春を待つ頃

―2―




 夏の気配が強くなった初夏の森をミルタはいつものように観察しながら、今や草原と化した花畑に向かっていた。
 房のように咲いていた白い花がなくなっても、瑞々しい緑の葉は変わらない。むしろ、日に日に鮮やかさを増していくようだ。
 気候の穏やかな高原は夏になったと言っても、それほど気温も上がらない。だが、午後になると日差しが強まることもあり、ミルタの外出は春同様午前中に限られた。
 病弱だったミルタの体は少しずつ元気になっていた。以前は青白いとまではいかなくても病的な雪白の肌をしていたのに、今では薔薇色の水を一滴落として染めたかのようにほのかに色付いた白磁のような肌になり、可憐な美貌は変わらなくとも今にも消えそうな儚さはなくなっていた。
(あら?)
 辿り着いた大樹を見て、ミルタは不思議に思った。
 いつもならミルタより早く来ている青年の姿がない。
(珍しい……)
 ミルタは木陰に座って風にそよぐ草原を見渡した。風の動きに合わせて揺れる草は、まるで海のようだ。しばらく無言で眺め、ミルタは空を見上げた。
 抜けるような蒼い空。
 薄くかかった雲が視界の隅にあった。上空ではあまり風がないのだろうか。動いているようには見えない。
 再び草原に視線を移したミルタは自然と頬杖を付いて小さな溜め息を洩らした。
(退屈……)
 そう思った瞬間、ミルタは柳眉をひそめた。
 独りで時間を過ごすことには慣れていたはずだった。ましてや、部屋の中ではなく外にいるのだ。何もしていなくても退屈だと感じたことはなかったはずだ。
 何故と自問しかけて、ミルタはすぐに止めた。
 原因は分かっている。分かっているからこそ、それ以上、考えることを制した。
 それが導き出すものをミルタは無意識のうちに恐れていた。
 考えてはならない。
 避けなければならない。
 気を紛らわそうと視線を泳がした先で、ミルタはこちらに歩いてくる青年の姿を見つけた。思わず、立ち上がって声をかけようとした瞬間、ミルタは硬直する。
 青年の手に本はなく、その姿も旅装だった。そして、何よりも彼の硬い表情がミルタに声をかけさせるのを躊躇わせた。
 どうにか声が出たのは青年がミルタの少し手前で立ち止まった時だった。
「……どこかへ行くの?」
 真っ直ぐに自分を見つめる濃紺の眼差しに何故か身が竦むのを感じながらミルタは見返した。
「帰る」
「――帰る?」
 茫然と繰り返した瞬間、ミルタは自分の迂闊さを罵った。
 異国の人間が旅装で帰ると言ったら自分の国に決まっているではないか。
 ぎこちなく微笑みを浮かべながらミルタは尋ねた。
「また、いつかここに来る?」
 意味のないことを訊いているとミルタは内心呟いた。
 青年が来た時には自分の方がいないかもしれないのに。
 ミルタの体は着実に健康になりつつある。療養が目的でここに来たのだから、それが果たされれば城に戻ることになるだろう。
 そして、いつ戻るかの決定権はミルタにないのだ。
 それを分かっていて尋ねた自分に対してミルタはかすかに自嘲の笑みを浮かべた。
 その瞬間だった。
「……たぶん、二度と来ない」
 ミルタは言葉を失って若葉色の双眸を見開いた。青年の言葉に驚いている自分に驚いていた。
(どうして? 分かっていたでしょう?)
 会えなくなる日が来ることは、とうの昔に。
 最初に会った時から知っていたはずだ。だから、何も訊かなかったし、言わなかった。
 忘れてしまえるように。
 そう思った瞬間、ミルタの心の奥底で何かが弾けた。
 不意に強い風が吹く。
 乱れる髪を抑え、ミルタはにこりと微笑みを浮かべた。
「それで――、わざわざお別れに来てくれたの?」
「……ああ」
 律儀な青年にミルタはくすりと笑った。そして、微笑みを浮かべたまま、別れの挨拶を告げる。
「どうぞお元気で」
 青年はかすかに笑って挨拶を返した。
「お前もな」
 そして、青年は踵を返し、たった今来た道を戻ろうと歩き出す。
 それを見送りながら、ミルタは必死で願っていた。
(どうか)
 きつく唇を噛み締める。
(このまま)
 膨らむ感情を抑えつける。
(振り返らないで)
 零れそうになる嗚咽を気取らせまいと口を噤み、息を止める。
 気付きたくなかった想いがあった。
 できるなら、誰にも――そう自分自身にすら知られたくない想いがあった。
(私は、忘れるから)
 錘を付けて、深い水底に沈めるように。
 二度と開かないように釘を打ち付けるように。
(いつか)
 懐かしめるように。
(ただの思い出にしてみせるから)
 できるかどうか自信なんてないけど。
(だから、どうか)
 ミルタの視界が歪む。それでも、ミルタは動かなかった。今、少しでも動けば自分が何をするか分からなかった。
 叶うはずもないのに、望む資格もないのに、引き止めてしまうかもしれない自分が恐ろしかった。
(振り返らないで)

――行カナイデ。

 相反する願いに心が悲鳴を上げかけた、瞬間。
 青年が振り返った。一瞬でミルタの側に来て、彼女の腕を掴み、引き寄せる。
「!!」
 驚きに見開いた若葉色の双眸から涙が零れた。
 ミルタは息もできないほどきつく抱き締められていた。
「どうして、泣くんだ……っ」
 押し殺したような声に弾かれ、ミルタは顔を上げた。
 激しい葛藤に揺らぐ、濃紺の瞳があった。
「ごめ」
 んなさい。
 謝罪の言葉は途切れた。
 大樹の幹に背を押し付けられ、影が落ちる。
 わずかに浮いた爪先。
 震えるミルタの手が一瞬強張り、そしてゆっくりと青年の袖を掴んだ。
 濃い緑の匂いを含んだ風が吹いて、ミルタの色素の薄い茶色の髪を乱す。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
 長かったようにも、短かったようにも感じた。
 熱いとすら感じた温もりが離れる。そのことに一抹の寂しさを感じて、ミルタは涙を一筋零した。
「――――」
 不意に耳元で囁かれた言葉に、ミルタは言葉を失って青年を凝視した。
(今の……)
 今の言葉は本当だろうか。都合の良い聞き間違いじゃないだろうか。
「だから……」
 続きを言い澱む青年にミルタは咄嗟に言っていた。
「待ちます。ここで待っているから」
 その瞬間、青年が浮かべた柔らかな微笑みに、ミルタは言葉を失った。
 青年は静かにミルタの涙を拭って離れる。そして、無言で踵を返し、今度こそ振り返らずに去っていく。
 ミルタの目から再び涙が零れた。
(ずっと、待っているから)
 遠くなっていく姿。
 湿り気を帯びた風が吹いてミルタの視界が自身の髪で遮られる。髪が濡れた頬に張り付いた。
 青年の姿がついに見えなくなってもミルタはその場から動けなかった。
 涙とは違う雫が頬を濡らした。
 あれほど晴れていた空がいつの間にか曇っていた。
 雫は大地を濡らし、緑の葉の上を滑っていく。
 ひそやかに降ってくる雨は不思議と優しかった。
 雨はミルタの細い体を縁取るように濡らし、ミルタの髪に触れた雨は丸い雫となって留まり、消えては次の雫が生まれていた。
 徐々に体が冷えていくのが分かった。しかし、それでもミルタは動こうとしなかった。
 冷えていく体と裏腹に唇に残る温もりだけは消えるどころか熱を帯びていくような感覚がした。
「…………っ」
 堪え切れず漏れた小さな言葉は雨音に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。


「全く、何を考えていらっしゃるのですか!?」
 女官長の真剣な声に寝台に横になっていたミルタは儚い微笑みを浮かべた。
「雨の中、長時間いらっしゃるなんて――折角、ご健康になりつつあられたのに!」
 ミルタは反論もせず、大人しく聞いていた。
 女官長の言うことは全くの正論だった。
 長時間、雨に打たれたミルタは元々病弱だったため、すぐに熱を出すことになった。
「宜しいですか。もう、散歩は禁止です」
 手渡せられた薬湯をミルタは飲み干した。
「えぇ」
 散歩に行く。
 最初は本当にそれだけだった。けれど、いつの間にか目的が変わっていた。
(あの人に会うために私は毎日行っていたの……)
 だから、彼がいないなら行く必要なんてない。
 素直に頷くミルタを女官長は一瞬怪訝そうに見るが、すぐに気を取り直して続けた。
「少しはご自愛くださいませ」
 ミルタは静かに瞳を閉じる。
「……分かっているわ。大丈夫、私は絶対に死んだりしないわ」
「まあ、『死』なんて。軽々しく、そのようなこと口になさらないで下さいませ」
 薬湯が効いてきたのだろうか。ミルタの意識は眠りの海に沈んでいく。
(大丈夫、待っていると約束したもの――)
 脳裏に浮かんだ、優しい微笑みにミルタはそっと笑いかけた。




「もう、すっかり秋ですわねえ」
 窓から見えた光景に思わず呟いた女官長に、寝台の上で上半身を起こしていたミルタは首を巡らした。
「そうね……」
 季節は秋と変わっていた。
 しかし、ミルタの時はあの夏の日から止まったも同然だった。
 夏に出した熱が尾を引いているのか、ミルタの体は一向に良くなる気配はなかった。もっとも、悪くなる気配もない。
(随分と私の体って正直なのね……)
 完全な健康体になると城に帰ることになるのだから、今の状況は願ったり叶ったりだ。
「こんなに平和なのに、戦争なんて信じられませんわね……」
 ぽつりと零れた言葉に、女官長は我に返り、慌ててミルタに言った。
「姫様、申し訳ありません。どうぞ気に病まないで下さいませ。必ずや皇太子殿下が回避なさって下さいますわ」
 夏の終わり頃からだろうか、ミルタの国ディティアと北方の帝国マジェスタとの戦が噂されるようになったのは。
 ミルタの兄であるカーラット皇太子は戦争を回避しようと帝国の穏健派と連絡を取り、会談を開いているという。
「えぇ、そうね……」
 穏やかに微笑むミルタに女官長はわずかに顔を曇らせた。熱を出して倒れて以来、ミルタは変わった。少女らしい無邪気さは消えて、大人びた女性らしい表情をするようになったのだ。
 そして、何より気にかかるのは時折見せる憂いを帯びた眼差しだった。
 女官長は意を決し、ミルタに尋ねかけた。
「姫様、何かお悩みでもございますか?」
 ミルタは不思議そうに首を傾げ、笑って答えた。
「悩みだなんて……。そうね、少し退屈なことかしら」
「姫様」
 心持ち強く睨まれてミルタは苦笑した。
 その瞬間だった。
 心臓を貫かれたような衝撃が全身を襲った。
「っ!?」
 真っ二つに引き裂かれるような痛みにミルタの心が悲鳴を上げた。
 体中の神経が捻れてしまったような感覚。
 灼熱の塊を呑み込んだように体の内部が熱い。そうかと思えば、極寒の地に放り出されたように寒くなる。
 血が逆流する。
 息ができない。
 強烈な痛み、そして喪失感。
 声も出ず、ただ目の前が真っ暗になった。
「姫様っ!?」
(死んでしまう……。まだ、死ねないのに――)
 動揺した女官長の声を聞きながら、ミルタの意識は無理やり途切れさせられた。




 すべてが夢現だった。
 ひそやかなざわめき。
 多くの人の気配。
 誰かが話しかけている。けれど、それに答えることはできなかった。
 意識の浮き沈みは激しく、世界は曖昧だった。
 瞼を開けることすら億劫で、このまま眠ってしまいたかった。
「……それで、ミルタの状態は?」
(お兄様……?)
 落ち着いた低い声はミルタの自慢である兄のものだ。だが、いつものような穏やかさはなく、どこか硬い。
「今は小康状態を保っています」
「原因は何だ?」
 苛立った声に医師は躊躇いがちに答えた。
「申し訳ありません。私では判りかねます。どこも悪いところはないのです」
「そんな訳はないだろう。一時は危篤状態まで陥ったのだぞ?」
「申し訳ありません……」
「もう良い。下がれ」
 扉が開く音。
 そして、ミルタは優しく髪を撫でられるのを感じた。
「ミルタ……」
 心底、心配そうな囁きが耳に届く。しかし、今のミルタに応える術はない。
「殿下、宜しいですか」
「ああ」
 扉が再び開く音がして、ミルタの周囲から人の気配が遠退いた。
 扉の向こうで交わされる会話が途切れ途切れに耳に届いてくる。
「姫様の具合は……」
「今のところは落ち着いたようだ。それで、ジアルハーディット皇子は?」
「……亡くなりました」
 悲嘆の声音。
「くそっ!」
 珍しく乱暴な兄の言葉だった。
「これで戦争は決定的か……」
「惜しい方を亡くしました。ジアルハーディット皇子がご存命で姫様がご健康なら嫁がれて、戦争を回避できましたもの……」
「バルディオンゼス皇子が仕掛けた暗殺か。どうあっても、我が国と戦争したい気らしいな。仮にも、兄弟であろうに――」
 苦々しくカーラットは呟くと、淡々とした声が返ってくる。
「異母兄弟で、皇位を争っていらっしゃったようですし」
「ジアルハーディット皇子はその気はないと言っていたが?」
「周囲の思惑は違ったようです」
「そうか。……いや、もう、どうでも良い。皇子は亡くなられたのだから、次のことを考えよう」
「やはり、戦は避けられませんか」
「こうなっては無理だろう。すぐに対策を練ろう」
「はっ」
「……後はミルタのことだが、もっと人員を増やして療養を続けるしかないか」
(お兄様……、私は大丈夫ですわ……)
 ぼんやりとミルタは思う。
 死ねるはずがない。待っていると約束したのだから。
 そして、ミルタの意識は再び沈んでいった――。





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