黄昏の契約W





 数日間、彼は何事もなく休暇を満喫していた。
 婚約者である娘やその父に、しばし時間を費やすこともあったが、喪服の女に付き合わされるより余程マシな時を過ごしていた。


 急に空が曇り出すのに気付いて、その日、近くの草原で遠駆けをしていた彼は慌てて帰ろうとしていた。しかし、天候の変化は彼が考えているより早く、結局、大粒の雨に見舞われることになった。


「やれやれ、どうしたものか……」


 手近に見つけた木の下で雨宿りをしながら、彼は一向に止む気配のない雨に小さな溜め息を吐いた。


 逗留地である館までの距離はまだあり、どんなに急いで馬を走らせても、ずぶ濡れになるのは目に見えていた。
 せめて、もう少し降りが弱まらないことには動きようがない。


 困りながら、周囲に視線を巡らすと、視界の隅に古びた建物の屋根がちらりと見えた。
 この雨の強さでは木の下の雨宿りもやがて意味がなくなると判断し、彼はちゃんと屋根があり、雨宿りが出来ると思われる建物へと向かった。


 苔むした煉瓦造りの建物は人気が少なく、庭は長い間人の手が入った様子もなく、寂れていた。


 無人なのかと考えながら、彼は馬の手綱を玄関脇の木に括りつけた。
 そして、軽く扉を叩いて待つが、反応はない。
 試しに取っ手を回してみると、鍵は掛かってなかった。


「……」


 一瞬、躊躇った彼だったが、此処に居ても濡れるだけだと覚悟を決めて中に入る。
 誰かに不法侵入を見咎められたら、その時に説明するしかない。


 中は外観と同じく古めかしい雰囲気があったが、庭とは違い、まだ綺麗に整えられていた。
 二階まで吹き抜けになっている玄関の広間に埃はなく、二階に続く螺旋階段は磨かれている。
 今すぐにでも使えそうな様子だった。


 一息吐き、彼が顔にかかった雨粒を拭った時だった。



「……どなた?」



 不意に届いた誰何に、彼は驚いて顔を上げた。


 いつの間にか螺旋階段の上に、ひとりの女が立っていた。


 腰まで届く艶やかな漆黒の髪。
 長い睫に縁取られた双眸は何処か愁いを秘めた深い蒼色。
 繊細な造りの白い容貌。
 対照的な形の良い真紅の唇。
 たおやかな身を包むのは胸元が大きく開いた、豊かな体の輪郭がはっきりと分かる鮮やかな赤の装い。


 しどけない女の色香と硝子細工のような危うい美しさに彼は言葉を失って、目を瞠った。
 立ち尽くす彼を見て、鮮赤の女は小首を傾げながら階段を下りてくる。


「どうかなさいまして?」


 尋ねてくる声音は可憐で、不思議と初初しく聞こえた。
 煽情的な容姿に反して浮かぶ表情は無垢で、ひどく庇護欲を掻き立てた。


「……っ!」


 何か言おうと彼が口を開いた瞬間、鮮赤の女が不意にふわりと微笑んだ。


「まあ、貴方――」
 重みを感じさせない動きで、鮮赤の女が彼に近付いて来る。
 そして、少し弾んだ声音で言った。


「聖眼をお持ちなのね?」


 その瞬間、彼は耳を疑った。


 以前に同じような言葉を言った女がいた。
 その女は人外の存在だった。


 それは、まだ記憶に新しい出来事だ。
 何より忘れることなど出来ない過去だ。


 既視感から導き出された推測に、彼は愕然とした。
 思わず、身を退いて後ずさろうとするが、体は何故か動かなかった。
 まるで、その場に縫い止められたような感覚に彼は慄く。


「貴方のような御方と会えるなんて、わたくしは幸運なのですね……」


 そっと微笑む鮮赤の女はゆっくりと、しかし、確実に彼の側に寄ってくる。
 距離はまだあるはずなのに、鮮赤の女のものと思われる香りが彼の鼻腔をくすぐった。


 熟れた果実が放つような、甘い香りに彼の意識が攫われる。
 否、攫われているのは彼の意識ではなく、体の神経の方かもしれない。


 身動き一つ出来ぬまま、彼は背筋に冷や汗が伝うのを感じた。
 向けられる眼差しは穏やかで優しさすら感じる。
 喪服の女の何処か含みのある、強者の眼差しではない。
 だが、彼は喪服の女以上に鮮赤の女の方が自分にとって危険であることを本能的に察していた。


 彼の前に立ち、鮮赤の女は静かに囁く。


「どうか、わたくしの願いを叶えて下さいませ」


 言葉を紡ぐ赤い唇に彼の意識は捕われる。靄がかかったように曖昧になり、本能が知らせる警鐘すら遠くなっていく。


 そして、鮮赤の女は白く細い右手を上げ、彼の頬に触れようとした瞬間。


「っ!!」


 彼の体は何かに突き飛ばされ、床の上を転がった。
 その衝撃で、彼の意識が戻る。
 そして、間近に漂う芳しい花の香りに気付いて、彼は辛うじて上半身を起こした。


 彼の横に喪服の女が背をこちらに向けて立っていた。


 匂い立つ花の香りは鮮赤の女の香りは違い、ほのかに甘く、それでいて清涼感さえ与えるような芳しいものだった。


 彼は突き飛ばしたのが喪服の女だと悟って驚きを込めて呻くように名を呼んだ。



「グナーデ……」



 その呼びかけに二人の女がぴくりと震えた。
 彼の頬に触れるはずだった鮮赤の女の右手には代わりに漆黒のベールがあった。
 鮮赤の女は一度強くそれを握り締め、そして、ふわりと手放す。


 それを見つつ、喪服の女はちらりと彼を一瞥して、何処か呆れたような声音で、溜め息交じりに言った。


「関わる気はないと言って置きながら、しっかり関わっているのだもの。これだから、人間って嘘吐きね」


「これは、不可抗力、だっ」
 理不尽な言葉に対する怒りのため、彼の反論は途切れ途切れになる。
 しかし、喪服の女は聞いていない。


「迂闊に安心出来ないのだから、本当に困ったこと」


 鮮赤の女を警戒しながらも呟く喪服の女の言葉に、動揺や緊張の欠片は全くなかった。


 動けない体の彼が何か言おうと口を開いたと同時に、漆黒のベールが床に落ちた。
 その瞬間、鮮赤の女はそれまでの緩慢な動きからは考えられない素早さで右手を喪服の女に向かって閃かした。


「っ!!」


 鮮赤の女の右手から伸びた幾多の漆黒の糸が喪服の女を取り巻き、その動きを封じる。それを見て取り、哀しそうに微笑んで鮮赤の女は言った。


「……相変わらず、お優しいのですね、慈悲の司姫」


 喪服の女は無言で鮮赤の女を見つめた。破滅をもたらす毒のように美しい容貌には何の感情の色もなかった。


「貴女なら避けられましたのに、後ろの方を庇われるなんて……わたくしは嬉しいのに哀しいのですわ」


 鮮赤の女の深い蒼の双眸には紛れもない涙が滲んでいた。
「分かって下さいますか?」
「いいえ、分からないわ。そんな風に感じる必要はないもの」
 喪服の女が断言すると同時に、漆黒の糸は金色の炎に焼かれて消滅した。


 自由を取り戻した喪服の女は軽く髪を払って、淡く微笑んで言った。
「貴女こそ相変わらずね、不安の司姫」
 その言葉に鮮赤の女は小さく震えた。




       




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