氷の福音








「レ……レイドリックッ!!」


 それは絶叫にも等しい声だった。
 次の瞬間、炎の蛇は一瞬にして凍りつき、粉々に砕け散る。
 その光景にシシルは我に返った。そして、ゆっくりと息を吐き、状況を把握しようとした。
 一体、何が起こったのか。
 突きつけられた現実に、我を忘れて暴走し、使わないと決めた魔法を行使してしまった。
 それは、分かる。
 そして、シシルの放った攻撃魔法は老公爵を討つ直前に阻まれたのだ。


「――お呼びですか、お祖父様」


 凛とした冷静な声が、静かに響き渡った。
 声の主は氷室の入り口に立っていた。
 淡い金色の髪に、若葉の瞳。同じ容貌をしているというのに、日溜まりのような印象を与えるセリシアと違い、感情の色が稀薄な彼は硬質の印象を拭えない。
 ヴァルトリー公爵家の後継者――レイドリック公子。
 息を呑んだシシルを、ちらりと冷ややかに見やり、次いでレイドリックはその背後に横たわる少女を見た。
「レイドリック――」
 茫然とした祖父の呼びかけに、レイドリックは視線を移し、わずかに双眸を細めた。
「お祖父様?」
「今すぐ、そこの男を始末しろ」
 冷徹な命令だった。
 だが、レイドリックは顔色一つ変えなかった。
 シシルは無意識のうちに身構えていた。
 ヴァルトリー公爵より、この青年の方が余程油断がならない。
 底が知れないのだ。
 思惑が読めない。こんな状況になっても、レイドリックからは敵意を感じられなかった。
 そして、レイドリックの口が開く。
「残念ながら、そのお言葉には従いかねます」
「……何?」
 老公爵はまじまじと自らの孫を見つめた。
「今、何と……?」
「従えないと申しました」
「レイドリック!?」
 驚愕を隠せない祖父を、レイドリックはどこまでも冷ややかだった。
「お祖父様、事を急いて仕損じるなど、貴方はこのヴァルトリー公爵家の当主として不適格です。よって、私は速やかなる爵位継承を要求します」
「何を、何をバカなことを言っている! ヴァルトリー家のためなればこそ、この男を処分するのだ」
 驚きを怒りに変え、老公爵は唸るように断じた。
「事を荒立てずに『竜殺しの魔術師』を倒すことは不可能ですよ」
「ッ!?」
 さらりと言い放たれた言葉に愕然となったのはシシルだった。思わず、鋭い詰問の眼差しをレイドリックに注ぐ。
「……何? 『竜殺しの魔術師』、だと?」
 ゆっくりと老公爵はシシルを見た。
 漆黒の髪に群青色の瞳の青年はどこにでもいそうな男だった。
 柔和な容貌と温和な雰囲気。
 魔術師たちが持つ特有の鋭さはなく、ましてや『竜殺し』の異名を持つ魔術師とはすぐに信じ難い。
 そんな祖父の心を読み取ったかのように、レイドリックの言葉が続く。
「シシル・ラネッド――本名はシーゼルク・ラルネ・ディーウ。正規魔術師としての登録がされる前に失踪しているので、確認を取るまで時間がかかりました」
「――何故、私がそうだと?」
 がらりと変わった低い声音に、レイドリックは数瞬シシルを見つめる。そして、やんわりと微笑みを浮かべた。
「!」
 それは苦笑に近いものだった。
「……事前に入手していた情報と幾つか合致していたからね」
 生真面目にレイドリックは答えると、再び祖父に視線を移した。
「お分かりですか、お祖父様。彼を消すにはこの辺り一帯破壊されるくらいの被害が出るのです」
 優れた魔術師と言うのはその威力だけではない。その技も卓越している者だ。竜という到底一人の人間だけでは太刀打ちできない存在を、たった一人で倒した魔術師となると、その威力も尋常ではない。
 殺されると知って、抵抗しない人間などいない。まして、自分が抵抗できる力を持っているなら、使わないはずがない。
 激しい魔法の応酬に、この近辺は容易に吹き飛んでしまう。
 そして、レイドリックが危惧しているのは、その被害自体ではなく、被害によって事が世間に晒されることだった。
「では、どうしろと言う気だ!?」
 問い詰められたレイドリックは半ば呆れた様子で軽く肩を竦めた。
「だから、問題なのですよ」
 若葉色の瞳は動揺を隠せない老侯爵をしっかりと捉えていた。
「ここまで状況を悪化させたのは、お祖父様、貴方の失態。ヴァルトリー公爵家を脅かす者は何者であろうと排除する」
「儂を殺す気か……?」
 掠れた問いに、レイドリックは優雅に微笑んだ。
「――老後を穏やかに過ごせる保養地は整えさせていただきますが?」
 次の瞬間、老公爵は鋭い一瞥を投げかけたかと思うと、矢継ぎ早に呪文を編み出す。
「我、導くは疾風の牙、継ぎて千輪の爪痕!」
 無数の風の牙と真円がレイドリックに襲い掛かる。
「何!?」
 思いがけない老公爵の行動に、シシルは驚愕の声を上げた。
 風に巻かれ、蒼い氷霧と冷気が舞い上がる。
 レイドリックはわずかに瞳を伏せた。
「――我、定めるは回帰の途」
 小さな囁くような呪文。
 その意味するものに、シシルは言葉を失った。
(魔法の強制解除呪文!?)
 一度組み立てられた魔法が分解され、拡散していく。
 防御魔法の中で最上級呪文――だが、それを実際に行使できる魔術師は魔法王国ディナムにも数人しかいない。
 それをレイドリックはいとも簡単に、通常の魔法と同じ詠唱時間で展開した。
 その事実から導かれる実力に、シシルの全身が震えた。
(恐怖?)
 否、違う。
 これは、この感覚は――十年前、千年竜と対峙した時と同じものだ。
 圧倒的な力を持つ稀なる存在を目にした時、シシルは――シーゼルクは戦慄し、硬直した他の魔術師たちとは対照的に精神の昂ぶりを覚えた。
 見たこともない、感じたこともない力。
 それが現実にある。
 これが現実なら、その理論と数式を理解すれば、その力は幻や伝説ではなく、確固たる存在を持つ。
 まるで何かに取り憑かれたように、シーゼルクは千年竜の前に立ち、その場で次々と魔法を放った。
 ありとあらゆる属性、韻律を変え、音域を変え、既成の魔法を改変し、新たなる魔法へと作り変えていく。
 魔力は尽きなかった。
 どれほどの魔力が自らに秘められているのか、シーゼルクはもちろんのこと師である魔術師でさえ見極められていなかったのだ。
 そして、シーゼルクは『竜殺しの魔術師』の名を得た。
 だが、その彼にしても、レイドリックの存在は驚愕に値した。
「我、開くは時空の扉!」
 高らかに響く呪文。
 風が消え、周囲が落ち着きを取り戻した時、氷室の中から老公爵の姿は消えていた。
 それを見て取り、レイドリックは嘆息した。
「やはり、当主の座に固執するか……」
 そして、彼は驚愕に硬直しているシシルの名を呼んだ。
「シシル・ラネッド」
「!」
 シシルは我に返り、綺麗な若葉色の瞳が見ていることに気づく。
「貴方の目的は達せられたはず。このまま、速やかに去り、生涯沈黙を守り、二度とヴァルトリー家に関わるな」
 シシルは一度唇を湿らせ、探るように問うた。
「それは、命令か?」
 挑みかけるような響きを感じ取ったのか、レイドリックは薄く笑った。
「ならば、復讐でもしてみるかい?」
「……それもいいな」
「それが本気なら、私も多大な犠牲を覚悟に応じよう」
 シシルは絶句して、レイドリックを見つめた。
 犠牲に含まれているのはヴァルトリー家の威信ではない。この辺り一帯に住む領民の命や生活だった。
 レイドリックはヴァルトリー家を守るために、事を密やかに終わらせたがっている。だが、それも、自らの命がかかるのなら、仕方ないと考えているのだ。
「憎みたければ憎めばいい。お前にはその権利はある。だが、手を出す気なら、容赦はしない」
「!」
 答えようがなかった。
 憎いと問われれば憎いのだろう。セリシアを殺した人間を許せるはずがない。だが、殺意を抱くには目の前の青年は彼が愛する少女と似すぎていた。
 向けられる眼差しも、紡がれる声音も、全く違うのに。
 それでも、何か引き止めるものが存在した。
 不意に、張り詰めた琴線が震えるような音が鳴り響く。
「!?」
(これは)
「……かかった」
 ぽつりと呟き、レイドリックはふっと視線を宙に彷徨わせた。
「――我、開くは時空の扉」
 次の瞬間、レイドリックの姿が音もなく消失する。
 そして、シシルはレイドリックが先に消えたヴァルトリー公爵を追っていったことに気づいた。
 先ほどの音は結界の境界に何かが触れた時に発せられるもので、魔力を持つ者にだけ聞こえる。
(どこに行った?)
 結界の発した音はすでに途絶えている。だが、その余韻はまだ大気に残っていた。
 シシルは思わず、その源を探ろうとしていた。
 行ってどうしたいのか、何があるのか、分からない。だが、このまま、見過ごしていてはいけないと心の奥底で何かが囁いていた。




 祖父の姿はすぐに見つけることができた。
 祖父は行く手を阻む結界に茫然と立っていた。
 わずかに揺らめいている結界の様子だと幾度か結界を破るために魔法をぶつけたようだ。
「お祖父様」
 レイドリックが静かに呼びかけると、老人とは思えない機敏な動作で老公爵が振り返った。
「レイドリック!」
「無駄です、お祖父様。私の張った結界は破れない」
 ぎりりと激しく唇を噛み締め、老公爵は目の前の孫を睨みつけた。
「……これは私に対する復讐か、セリシア!?」
 呼ばれた名に、レイドリックはくすりと嗤った。
「違うでしょう、私はレイドリックです」
「黙れ! 儂が気づいていないと思っていたか。お前にはセリシアの記憶が残っている」
「――だから?」
 空気が凍る。
 針で刺すような痛みを肌に覚え、老公爵は慄いた。
「それで、私が貴方を殺すのだと? ……冗談にしては質が低いですよ、お祖父様」
 淡く、静かに微笑みながら、レイドリックは続けた。
「確かに、否定はしません。私の裡にはセリシアの記憶がある。しかし、今の私はヴァルトリー公爵家の後継者レイドリックなのです。それを望んだのは他ならぬ貴方だ」
 セリシアの兄レイドリック公子が亡くなったのは不慮の事故だった。しかし、後継者を失う訳にはいかなかったヴァルトリー公爵は禁断の蘇生魔術に行った。
 ヴァルトリー公爵家は魔法王国ディナムの『闇』を司る一族。
 そして、禁忌とされ、封じられてきた魔法を統べ、王国を影から支えてきたのだ。
 老公爵は公爵家に伝わる禁忌の秘術の一つに手を出して、自らの孫を蘇らせた。だが、蘇生したのはその肉体と命だけ。
 レイドリックの魂はすでに現世から飛び去っていた。
 魂のない肉体は朽ち、やがて命の灯火は消え去る定め。
「死者を蘇生させる秘術……貴方にはそれを可能とする魔力も知識も財産もあった。ただ、問題だったのは対象たるレイドリックの魂を呼び戻すことができなかったこと。――血の繋がりだけでは成し得なかった。貴方と貴方の孫との間には何も存在しなかった。皮肉なことです。ヴァルトリー家の後継者であることを強要し続けたがゆえに、貴方は彼の魂を取り戻せなかったのだから」
 そして、公爵家の後継者を取り戻すため、老公爵はレイドリックに最も近しい者の魂で補完することにしたのだ。
 レイドリックに近しい者――同じ血を持つ、彼の、もう一人の孫――セリシア。
 偽物の兄からの手紙で呼び寄せられたセリシアはその体から魂を奪い取られ、兄レイドリックの体に移された。
 そして、目覚めたのが彼――『レイドリック』だった。
 術者である老公爵の望む、ヴァルトリー家に相応しい後継者として、レイドリックは新たに生誕した。
「ですが、復讐など思い込みも甚だしい」
 わずかに若葉色の瞳を翳らせ、レイドリックは老公爵に哀れみが含まれた眼差しを注いだ。
「二人とも、貴方を憎みはしなかった。憎む価値すらなかったのです」
 厳しい祖父、公爵家の後継者としての重責。
 レイドリックにとっては息苦しさで生きている心地もしなかった。
「彼にとって『死』は貴方から、この家からの解放でしかなかった。生に対する渇望が彼にはなかった」
 それゆえに、蘇生は不完全な形で終わったのだ。
「彼女にとって『死』はないものと同じ。そんなことより、彼女には大事なものがあった」
 体から魂を切り離される痛みはなかった。自分が死ぬということさえ理解する時間はなかった。
 ただ、意識を失う最期の時まで、セリシアはただ一人の面影を想って、想い続けていた。
「だから、二人が復讐を望むことはないのです。そして、私も」
「ならば、何ゆえ!」
「理由など」
 不意に、レイドリックの秀麗な顔が嘲りに歪んだ。
「ヴァルトリー家に、貴方は不要になっただけのこと」
「!!」
「それだけ、ですよ」
 そして、レイドリックは静かに魔法を編み上げていく。
 男にしては繊細な手に、蒼い輝きが集束する。
 咄嗟に、老公爵は防御呪文を唱えていた。
「我、築くは昭光の壁!」
「――我、放ちて貫くは氷点の銀槍」
 次の瞬間、光り輝く壁を蒼い光の一条が貫く。
「何!? バカな……!」
 レイドリックの呪文を耳にし、老公爵が動揺した。
 通常、魔法の法則として、発動を促す言葉は一種類に限られている。だが、今、レイドリックの唱えた呪文には二種類の言葉が含まれていた。発動を促す言葉に限らず、呪文に複数の言葉を使うと、制御が難しくなり、発動の難度も上がる。
 それをレイドリックは容易く行使した――ヴァルトリー家の当主である自分でさえ、多少の時間が必要だというのに、だ。
 老公爵の隙を突くように、蒼い光は老公爵の心臓を貫く。
「ぐッ……!」
 胸元を抑え、老公爵は内側から侵食するレイドリックの魔法に抵抗を試みた。
「無駄です」
 優雅な所作で、レイドリックは右手を掲げた。細い人差し指と中指が揃えられ、宙に七芒星が描かれる。
「――我、奉ろうは永久の柩」
 七芒星が白い光を放つ。そして、それは老公爵の心臓に転移した。
「!」
 胸元に輝く七芒星の刻印。
 それは老公爵の抵抗を封じようとしていた。
 七芒星を起点に広がるレイドリックの魔法。
 抗っている間にも侵食し、老公爵の全身を自らの魔力で満たしていく。


「――――ッ!」


 突然、言葉にならない絶叫を上げ、まるで鉛の棒を呑み込んだかのような不自然な様子で老公爵の体が硬直する。
 極限まで見開かれた両眼。
 掻き毟るように胸に当てられた両手。
 晧々と静かに輝いているのは七芒星の刻印。
 レイドリックがふと瞳を伏せる。
 それを合図になったのか、七芒星から老公爵の体を蒼い氷が覆い始めた。氷はやがて老公爵の髪の先まで至ると、その勢いを速め、大きな氷塊となる。
 ふわりと七芒星が解けて、光の粒子となって上空に舞い上がった。
「……」
 きらきらと輝きながら、立ち昇る微細な光の乱舞に、レイドリックは何かを重ねるように遠い瞳で見つめた。
 不意に、かさりと背後で草を踏む音がした。
 レイドリックはゆっくりと振り返った。そして、視線の先に立つ黒髪の青年が驚愕の面持ちをしていることに笑みを浮かべた。
「去れと言ったはずだが?」





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