春を待つ頃

―1―




 長い間、避暑の時しか使われておらず、普段、静かな離宮は珍しく春から賑やかだった。
「まあ、姫様! その御姿は――」
 しばらくの間、離宮の主となるミルタの姿を見て、王女付きの女官長は驚きの声を上げた。
 薄紅の飾り紐で軽くまとめられている、陽に透けると金にも見える色素の薄い茶色の長い髪。気まずげに女官長から視線を外している双眸は今の時期の木々の芽と同じ色をした若葉色。線の細い可憐な美貌。華奢な体を包む、薄絹を何枚か重ねた白い衣装は明らかに外出用のものだった。
「少し散歩をしようと思って……」
 その言葉に女官長はかすかに眉をひそめた。
「姫様、何のためにこちらにいらしているのか分かっておいででしょう?」
 小さな溜め息を吐いてミルタは素直に頷いた。
「私のためでしたね」
「そうです!」
 大きな声で肯定し、女官長はゆっくりと言い聞かせるように言った。
「姫様の療養のために、この気候が穏やかな高原にある離宮に参ったのです」
「……ごめんなさい。城の外に出たのは初めてだったから少し浮かれていました。それで倒れてはいけませんものね」
 若葉色の瞳を伏せ、悄然として謝ったミルタの言葉に女官長は息を呑んだ。
 ディティア王国の王女ミルタは生まれつき病弱だったために、
 ここ数年は城から出るどころか、公の場にすら出たことがなかった。十八年間、ずっと部屋の中で過ごして来たのだ。
 療養が目的といえ、浮かれてしまっても仕方ないことだった。
(私のためなんですもの。我侭を言ったら駄目ね)
 未練が残る自分に言い聞かせながら、ミルタは顔を上げて微笑みを浮かべた。
「着替えます」
 そして、ミルタは踵を返そうとした。
「お待ち下さい」
 女官長に呼び止められ、ミルタは不思議そうな顔で相手を見やった。
「散歩に御行きになられるのでしたら、せめて帽子くらい御持ちになって下さいませ」
 そう言って女官長は素早く衣装棚の中から大きなひさしが付いた白い帽子を取り出した。
「……え?」
 驚きに目を瞠るミルタに女官長は笑みを浮かべ、白い帽子を差し出して言った。
「ただし、午後までには御戻り下さいませ。昼過ぎには皇太子殿下が御様子を見に参られる予定でございます」
「まあ、お兄様が?」
 白い帽子を素直に受け取ってミルタは小さく驚いた。
「政務でお忙しいのではなかったのですか?」
 女官長はにっこりと笑った。
「姫様のことが心配なのですわ。ですから、余り無理をなさいませんよう御願い致します」
 ミルタは慌てて頷く。そして、帽子を被り、女官長に向かって笑顔を浮かべた。
「ありがとう」





 女官長の許可を得たミルタは気の向くまま、散歩を楽しんでいた。
 雪解けで生まれた川のせせらぎ。
 草木の間からひょっこりと顔を出す小動物。
 葉擦れの音も、小鳥の声も、部屋から聞いていた時より鮮明に聞こえ、目に映るすべてのものがミルタには新鮮で輝いて見えた。
「まあ……」
 離宮の近くにあった森を抜けたところで見つけた光景に、ミルタは思わず感嘆の声を洩らした。
 温かな春の日差しを受けて輝く、一面に広がる白い花畑。
 小さな白い花が房のように密集して咲いている。それが数え切れないほど群生し、伝え聞く天上の世界とはこのようなものかと思う美しい光景だった。
 時折、窓から見ていた城の庭も美しかったが、この光景には比べるに及ばない。
 不意に突風が吹く。
 花畑の美しさに見惚れて立ち尽くしていたミルタが我に返った時にはすでに遅く、白い帽子は風に煽られて飛んでいた。
「あっ」
 ミルタは慌てて追いかけて花畑の中に入った。
 白い帽子は花畑の向こうに見える大樹の方へと転がっていく。
「!」
 ミルタは花畑の中で足を止めた。
 大樹の木陰に誰かがいた。影に溶け込むように根元に座って何かの本を読んでいる。
 白い帽子はその人物の足に当たって止まった。
「?」
 自分の足に当たったものを見て、その人物は不思議そうに顔を上げて、ミルタの方を見やる。
「っ!」
 どきりとしてミルタは固まった。何か言わねばならないと思うのに言葉が出てこない。
 その様子をどう思ったのか、その人物は読んでいた本を閉じ、白い帽子を拾い上げ、木陰から出てきた。
 その姿を見て、ミルタは大きく目を瞠った。
 少し癖のある漆黒の髪。切れ長の双眸の色は濃紺。均整のとれた、すらりとした長身。凛々しい容貌の青年だった。
 だが、容姿に驚いた訳ではない。身内を誉めるようだが、ミルタの兄カーラットもかなり整った容貌をしており、それを日常的に見ていたのだから、そのことで動じるような彼女ではなかった。
(……誰?)
 喉元まで出そうになった疑問が声になることはなかった。
 見知らぬ青年は静かで荒々しい雰囲気はない。だが、存在感は強い。光り輝くような印象でなく、ただ密やかにその存在を主張する。
 その存在感がひどくミルタの心を波立たせていた。
 青年はミルタの方へ歩いてくると、白い帽子を無造作に差し出した。
「お前のだろう」
 端的な言葉にミルタはびくりと震えて、ぎこちなく帽子を受け取る。
 何か不思議な気がした。受け取った白い帽子は間違いなく自分のもので、何も変わっていない。だが、違う気がした。
 訳の分からないまま、ミルタは小さな声で礼を言った。
「……ありがとう」
 その言葉に青年は少し驚いた様子になった。
「?」
(私、何か変なことでもしたかしら?)
 ミルタが不思議そうに見ると、青年は小さく息を吐くように呟いた。
「人間か……」
 どこか安心したような響きにミルタはかすかに柳眉をひそめた。
「――何だと思ったのですか?」
 ミルタの問いに青年はわずかに戸惑いを見せ、言いよどんだ。
「何って、……まあ、幽霊……か」
 ミルタはムッとして青年を睨み付けた。
「失礼なことを言わないで下さいっ! 私は生きてます!!」
 病弱で健康的に見えないかもしれないけれど、幽霊だなんてひどい言葉だ。
 頬を朱に染めて怒るミルタに、青年はくすりと笑って頷いた。
「ああ、そうだな。ちゃんと生きている」
「っ!!」
 胸を突く言葉だった。


『ちゃんと生きている』


(本当に? 私は、生きている?)
 ずっと部屋の中がミルタの世界だった。王女として生まれ、何不自由なく、過ごしてきた。
 周囲の人々はミルタを大切に思い、気遣ってくれていた。
 そんな彼らを心配させたくなくて、迷惑になりたくなくて、ミルタはずっと大人しく我侭を言わぬように努めてきたのだ。
 だから、初めてだった。
 外の世界に出たことも。
 こんな風に人と話したことも。
「おい!?」
 ひどく驚いた青年の声。
「え?」
 気付けば、ミルタは大粒の涙を零していた。慌てて拭うが、涙は止まりそうになかった。
「泣くほどに気に障ったか?」
 青年の問いにミルタは無言で首を横に振った。
 初めてだった――ちゃんと生きていることを実感できたのは。
 相手が見知らぬ人間だからなのだろうか。
 ミルタが王女であることも、病弱であることも知らないから、気遣う必要がないから、怒ることも泣くこともできるのか。
 突然、泣き出した自分に困惑している青年の顔を見て、ミルタは笑みが浮かぶのを感じた。くすくす……と鈴を転がすような笑い声が漏れる。
 笑い出したミルタに、青年は呆れたように呟いた。
「怒ったり泣いたり笑ったり忙しい女だな」
 ミルタは笑うのを止めて言った。
「まあ、誰のせいだと思っているんですか?」
「何だ、私のせいか?」
「違うとでも?」
「さっき、否定しただろうが」
「否定したのは幽霊扱いのことではないというだけです」
 不可解そうに眉をひそめる青年の表情に、ミルタは再び笑い出す。
 不思議な気分だった。
 笑い続けるミルタの様子に青年が苦笑を浮かべる。
 その時、遠くで時を告げる鐘が鳴っているのが耳に入った。
「大変、私、帰らなくては!」
 午後までに帰ってくるようにと言われていたことを思い出して、ミルタは慌てた。かなり時間をかけて歩いてきたので、戻るのに急げば、まだ間に合う。走ることはできないから、本当にぎりぎりだが。
 踵を返そうとして、ミルタはふと動きを止めた。そして、青年に向かって優雅に軽く膝を沈めた。
「ご機嫌よう」
 別れの挨拶を告げるや否や、ミルタは再び踵を返して、急いで来た道を戻り始めた。





 翌日から花畑に散歩に行くのはミルタの日課になった。無理をしない適度な運動は体にいいだろうと医師の了解も得たこともあり、何の気兼ねもする必要はなかった。
 草木に朝露が残り、清涼な空気が漂う中、ミルタは花畑に向かうと、指定席のように木陰に座って本を読んでいる青年に挨拶した。そして、邪魔にならないように離れたところに座って何をする訳でなく、ただ静かに花畑や雲が流れていく空の様子を見つめ続けた。
 沈黙は少しも苦痛ではなかった。独りでいることは慣れていたし、変わらないように見えて世界は少しずつ変わっていた。
 綻んでいく花の蕾。
 形を変える雲。
 部屋にいては分からない、新しい発見がいつも何かあった。
 そんな日が何日も続いた。
 ある日、ミルタが目を閉じ、木々の葉擦れの音や小鳥のさえずりに耳を澄ましていると、視線を感じた。目を開けて視線を感じた方を見ると、青年の濃紺の双眸とぶつかった。
「……何か?」
 ミルタの問い掛けに対して、青年は訝しげな顔で言った。
「お前は、毎日に何をしに来ているんだ?」
 ミルタは小首を傾げて訊き返した。
「お邪魔でしたか?」
「いや、そういうことではないが」
 どこか困っている様子の青年にミルタはふわりと微笑みかけ、視線を花畑の方に移して答えた。
「花畑を見に来ているだけです」
「……そんなに、この花が気に入ったのなら持って帰ればいいだろう」
 青年の言葉にミルタは曖昧な笑みを浮かべた。
「――摘み取ってしまうのは可哀想ですし、それに切り花は……」
 そして、ミルタは若葉色の瞳を薄く伏せ、小さく呟く。
「哀しくなるから」
 病弱で外に出ることがなかったミルタの部屋には絶えず花が飾られていた。見舞いとして貰うことも多々あった。それはすべてミルタを気遣ってのことだった。
 幼い頃はただ無邪気に喜んでいた。けれど、時が経つにつれ、単純に喜べなくなっていた。
 切り花は数日経つと萎れて枯れていく。大地に在れば、次の命へと続くというのに、切り花はそこで終りなのだ。しかも、自分のために切り取られたというのに、萎れかけるとすぐに新しい花と取り替えられてしまう。それも、自分を気遣ってのことだ。
 花をいらないとも言えず、ミルタにできたのは少しでも長く咲いていられるように些細な工夫をすることくらいだった。
 周囲の人が自分を大切に思ってくれるのは嬉しい。
 けれど。
 たったわずかな間のためだけに切り取られる花が哀しい。
 美しい時だけしか愛されない花が哀しい。
 ミルタは静かに花畑を見つめた。
(花の命は短いと言うけれど、大地に根付いた花は、本当は逞しいのではないかしら……)
 目の前に広がる花の群れは人の手も借りず、雨に打たれ、風に吹かれ、それでも見事に咲き誇っている。例え、萎れて枯れても次の年になれば、また花を咲かせるだろう。
 不意に、風が吹き、ミルタは乱れる髪を抑えて我に返った。
(嫌だ、私ったら)
 こんなことを言ったら変に思われてしまう。
 ミルタがどうにかして誤魔化そうと口を開いた瞬間。
「――そうか」
 静かな声音に驚いて、ミルタは青年を見やった。
 青年は何事もなかったように本に視線を戻していた。
「……」
 無関心を装い、何も聞こうとしない青年の態度が嬉しかった。





 その日を境にミルタと青年は話をするようになった。
 話の内容は他愛もないものばかりだった。
 天気のこと。
 来る途中で見つけたこと。
 読んでいる本のこと。
 まるで示し合わせたように互いについての話はしなかった。
 それでも分かってしまうこともあった。
 具体的なことは分からなくても、何気ない仕草や言葉の端々に伺える知識は青年がそれなりに格式のある家に生まれ、きちんとした教育を受けていることを暗意に示していた。
 言葉の発音の微妙な違いから察するに北方に位置するマジェスタ帝国が出身なのだろう。
 そして、それは自分に関しても同じことが言えるとミルタは知っていた。
 けれど、青年は何も言わず、ミルタも何も言わなかった。
 いつの間にか、それが暗黙のうちに決まっていたのだろう。
 本当は、名前くらい知りたかった。
 けれど、訊けば必ず訊き返されるだろうと思ったら、何も聞けなくなった。
 ミルタはこの居心地の良い空間を失いたくなかった。
 身分も生まれも関係ない時間が大切だった。
 決して、切り離すことはできないと知っていたから、束の間の夢のような一時を望んでいた。
 毎日が楽しかった。




 そして、春が終わる。





next

Novel Top






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送