かたりと、暗闇の中で物音がした。 そして、床の軋む音と共に、一人の女が部屋の中に入ってくる。 少し埃っぽい空気に、女はわずかに眉をひそめ、ゆっくりと辺りを見回した。 中途半端に開いたままのクローゼット。 飲みかけの水が入ったコップ。 テーブルの上には栞が挟まった本。 そして、花瓶には枯れた花。 この部屋を出たのはいつだったか。 記憶を辿り、女は自身が考えていたより時が流れているのを悟った。 (あのバカ、人を何ヶ月幽閉していたんだ?) 看病と嘯いて寝台に縛り付け。 彼女が現実を認める間軟禁して。 そして、異形の存在と自ら変じた彼女が安定する間、ずっと異空間へと封じた。 必要な時間ではあったが、それにしては彼女の時間感覚がずれている。 (何か、仕組んだな……) 平然と優しい微笑みで嘘を吐く、信用のおくことなどできない異質な存在。 利用することに躊躇いなど欠片にも覚えない。 ただ、至高なる正義を語る者たちに比べて、憎しみや怒りが少ないだけ。 優しい気遣いも偽りと分かっていれば、効果はない。 そんなものに縋るほど愚かではないことに、女は自嘲の笑みを浮かべる。 差し出された手を命綱のように思えば、その瞬間、手放すような男だ。 それも、おそらく、自分の楽しみだけを理由に。 男が彼女に協力しているのも――否、利用されてやっているのも同じ理由だろう。 互いが互いに価値を見出している間の関係。 たった数ヶ月前、彼女が失ったものとは比較にならない。 ふと、彼女は暖炉の上に立てかけられた写真立てに視線を止めた。 セピア色の小さな紙。 長方形に切り取られた、在りし日の断片。 笑顔を浮かべた若い夫婦と、すました顔の少女、そして、一人だけ顔を横に向けた幼女。 両親と、姉、そして、彼女。 物心付く前に船舶事故で死んだ両親は女にとって写真の中だけでの存在だった。 それでも、過去の一瞬を写し取った姿は見ているだけで微笑みが浮かんだ。 父は母を愛していた。 だから、一緒に逝けて幸せだったのだと姉は言っていた。 病弱な母だったから、残されてしまってはきっと父は狂っていただろうから、と。 (だったら、姉さん、あなたは幸せ……?) 次の瞬間、女は自らの問いを否定した。 否。 そんなはずがない。 あんな死に方で幸せであるなど。 女の激情に反応するかのように、ぴしりと写真が嵌った硝子にひびが入る。 幸せになるはずだった。 幸せを作っていくと約束する日だった。 その日に、白い翼の殺戮者に夫となるべき者を殺されて。 自らも殺された。 (大切な人が死ぬ瞬間を見て、幸せなど思える訳が……ッ!!) それでも。 それでも、生き残るより幸せなのか。 今、こうして狂っているかもしれない自分より。 「ッ!!」 感情が爆発しそうになる瞬間、女の肩に重みがかかる。 「へぇ、これが小さな頃の君?」 耳元間近で届いた声に、女の感情が一気に冷めた。 くすくすと笑う声は若い青年のもの。 「で、隣が最愛のお姉さん?」 女は自らの肩に寄りかかり、問い掛けてくる青年を睨みつけた。 しかし、青年はにっこりと笑いかけるだけで、退こうとしない。 「離れろ。重い」 端的な拒絶に、青年は悲しそうに溜め息を吐いた。 (わざとらしい) 嘲るように鼻で笑い、女は青年から離れる。 「とにかく、お前は出て行け。邪魔だ」 「荷造り手伝うよ?」 「必要ない」 女の即答に、一瞬青年は虚を突かれて言葉を失う。 そうしている間に、女は旅支度を整えようと部屋の中を動き出す。 いつ終わるか分からない旅。 この部屋に、家に帰ってこれるか分からない。 荷物は必要最低限でいいだろう。 後は必要に応じて用意すればいい。 テキパキを動く女を青年は感心して見守っていた。 そして、最後に女が荷物を纏め上げるのを見て、わずかに眉をひそめた。 「あれ? コレは持っていかないの?」 青年の言葉に、女は視線を移した。 男の癖にやけに整った指が差していたのは先ほどまで女が見つめていた一枚の写真。 「……いらない」 わずかな沈黙をどう受け取ったのか、青年が穏やかに笑いかける。 「別に、邪魔になるものじゃないよ?」 見透かしたような微笑み。 労わるような眼差しの奥底に潜む闇。 柔和な容貌に隠された獰猛な精神。 手当たり次第破壊するのではなく、ふと何気なく何の感慨もなく呼吸するのと変わりない感覚で破滅を楽しむ。 青年にとって、すべてが等価値で、だからこそ女が唯一『特別』に成り得た。 創造主たる神を殺そうとする者となった彼女に。 青年の力の一部を自らのものにし、同一の存在となった彼女に。 「邪魔だ」 視線を戻し、女は冷淡に告げた。 「一瞬の過去は今の私には必要ない」 切り取られた『幸せの過去』で、今も心を苛む『赤の過去』を消せない。 「今の私が欲するのは――神の息の根が止める一瞬だけだ」 |
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