「ちょっと、待って。ソレ、何する気?」 突然、現れた気配に、彼女は咄嗟に振り返った。 薄手の紗幕の向こうから、怪訝そうな顔をしている青年を認めた瞬間、彼女は表情を強張らせた。 一見、穏やかな印象を持っている青年が彼女をこの場所に連れて来たのだという。 華やかな雰囲気の女店主が教えてくれた事柄を思い返し、彼女は探るように青年を眺めた。 ここに来る前の彼女の記憶は燃え落ちる教会が最後だ。 命の恩人、と素直に思えない理由が彼女には存在した。 彼女から最愛の姉を奪ったのは神の使い。 炎に包まれる教会で、彼女自身も危険に晒された。 助かるとは思わなかった。 姉やその夫となるはずだった青年と同様に死ぬのだと思った。 だが。 彼女の目の前で、天使たちは漆黒の炎に包まれ、幻のように消え去った。 その時、その漆黒の炎の向こうに彼女が見たのは炎に赤く照らされた聖母像の肩に腰掛ける一人の青年。 柔和な容貌に、冷ややかな笑みを湛えて、青年は惨劇を見下ろしていた。 その背から広がる漆黒の翼が、赤い光景の中で異質だった。 その一瞬の記憶が彼女の青年に対する警戒心を忘れさせない。 「もしもし? 僕の声、聞こえてる?」 反応の乏しい彼女に、青年は苦笑しながら呼びかけた。 「……聞こえてる」 ぽつりと返された答えに、青年はにこりと微笑む。 そして、最初と同じ問いを重ねた。 「ソレをどうする気?」 指し示されたのは彼女の手に握られた、はさみ。 「髪を……」 「髪?」 彼女はこくりと幼子のように頷く。 「髪を、切る」 「あぁ」 彼女の端的な答えに、ようやく彼は状況を察した。 燃え盛る炎の中から助かった彼女の黒髪は一部が焼け焦げ、縮れていた。 確かに、切り揃える必要がある。 「貸して」 言うや否や、彼女の手からはさみが取り上げられる。 「で、君はここに座る!」 思いがけず強い力で引っ張られ、彼女は備え付けの化粧台の前に座らされた。 「僕、結構、こーゆーの得意なんだよね〜」 そして、鼻歌交じりに青年は彼女の髪を梳き始める。 彼女が茫然となっていることを良いことに、青年は彼女の黒い髪を一房掴んだ。 じゃきん。 思い切りのいい音だった。 「!」 鏡の中で硬直している彼女の姿は、見る見るうちに変わっていく。 焼け焦げた部分を切られ、綺麗に整えられていく。 そして、約一時間が経った頃。 「うん、完成!」 出来栄えに満足そうに微笑む青年の顔が鏡に映っていた。 その表情は、彼女の脳裏に刻まれた冷酷なものとは重ならなかった。 |
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