氷の福音








 セリシア・ノーマン。
 長く美しい、癖のない淡い金髪。白皙の肌に、若葉の瞳。優しい顔立ちに相応しい鈴のような声音。
 明るく、まっすぐな心。
 大学院の研究生。
 そして、シシル・ラネッドの恋人。
 その彼女が失踪して三ヶ月後、シシルは中腹の丘に建てられた屋敷の大扉の前に立っていた。
 長い道程を馬車で乗り継ぎ、着いたのは広大な土地。
 その果てに存在する大きな屋敷。
 シシルが立つ大扉の向こうは尋常ではなく広い庭だ。外からでは屋敷の正面入口が見えない。
 庭は手入れがされているようだが、それでも鬱蒼としている雰囲気が否めない。
「ここがヴァルトリー公爵家……」
 小さく呟き、シシルは手に持っていた手紙を握り締めた。


『ねえ、見て! 兄から手紙が来たの!』
 ある日、嬉しそうな笑顔でセリシアは彼にそう告げた。
『兄? セリシアに兄がいたと初耳だな』
『あら、言ってなかったかしら。私の両親が離婚して、兄は父の許へ、私は母の許へ引き取られたのよ。長い間、音信不通だったのだけれど、ずっと探してくれていたみたい……』
 セリシアは感慨深げに呟いて、そっと手紙を抱き締めた。
 彼女の母は数年前病死しており、天涯孤独の身の上になっていた。そして、残されたわずかな遺産で進学しているのだ。
『兄の方でも引き取られてすぐ父が事故死して、今は祖父の許にいるらしいわ。私、次の連休を利用して会いに行って来ようと思うの』
 そして、セリシアは姿を消した。


 何故、止めなかったのだろうと彼は後悔した。
 せめて一緒に行けば良かったと何度も思った。
 しかし、どんなに過去をやり直したいと願っても、セリシアは一人で旅立ち、そして行方不明になった事実が変わることはない。
 シシルは彼女の行方を探し、どうにか見つけた手紙を頼りに、ここ――ディナム王国ヴァルトリー公爵領までやって来たのだ。
(まさかセリシアが公爵家縁の娘だったとは……)
 手紙の送り主はレイドリック・ファン・ヴァルトリー。
 覚悟を決め、シシルは大扉を叩いた。
 重厚な音を立て、軋みながら大扉がわずかに開く。
「どちら様でしょうか?」
 門番の誰何にシシルは躊躇いもせずに答えた。
「レイドリック・ファン・ヴァルトリー殿にお会いしたい。私はシシル・ラネッド。セリシア・ノーマンの知人だ」


「何? 私に会いたいと男が?」
 連絡を受けた青年は詳細を聞いて、柳眉をひそめた。
「会う理由などないが、私の手紙を持っているなら、しらを切るのは無理だろうな……」
「どうなさいますか?」
「――通せ」
「はい」


 レイドリックを見た瞬間、シシルは思わず用意していた挨拶の言葉を失った。
(セリシア!?)
 肩口で切り揃えられた淡い金髪の髪。若葉の瞳。
 貴公子と呼ぶに相応しい気品と優雅さを湛えた青年はシシルの恋人セリシアと瓜二つだった。
 だが、セリシアとは違い、怜悧な印象が強い。
「ようこそ、我がヴァルトリー家へ。シシル・ラネッド殿?」
 呼びかけられ、シシルは我に返る。同時に、ぞくりと背筋が震えた。
 穏やかな、落ち着いた声に冷ややかな響きを認めたためだった。
「――失礼しました。突然の無礼御許し下さい」
 そして、シシルは軽く礼をした。
「私はシシル・ラネッドと申します。失礼ですが、レイドリック公子でいらっしゃいますね? ――セリシアの兄上の」
 レイドリックの柳眉がかすかにひそめられた。そして、薄く微笑む。
「知らない、と言っても無駄なのでしょうね?」
 嘲笑を見た瞬間、シシルの頭から相手が公子であることが消えた。
「当たり前だ! 私の許には貴方がセリシアに宛てた手紙があるのだから!」
「……ならば、手紙を貴方から奪えば済む話だと思いませんか? 折よく、貴方は私の目の前に立っている」
「!」
 しばしの睨み合いの後、レイドリックは喉の奥で笑った。
「冗談ですよ。えぇ、確かに私はセリシア――妹に手紙を出しました。それがどうかしたのですか?」
 平然と返され、シシルはわずかに戸惑った。
「……セリシアが貴方に会いに行くと言って、姿を消したんです」
 レイドリックは無言でシシルを見つめた。そして、若葉色の双眸を細める。冷淡な眼差しがシシルを見据えた。
「――セリシアがここにいると?」
「彼女が望んでここに留まるというなら、連絡一つも寄越さないはずがない」
「何故?」
「私は彼女の恋人です」
 シシルの即答に、レイドリックは微笑した。
「なるほど。いいでしょう、貴方の滞在許可をいただけるよう祖父に進言しましょう。気の済むまで屋敷内を探すと宜しい。……しかし、どんなに探してもセリシアはいませんが」
 そう言われて引き下がるシシルではなかった。
「見つけますよ、セリシアを必ず」
 その宣言に、レイドリックは冷淡に微笑んだ。
「では、私は失礼して祖父に伝えに行きます」
 そして、レイドリックは優雅に踵を返して、扉の向こうに消える。
 白皙の公子を見送り、シシルは大きく息を吐いて、柔らかなソファに座り込む。
 知らぬうちに随分緊張していたらしい。
 心の内が全く読めぬ公子の姿を思い出し、シシルは不可解そうに表情を歪めた。
 生き別れの妹をずっと探していたという割には冷淡なことだ。
 否、それとも、あの態度は公子として培われたものなのか。
 ヴァルトリー公爵家。
 大小多く存在する貴族の中でも類を見ない大貴族だ。今まで何度も王家と縁組を繰り返し、その揺るがない地位を築き上げてきた。
(父親が亡くなっているということは、彼が後継ぎか……)
 そして、セリシアは本来なら公爵家の姫君ということになる。
 実際、公爵家に来て、シシルの不安は大きくなっていた。
 セリシアの兄がヴァルトリー公爵家の者だと知った瞬間、思い浮かんだ考え。
 現国王アルトハイム・リィン・ディナムは即位して間もなく、妃もいない。
 そして、紛れもなく公爵家の血を継ぐセリシア。
 その彼女が帰ってきたなら、公爵家はまたとない駒を手に入れたことになる。
 貴族という種族は時折同じ人間とは思えない価値観で動くものだ。
(もし)
 この考えが現実となっていたなら、何としても助けなくてはならない。


『シシルは私のことが好き?』
『…………いきなり、何を言い出すんだ』
『私はシシルが好きよ、大好き』
 屈託なく心の内を明かすセリシアにシシルは何度も頭痛を覚えたものだった。
『セリシア……』
『だって、シシルが言わない分、私が言わなくちゃ』
 理由になっていない。
『――嫌?』
 小首を傾げて、見つめられ、シシルは言葉に詰まった。
『……嫌、ではないが……困る』
『だったら、シシルが言って。そうしたら、私は言わないから』
 どういった理屈なのか全く訳が分からない。
 ただ、言っても言わなくても、セリシアは笑っていた――彼の側で。


(好き、なんてものじゃない)
 シシルは心の中で呟いた。
 明るく温かい彼女の存在。
 それを失えるはずがない。誰にも奪われたくはない。
『好き』という、そんな一言で表現できる想いであるはずがない。
 シシルはずっと独りだった。
 多くの人間に囲まれ、ずっと独りだった。それくらいなら、本当に独りでいる方がいいと思った。
 だから、大学院の資料室管理員になったのだ。
 ただ、資料を整理し続ける毎日。
 興味を失われ、利用価値を失った資料たちに囲まれ、膨大な過去の知識に埋もれていた。
 そのまま息絶えても誰も気づきはしないだろうとさえ思った。
 そんな彼を見つけてくれたのがセリシアだった。
(だから、今度は私が見つける)
 諦めたりしない。
 絶対に取り戻す――この腕に。
 改めて決意したシシルの耳に、扉を叩く音が届いた。




「セリシアの恋人だと?」
「えぇ、そうです」
 不快げに眉をひそめた祖父に、レイドリックは頷いた。
「何故、そんな男を屋敷内に通した?」
 門前払いをしてしまえば良かったものを。
「私の手紙を持っていましたので」
「……お前の?」
「えぇ、私のです」
 祖父と孫は揃って沈黙し、見つめ合う。
「――早々に始末をつけろ」
 低い祖父の命令に、レイドリックはわずかに双眸を細めた。
「始末、ですか?」
「そうだ。邪魔者は早いうちに抹消しておくべきだ」
 冷酷な祖父の言葉に、レイドリックは動じなかった。
「何でも抹消すればいいとは思えませんが」
「私に反論する気か?」
「いいえ。ただ、自ら弱点を作る必要などないと申し上げているのです」
 そして、レイドリックは冷然と微笑む。
「彼は疑っていますが、まだ何も知らない。無闇に殺そうとすれば、それだけ彼は事実に行き着く可能性もある。また、抹消できたところで、第二、第三の彼が来るとも限らない」
 祖父――現ヴァルトリー公爵は無言で耳を傾けた。
「正面から来る辺り、愚かと言えなくもありませんが、度胸はあります。頭の回転もいい。何も手を打たず、乗り込んでくるとは思えませんね」
「……では、懐柔しろとでも?」
「私は無駄な労力を費やす気はありませんよ」
 漆黒の髪に群青の瞳の青年を思い出し、レイドリックは薄く笑った。
 柔和な容姿とは裏腹にかなり手強い。直情的に見えて、その実、冷静な部分が残っているだけに侮り難い。
(甘く見ていると、こちらが危ないだろうな……)
 だが。
 そして、レイドリックは腕を組んだ。
「疑っているなら、確かめさせればいい。適当に丸め込んで追い払えば済むことです」
 口で言うほど容易ではないが、やりようによっては達成できるだろう。
(セリシアの失踪で精神が不安定のようだし……)
「レイドリック」
「何ですか、お祖父様」
「……油断はするな」
「えぇ、もちろん」
 レイドリックは素直に頷いた。
 言われるまでもない。
 どんな手段を使っても、事実を知られるようなことは防ぐ。
 一瞬、レイドリックの脳裏に泣きそうな表情で見つめてくる娘の面影が過ぎる。
(セリシアも知られたくはないだろうしね)





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