軽く、腕を振る。 たった、それだけの仕草。 ほんの数回の瞬きにも及ばない時間。 その瞬間、不可視の刃は彼女の敵を切断した。 ひらひらと舞う白い羽根が光の粒子となって霧散していく。 上半身を斜めに切断された相手は驚愕に双眸を見開き、叫び一つ上げる間もなく、消滅する。 否、消滅ではない。 闇に喰われたのだ。 切断面から溢れた闇に身を染め、輪郭を失い、質量を失い、影となって大地に落ちて吸い込まれた。 「お前は人間ではないのか!?」 同胞の消滅に、一人の天使が叫びを上げる。 清らかな白い容貌に動揺が走る様は醜く見えた。 その事実に気づき、彼女は嗤った。 これが神の忠実なる下僕の本性だ。 どんなに神々しい微笑みを浮かべていても、それは偽りの仮面。 本当は人間より傲慢で愚かで汚らわしい、異形の者たち。 至高の存在――神を免罪符に粛清と称して命を奪う。 (こんな簡単なのに) 今の彼女の力なら、たった一振りの手の動きで滅ぼせるのに。 それだけの存在なのに。 それだけの存在に、彼女は大切な人たちを奪われた。 歓喜はいつの間にか焼けつくような怒りと変わっていた。 それを宥めるが如く、彼女は再び腕を上げる。 次の瞬間、彼女は氷のような淡い蒼の瞳を見開いた。 「……!?」 まるで体が鋼になったかのように重く、身動きが取れない。 そして、全身を焼くような熱を感じると同時に彼女の意識は痺れ、唐突に途切れた。 その隙を見逃さず、残った天使が光り輝く槍を虚空から掴み、大地を蹴る。 鋭い切っ先が狙うのは地に倒れ伏した一人の女。 天使は躊躇い一つ見せず、腕を振り上げた。 しかし。 槍はある一点から何か突き当たったかのように停止した。 「何!?」 「困るんだよねぇ、勝手なことをしてもらうとさ」 天使が声の主を探すより先に、怜悧な容貌が歪んだ。 そして、天使は闇に消えた。 後は持つ手を失った槍が重力に従い、大地に落ちて光へと霧散するだけ。 その名残を踏みつけるように現れたのは一人の青年。 色素の薄い金色の髪に翠の瞳、柔和な顔立ちは天使たちと同じ趣きを湛えている。 だが、微笑みを浮かべる表情に潜むものは決して同じものではない。 「だから言ったのに……」 わざとらしく肩を落として、青年は重さを感じさせず女を抱き上げた。 さらさらと女の長い黒髪が滑り落ちる。 完全に意識を失った女はそれまでの苛烈な印象が嘘のようなあどけなさが残っていた。 その差に青年は思わず苦笑する。 少女と言える年齢なのに、そうとは思えない印象は彼女の魂の在り方のせいだ。 射抜くような眼差し。 辛辣な、鋭い刃のような言葉。 剣、ではない。 たとえるなら、弓だ。 しなやかな、それでいて威力のある優美な凶器。 (だけど) 青年は自らの肩にもたれるように女の頭を移動させて小さな溜め息を吐く。 (今の君は毀れた弓にたとえるべきかな) 張り詰めすぎた弦が不意に切れてしまった弓。 天使たちを闇に消した力は大分馴染んだとはいえ、元々女の裡にはなかったものだ。 異質な力は女の体に負担をかける。 あんな風に手加減もせずに力を使えば、女が倒れることなど青年には分かりきっていたことだった。 本来なら彼はもっと早くに制止に入るべきだった。 何故なら、彼女は現在彼の庇護下にあり、守らなければならない存在だった。 そう、少なくとも今は。 だが、青年は女が倒れるまで傍観に徹していた。 理由は簡単だ。 激しい感情を秘め、氷の瞳に憎悪の炎を宿し、狂気さえ纏いながら戦う女の姿は美しかった。 その姿をできるだけ長く見たいと青年は思い、そして実行したのだ。 くすりと青年は笑う。 そして、愛しげに女の額に唇を寄せ、そっと静かに囁いた。 「……毀れるなら的を射落としてからだよ?」 |
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