?」
「うん、そう。国を追われて、帰る場所もなくなった人間たちの歌」

 わずかに混じる、嘲りの響き。

 その意味を無言で見つめることで彼女は問うた。
 察しの良い青年は肩を竦めて答えた。

「失ったものを懐かしんで、結局、すべてを失ったんだよ、彼らは」
「それは、どういう意味だ?」

 その瞬間だった。
 柔和な容貌の青年の瞳に、悪意が過ぎる。

 否、それは悪意というよりは悪戯心――より悪意に近い悪戯心。



「国を追われ、放浪していた彼らは異端者として、神の名のもとに殺されたんだよ」




 今も響き続ける歌――それは彼女が創造主を血に染めるまで、きっと終わらない。










021:はさみ     023:パステルエナメル

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