夕食の時、引き合わせられた老公爵は温厚そうに見えた。 だが、その深い緑色の瞳に老獪さが潜んでいるのにシシルは気づいていた。 一見、穏やかに進んでいく夕食が終わり、食後のティータイムの時だった。 「ほう、王都の大学院の方でしたか、それも魔法部の」 ディナム王国は魔法によって繁栄している国だ。 王室は優秀な魔術師を揃え、魔法兵団と呼ばれている軍隊も有している。 (確か、ヴァルトリー公爵家は代々魔法兵団の総司令を拝命していたな) 老公爵が魔法に関心があってもおかしくない。 とはいえ、実際の指揮をするのは熟練の参謀や将軍だが。 「……ただの資料整理員ですから、そんなに誉められたものではありませんよ」 「しかし、王都におられたのなら、かの高名な『竜殺しの魔術師』を見かけることもあられたのでは?」 千年竜と呼ばれた竜族の亜種。 十年前、海の果てより現れ、王国を危機に追いやった竜を一人の魔術師が討ち果たした。 かの魔術師は王家直属の魔術師の弟子であったという。 だが、かの魔術師は王家に仕えることなく、姿を消した。 名誉も地位も手放し、忽然と消した魔術師は世界のどこか隠遁生活を送っており、再び王国の危機迫る時に救いに現れるのではないかと人々は信じているらしい。 老公爵の言葉に、シシルは穏やかに微笑んだ。 「私より公爵閣下の方がお会いできる機会があったのではありませんか」 「いや、私は御覧の通り老いぼれになりましてな、宮廷に出ることも億劫になってしまいまして、ついにはお目にかからずじまいです」 「あぁ、それは残念でしたね」 差し渡りのない世間話を老公爵としながら、シシルはちらりとレイドリックに視線を注いだ。 怜悧な容貌は感情が稀薄で、まるで人形のように見えなくもない。たが、不意に若葉色の瞳に過ぎる輝きが生きた人間だと教える。もっとも、冷ややかな輝きは氷に触ったような錯覚を与えていたが。 ふとレイドリックの側に召使いが現れ、何事かを囁く。わずかに柳眉がひそめられ、彼は小さく頷いた。そして、上座の祖父に声をかけた。 「――お祖父様、急ぎの仕事が入りましたので、しばし失礼します」 「あぁ」 鷹揚に頷き、老公爵は軽く手を振った。そして、そのまま、シシルとの会話を進めようとする。 レイドリックは気にした様子もなく、席を立ち、扉近くで待っていた召使いの許に向かった。 「……レイドリック公子はもう実務に就いていらっしゃるのですか?」 老公爵の言葉が途切れた隙を見計らって、シシルはさりげなく尋ねた。 「ええ、そうです。いつ何時私が儚くなっても速やかに引き継げるようにと考えて、今では実務の大半を任せております」 「……聡明な方のようですね」 老公爵は穏やかに笑った。 「私の自慢の後継ぎですよ」 「何か御用がございましたら、こちらの呼び鈴でお呼び下さいませ」 淑やかに侍女が礼をして去るのを見送り、シシルは小さな息を吐いた。 ヴァルトリー公爵家はさすがに大きい。少し見ただけではセリシアがいそうなところなど分からない。 (まあ、貴族の家の造りなど、ある程度形式化されているから、予測はできるが――) 一番大きい、中心の棟を公爵家の住居部分とするなら、右手は召使いや侍女の住居棟、左手は厨房や裁縫室などの作業棟だろう。 (セリシアがいるのは、おそらく、この棟……) それも余り使い勝手良いとは言えない上部部分か。上の階は上るのも苦労するので、現在人数の少ない公爵家は使ってないと考えられる。 政略の駒として扱うなら、粗略な扱いはしていないだろう。 地下には牢や貯蔵庫が存在するが、そんなところにセリシアを幽閉するとは思えなかった。 (どちらにしろ、明日か……) 老公爵は油断できないが、まだ対処ができる。少なくとも、レイドリックを相手にするより、シシルは上手く立ち回れる自信があった。 大まかな明日の予定を立てながら、シシルは寝台に横になる。長旅のせいか眠りはすぐに訪れた――。 『シシル』 『セリシア?』 セリシアはふわりと笑っていた。 『大好きよ、シシル』 何度も耳にした言葉。 だが、今の言葉には悲しみが入り混じっていた。 『セリシア……?』 『本当に好きよ、シシル』 柔らかく微笑みながら、セリシアはシシルの頬にそっと触れる。 『ごめんね。好きだけど、もう側にはいられないの』 『セリシア!?』 シシルの腕を躱し、セリシアは陽炎のように遠ざかった。 『ごめんね』 『セリシア!』 『シシル……私を許して』 「セリシア!!」 飛び起きたシシルは一瞬自分がどこにいるか分からなかった。 (セリシアは!?) たった今、手の届くところに彼女がいた。 そう全身の感覚が訴えていた。 シシルは口元を抑え、鋭く部屋を見回した。 薄暗い闇に包まれた寝室。わずかに窓から入る月光と、小さな蝋燭だけが光源だったが、何もおかしなところはない。 誰かがいた、という訳ではなさそうだった。 「……冗談じゃない」 低く呻いて、シシルは凶暴ささえ感じさせる眼差しで虚空を睨みつけた。 「そんなこと、受け入れてたまるか――」 たとえ、夢でも、否、夢だからこそ、そんなものを見た自分が許せなかった。 二度と戻らないかもしれないという不安が彼の心に潜んでいたことを夢は教えた。 「冗談じゃ、ない」 もう一度繰り返して、シシルは寝台から出た。 何が起きても良いように、元々、夜着を着ていなかったシシルは小さな蝋燭を手に、足音を殺して歩き出す。 廊下は暗く、静かだった。 かろうじて、蝋燭に照らされた周囲は見えるが、その奥はまるで闇が光を吸い込んでしまったかのような暗さだった。 (調べるなら、上か……?) 階段の前で、シシルは一瞬躊躇した。不意に、肌の上を何かが通り過ぎたような、粟立つような感覚に襲われた。 (これは――) シシルの足は地下へと続く階段を選んでいた。 奥へと進むにつれ、内装も変わっていく。 それまで荘厳な気品溢れる調度と装飾が施されていたのだが、シシルが地下の最下階に就いた時、周囲は強固な石造りと魔法仕掛けの灯りのみだった。 シシルが一歩進むたび、灯りの光が自動的に点き、ぼんやりと照らし出す。 (何だ、ここは……) 地下の突き当たりの扉を前にシシルは立ち尽くしていた。 じわりと額に汗が滲んでくる。 扉の向こうから、密やかに漏れてくる異質な空気。 肌が粟立つような感覚に、シシルが息を呑んだ瞬間だった。 「こんなところで何をしておいでですかな?」 突然背後から届いた老人の声に、シシルは大きく反応して振り向いた。 突然現れたヴァルトリー公爵に息を呑み、次いでシシルは表情を取り繕った。 「驚かさせないで下さい、公爵」 かすかに笑みを浮かべて、シシルは畏まる振りをした。 「少し寝付けなくて気晴らしに部屋の外に出たら迷ってしまいまして……」 「ここに来てしまったと?」 「え、えぇ」 公爵は一つ頷き、シシルに小さく笑いかけた。 「顔色が悪いようですが、何かありましたか?」 「少し――夢見が悪かったので」 「おや、それはいけませんな。ゆっくり休めるよう薬湯でもご用意させましょうか」 その言葉に、シシルは曖昧に頷きながら、ちらりと視線を扉にやった。 「あの、ここは何ですか?」 「氷室ですよ」 「氷室……?」 思いがけない答えに、シシルは眉をひそめた。 氷室とは夏場でも氷や、食料を保存するための場所のことだ。 この感覚はその冷気なのだろうか。 不意に、老公爵は低く笑った。 「と言っても、ここは特別でしてな」 その言葉に何か含むものを感じて、シシルは群青色の瞳を訝しげに細めた。 「我が家は代々魔法兵団総司令を拝命していることもあって、魔法技術の恩恵に預かることも多く、この氷室のその一つ」 そして、老公爵はシシルの側を通り、扉に手を押し当てた。 「興味がおありというなら、御覧になると宜しかろう」 重々しい、軋む音が空気を震わせる。 緩やかに足元から忍び寄ってくるのは冷気――ではない。 (これは) 濃厚な、空気はシシルの肺を満たすと同時に全身を侵していく。 痙攣するように小刻みに震える指に気付き、シシルは拳を作り、胸元に引き寄せた。口元を引き締め、薄暗い扉の向こうを凝視した。 (これは魔力だ) 次の瞬間、シシルの思考が止まった。 目の前に広がるのは蒼い氷霧。 わずかな光を孕んで、揺らめく輝きの美しさの、その向こうに、『彼女』がいた。 シシルが捜し求めている――セリシアが。 「セリシア……ッ!」 何もかも忘れて、シシルはセリシアの許へ駆け寄った。 冷ややかな霧の正体さえ気付くことなく。 老公爵の面に浮かんだ嘲りの笑みを知ることなく。 「セリシア!?」 その華奢な肩に触れた瞬間、シシルはその場で硬直した。 冷たい。 温もりが、ほんのわずかにも感じられない。 異変を察して、そして、ようやくシシルは恋人の置かれた状況を理解した。 細い体が横たわるのは氷の柩。 それも、ただの氷ではない。魔法で創られた一種の封印だ。 「!?」 不意に、膨れ上がる何かに、シシルは振り返る。 「我、招くは空虚なる炎!」 その言葉の意味を理解するより早く、目の前で生じる真紅の炎にシシルの口が開いていた。 「我、築くは昭光の壁!」 次の瞬間、光り輝く壁が炎の奔流を受け止めていた。 「……ほう、さすが学院の魔法部にいただけのことはありますな。咄嗟にこれだけの防御壁を構築できるとは」 感心した様子で、シシルを攻撃した老侯爵は頷いた。 「――何のつもりですか、これは?」 緊張の色を隠せない声音で、シシルが低く問うと、老公爵は穏やかに笑いかけた。 しかし、逆に危機感を抱いたシシルは背後に横たわる恋人を庇うように構え、群青の瞳を細めた。 「ヴァルトリー公爵?」 「わざわざ、我が孫娘を探しに来られたのでしょう? ならば、共に逝かれると良い」 そして、老公爵は笑みを消す。 「我が杞憂の種と共に!」 その瞬間、シシルは叫んでいた。 「我、招くは戦慄の風!」 突如、巻き起こった疾風が老公爵に向かって襲い掛かる。 だが。 「――我、命ずるは静粛の調べ」 落ち着き払った言葉が響いたかと思うと、シシルが放った風は老公爵に届く寸前で掻き消えた。 「!!」 「いや、見事見事。王宮に仕える魔術師と何ら遜色ない腕前だ」 そして、老公爵は絶句しているシシルに気付いた。 「それほどに驚くことかね? 私が魔法を扱うことが」 シシルは答えようとしなかった。 確かにヴァルトリー公爵家は魔法兵団の総司令を代々引き継ぐ家柄だ。だが、経歴を調べても、総司令であったヴァルトリー公爵が魔術師であったことはない。戦場に赴いても、彼らのしていたことは領地にいた時と変わらない執務を行なっていたという。 しかし、シシルの胸の内を占めていたのは別の事柄だった。 「セリシアをどうする気だ?」 「どうする……?」 老公爵は喉の奥で低く笑った。 「どうもしない。どうかしようもない」 訝しげに睨んでくるシシルの眼差しに、老公爵は嘲りの笑みを返した。 「その柩が封じているのは『何』だと思われるかな?」 「な、に?」 「よく見るがいい」 その言葉に引き摺られるかのように、シシルは再び恋人の姿を視界に収めた。 癖のない淡い金髪。透き通るかのような白皙の肌。固く閉じられた瞼。長い睫がかすかにも震えることもない。 シシルの記憶の中と何一つ変わらない。 変わらなさ過ぎる。 「ッ!」 思わず、シシルは後ずさった。 「ま、さか――」 (セリシアは) 氷の柩が封じているもの。 それは『セリシア』ではなく、セリシアの『時』。 周囲の世界が崩れるような錯覚に襲われながら、シシルは現実を理解した。 セリシアがすでにこの世の者ではない、という事実を。 (セリシア、セリシアセリシアセリシア、セリシアッ!!) 声にならない必死の呼びかけが、シシルを支配する。 認めたくない現実に突き動かされる感情。 滾るような血が逆流する。 息ができない。 「もはや思い残すことはなかろう。我が孫娘の躯とも消えよ」 ヴァルトリー公爵の声が遠かった。 だが、シシルは膨れ上がる魔力の波動を知覚した。 音によって導かれる力。 唱える者の意志によって構築される現象。 与えられた命題を果たすために具現する破壊の一矢。 ……馴染みのある、独特の、魔法によって創り出される感覚に、認識するより早くシシルの体は動いていた。 「我、紡ぐは煉獄の楔」 右手の人差し指と中指を揃え、宙に描き出される七芒星。 虚空に刻まれた魔法陣から、火焔が溢れ出し、老公爵が放った破壊の矢を呑み込んだ。 「何!?」 静かに視線を上げ、シシルは抑揚の欠けた声音で続けた。 「――我、銘ずるは業火の蛇」 溢れ出た炎が蛇の形を取り、老公爵の周囲を取り囲む。 「くッ! 我、求むるは安寧の霧!」 老公爵の抵抗に、炎の蛇は打ち震える。蛇の巨体を多分に水を含んだ霧が包み込もうとしていた。 弾ける、魔力の波動が大気を震撼させる。 だが、シシルの表情は変わらなかった。 感情の抜け落ちた、否、瞳に凝縮された激情が彼の思考を停止させ、ただ向けられる殺気と魔法に、反射的に応じていた。 「我、与えるは多重の標」 その瞬間、蛇の鱗が輝きを増し、白く太陽のように燦然と煌いた。 炎の蛇の体が揺れる。 それはまるで自らを縛り、苦しめる霧に対する怒りの表れのようだった。 「!」 そして、霧が消える。 老公爵の魔法が創り出した霧は蛇が放つ熱気に掻き消されたのだ。 灼熱の炎が目前に迫るのを見て、老公爵の顔が引きつり、歪んだ。 |
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