「何か、釣れる?」
 何気なさを装ってかかった声に、老人は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「また、お前か」
「そう、また僕」
 にっこりと笑う青年の顔が湖面に映る。
 それを見やり、老人はわずかに顔を歪めた。

「……何しに来た」

 低い問いに、青年は笑った。
「だから〜、釣りの成果を聞きに来ただけよ」
「見て分からないのか」
 青年はちらりとバケツの中を見た。

「空っぽだね」

 端的な答えに、老人は再び鼻を鳴らした。
 さっさと帰れと無言で宣告された青年は苦笑する。
「それにしても、世界に名を馳せた優秀な医師が今では釣り人とはね……」
 意味ありげな言葉に、老人の眉が跳ねる。
 そして、ゆっくりと睨みつけるような眼差しで青年を見つめた。
 青年はそれを平然と受け止め、にっこりと笑う。

「そんなに衝撃的だった?」

 老人はかつて優秀な医師だった。
 多くの難病を患う者を助け、自らの仕事に誇りを持っていた。

 そんな彼が唯一願っていたこと。

 生まれつき難病を抱え、歩くことすらできない余命少ない娘を助けること。

 多くの支援と、激しい情熱を注いで、老人は研究に励んだ。
 そして、研究は実を結び、彼の娘は自らの足で大地を踏むことに成功した。

「嬉しそうに笑っていたね」

 青年の言葉に喚起され、老人の脳裏に愛娘の笑顔が蘇る。

 しかし、その笑顔は次の瞬間血に濡れたものへと変化した。

「ッ!」

 唇を噛み締め、老人は肩を震わした。

 未来を確かに許された彼の娘は――――突然の事故で命を失った。

 彼が駆けつけた時にはすでに娘は冷たい肉の塊と化し、二度と笑うこともない姿になっていた。

 彼がどんなに優れた医師でも、死者を癒すことなどできるはずがない。
 助けようと手を尽くす暇さえ与えられなかった。
 あれほど長い時間をかけて救った命がたった一瞬で失われたのだ。

 その何よりも愛してきた命が。
 たった一つしかない命が。
 彼の喜びが。

 元々、余命幾ばくもない命だったことなど何も慰めにならない。
 それが『運命』だったのだと割り切れるはずがない。

 確かに、この手で救った命だというのに。

 あまりにもあっけなく死を迎えたことに、老人は自らの、否、医術の限界を知り、創造主たる神に不審を抱いた。
 そして、彼は世間から姿を隠した。

「そんなに絶望した?」

 無邪気さえ湛えた問いは残酷だった。

「彼女は自分が死ぬことさえ理解しないまま、喜びに満ちたまま逝ったんだよ」
 ゆっくりと青年は静かに続ける。
「床に伏し、死が訪れるのを待ち構え続けるのとどっちが良かったと思う?」

「……」

 老人は答えず、無言で視線を湖面に戻した。
 その様子に、青年は薄く笑った。
「この世界の生命はすべて繋がっているんだよ。……そうであるように、創造されている」

 時には糧として。

 すべての生命の死が、何らかの意味を齎す。

「人間だけだよ。『死』を恐れ、拒もうと足掻くのは」

 そして、青年はくすりと笑った。

「ま、もっとも、僕はそっちが好みだけどね」

「……他人が苦しむさまを見て、楽しいか」

「楽しいよ」

 青年の即答に、老人は言葉を失った。
 その様子を見て、青年は再びくすりと笑う。
 次の瞬間、老人の不機嫌さは増した。

「だって、神の手によって創造された世界が変わっていくのに興味を持って当然だろう?」

「何……?」
 思いがけない言葉に、老人は青年を凝視した。
「たとえば、世界をこの湖に、人間をこの小石としたらね」
 おもむろに青年は足元に転がっていた小さな石を手にし、そのまま湖に投げ込んだ。

 小石は湖に呑み込まれ、波紋を残す。

「波紋という変化は一時的に世界を変えるけど、すぐに消える」

 そして、青年は悠然と笑った。
 その笑みは青年の柔和な風貌に似つかわしくない、どこか虚ろな印象があった。

「けれど、同じことを繰り返すと、どうなると思う?」

 問い掛けれた老人は眉をひそめ、無言を守った。
 元々、答えを求めていなかったのか、青年はすぐに続けた。

「水底に沈んだ小石が積み重なり、湖面に現れて、陸地となる。世界を変えることができるってことさ、人間の足掻く様はね」

「この世界を変えることなら、お前とてできるだろう」
 出会った時から姿を全く変えない青年に、老人はふんと鼻を鳴らした。
 青年は一瞬喉の奥で笑った。
「それがダメなんだな〜。僕だと変化どころの話じゃないよ」

 くすくすと楽しそうに笑いながら、青年は澄んだ翠の瞳に物騒な輝きを煌かせた。


「さっきの例え話で言うなら、この湖が干からびてしまう感じかな……」


 その返答に、老人の顔から表情が消える。

「とっとと消えろ、この魔物が」
「あ、ひどい。僕と魔物を一緒しないで欲しいな」
「同じだ」
「違うってば」
 何度か同じ会話を繰り返し、やがて青年は諦めた様子で肩を落とした。

「いいよ、全く、頑固だなんだからさ。ここは僕は引き下がりましょう?」
 そして、青年は静かに微笑む。
「でもさ、ホントに僕は魔物じゃないんだよ」

 老人は青年の言葉を無視して、釣り糸の具合を確かめようと手を動かした。
 その瞬間、小さな囁くような呟きが老人の手を止めさせた。

「!?」

 慌てて視線を青年に視線を戻した瞬間、目の前を無数の漆黒の羽根が舞う。
 そして、羽根が消失した時には青年の姿は完全に消えていた。

「……バカな……そんなことが……」

 青年の言葉を反芻し、老人の手から釣竿が滑り落ちた。







――だってさ、魔物も神の創造物なんだよ。










004:マルボロ     006:ポラロイドカメラ

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