(……眠れない)

 寝台の上に横になってすでに四時間が経過していた。
 時間は真夜中を過ぎて、完全に深夜だ。

 彼女はごろりと体の向きを変えた。

 薄闇の視界の上部に見える窓の向こうから、ぼやけた月が見えた。

 空の具合によっては綺麗に輪郭が見えて眩しいほど輝く月も今夜は何故か弱々しく頼りない。

「……」

 小さな溜め息を吐いて、彼女は身を起こした。

 蝋燭の灯りもない部屋。
 今夜の月では薄雲がかかってもすぐに光を隠すだろう。
 そうなれば、何も見えない闇になる。

(別に、怖い訳じゃないけど)

 闇を恐れる理由はどこにもない。
 ただの闇が彼女を傷つけることはない。
 むしろ、彼女が恐れを抱くのは赤い炎で、時折、蝋燭のような小さな灯りでさえ恐怖感を覚える。

 同時に、滾るような憎悪も。


 そして、幸いと言うべきか最近の彼女は灯りがなくとも、闇でも充分に見えていた。
 手に入れた力の影響のせいだろう。
 彼女の体は以前と変わらないように見えて、明らかに変化していた。
 五感が鋭くなり、時の流れが緩やかになった。
 伸ばしている黒髪はもう随分時間が経っているというのに長さが変わらない。

 もっとも、それは彼女にとって問題でも何でもなかった。
 目的を果たすためには多くの時間が必要だ。

 彼女は静かに立ち上がり、窓を開く。

 意識を凝らすと、遠くの喧騒が聴こえた。
 そして、詳細な音の群れによって脳裏に映像が創り出される。
 鋭くなった五感だけでなく、身に宿る力が街の情報を彼女に伝えていた。

 夜遅くまではしゃぐ若い男女。
 酔いに乗じて鬱憤を晴らす者。
 バカげた遊びに興じる人々。

 どこか退廃的な雰囲気を漂わせつつも、その光景は見ていて笑みが浮かぶ。

 下らないと思わないことはない。
 だが、暇潰しには最適な、可もなく不可もない光景。

 昼間の光景は彼女にとってすでに異郷に等しく。
 夜だけの光景は彼女にとって馴染みつつありすぎて。


 もう、自分が人間なのか違うのか判断がつかない。


 それでも、ただ言えることは彼女が『彼女』であること。


 そのことをゆっくりと噛み締めた瞬間だった。



「夜更かしは美容の大敵だよ?」



 何の前触れもなくかかった声に、彼女は大きく反応した。
 素早く視線を巡らせると、窓の外――傾斜した屋根の上に一人の青年が立っていた。

 ちょうど顔の位置は同じくらいの高さだ。
 これで、何故、今の瞬間まで気づかなかったのか。
 彼女は内心舌打ちをした。
 そして、動揺を押し殺し、顔から表情を消す。

「……こんなところで何をしている」

 硬い声音に青年は苦笑した。
「月見だよ」
「月見……?」
 柳眉をひそめ、彼女は探るような眼差しで青年を凝視した。

 今夜のようなおぼろげで曖昧な輪郭の月では眺めるに相応しいものとは思えない。

 闇の中、月明かりだけの世界では青年の表情はよく見えなかった。
 しかし、相変わらずの微笑みを浮かべていることだけは察せられた。

「そう、月見」

 彼女の疑問を察してか、青年はくすりと笑ってゆっくりと視線を上げた。
 翠の眼差しの先には滲んだような月。
 そして、青年は静かに呟いた。


「まるで泣いているみたいでそそられるんだよね」


「……は?」

 彼女の呟きに、青年はにっこりと笑いかけた。


「君の潤んだ瞳に似てるから」


 その言葉の意味を理解するのが一瞬遅れた。
 それが決定的だった。
 青年が素早く彼女の腰を引き寄せ、掠めるようにくちづける。

「!」

 驚愕に瞳を見開く彼女に、青年は笑みを深める。


「眠れないなら、眠れるようにしてあげるから」


 耳元で囁かれた内容を彼女が察するより早く、視界から月が消える。





 彼女が我に返ったのはすでに逃げようがない状況になってからだった。










012:ガードレール     014:ビデオショップ

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