黄昏の契約W
五(承前)
喪服の女の呼びかけに彼は聖眼で見た夢を思い出した。
歪んだと言われていた喪服の女の同族。
アングスト
『不安』
「捕縛だなんて、私が此処に現れた理由くらい分かっているでしょうに」
蒼い双眸を潤ませながら、鮮赤の女はかすかに笑う。
「貴女を殺してしまうか不安になってしまったのですわ。致し方ありません。貴女が『慈悲』の名をお持ちのように、わたくしは『不安』の名を持っているのですから」
「そうね。仕方ないことだわ。貴女が不安の余り、死期を拒んでしまうことくらい予測しておくべき事柄だったわね」
その瞬間、鮮赤の女は泣き出しそうな表情になった。
無意識の内に彼の鼓動が高鳴る。
それに気付いて、彼は唇を噛み締めた。
喪服の女の美しさが不吉さを漂わせるなら、鮮赤の女の美しさは魅惑を漂わせている。
特別な感情など欠片も抱いていないのに動揺してしまう自分が腹立たしかった。
「もう、ご存知なのですか?」
その言葉に喪服の女は静かに漆黒の宝玉を見せた。
それを見て、鮮赤の女は憂いげに溜め息を吐いた。
「時を稼げると考えていましたのに――」
「アングスト」
「グナーデ」
鮮赤の女は喪服の女の言葉を遮って尋ねた。
「貴女なら分かって下さいますか? わたくしは忘れたくないのですわ」
「忘れないでしょう。私たちは世界が滅びる時まで、すべてを覚えている」
鮮赤の女はくすりと笑った。
「記憶を記録に変えて?」
喪服の女は異色の双眸を薄く伏せて、静かに答えた。
「必要なことだわ。私たちは消えることのない存在。けれど、長い時の間に記憶に伴う感情は増幅し、膨張し、私たちの心を崩壊させる。それを防ぐために、私たちは『死』を迎え、感情を殺ぎ落とした、それまでの記録と共に蘇る。貴女だって経験して来たことでしょう?」
「そう、そうですわね」
喪服の女の言葉に頷きながら、鮮赤の女は顔を背け、自らの体を抱き締めた。
さらりと漆黒の髪が繊細な美貌を覆う。
「……でも、約束したのですわ」
静かに喪服の女は鮮赤の女を見つめた。
「忘れないと?」
「ええ。あの方の最期の願いですわ。忘れないで欲しいと仰ったのですわ。わたくしはそれに頷きましたの」
「……忘れたくないのは貴女の方でしょう?」
鋭い言葉に鮮赤の女は弾かれたように顔をこちらに向けた。
「アングスト、失った痛みを想い続けることで誤魔化すのは、もう止めなさい」
言葉を失った様子の鮮赤の女に喪服の女は続けた。
「そんな風に誤魔化し続けるから、死期が訪れたのよ」
「グナーデ、どうして? 貴女だって、わたくしと同じでしょう? だから、その姿を」
「私は」
喪服の女は鮮赤の女の言葉を制して答えた。
「あの子を失った時、確かに哀しみはしたけれど、それは過ぎたこと。今は、ただ思い返して懐かしむだけ。あの子は『自分に関わったすべての最期を見届けて欲しい』と私に願うことで、私が少しでも長く自分のことを想ってくれるように望んだわ。けれど、それは無理な相談というもの。あの子が存在してこそその価値があったの。あの子が築き上げた都ですら、私の内では懐かしさは覚えるけれど、想う対象にはならない。その滅びを目の当たりにしても、あの子が逝った時のように哀しむことはない。だから、せめて形にしているだけ」
そして、喪服の女は断言した。
「この姿は逝ったあの子のためではなく、滅び逝くもののため」
「わたくしは、貴女のようになれません」
「なる必要なんてないわ。ただ、認めなさい。その想いは過去のものになりつつあることを。未来を否定してはいけない。永遠に等しい私たちだけれど、流れる時の中で変化していくのは自然なことなのだから」
その言葉に鮮赤の女は軽く目を瞠った。
「グナーデ、貴女はわたくしを説得するつもりで来られたの?」
喪服の女は肩を竦めて言った。
「そう出来たらいいわね」
微妙な言い回しの言葉は言外に無理だろうと告げていた。
くすくす……と鮮赤の女は笑った。
「わたくし、あの方を愛していますの」
過去形ではない言葉。
「この想いは今も生きていますの。ずっと、ずっと、わたくしと共に在るのですわ」
喪服の女は柳眉をひそめて尋ねた。
「その他を否定して?」
「否定するつもりなんてありませんわ。けれど、結果的にそうなってしまうのですわね」
「そう――」
ゆっくりと舞うように喪服の女の腕が動いた。
束の間、白い手が闇に沈んだような錯覚がした。
次の瞬間、その手には金の柄に闇色の刃の短剣が握られていた。
「優しい慈悲の司姫、貴女と戦う時が来るなんて一度も願ったことはありませんでしたのに」
その瞬間。
鮮赤の女の両手から無数の漆黒の糸が喪服の女に向かって放たれた。
それを掻い潜り、喪服の女は間合いを詰める。
「っ!」
喪服の女が懐近く踏み込んでくるのを瞬間的に反応して、鮮赤の女の指先が動く。
それに応じて、漆黒の糸は集束しながら方向を変えた。
糸が寄り集まり、尖った先端が背後から喪服の女に襲い掛かる。
しかし、それを予測していたのか喪服の女は振り返りもせず、その場から飛び上がって避けた。
「!?」
黄金の髪が大きく舞い広がる。
その隙間から覗いた白い手にある漆黒の刃が振り上げられ、鮮赤の女に向かって振り下ろされるのを彼は見た。
「くっ!」
短く呻いて、鮮赤の女は手にあった糸を瞬時に固め、受け止めた。
かきんっ……
鋭い金属を立てて、漆黒の短剣が弾かれる。喪服の女の手から離れた短剣は宙に弧を描いた。
たんっ……!
喪服の女は鮮赤の女の真正面に着地して、逃げるどころか反動を利用して、相手の懐に飛び込んだ。
そして、訪れる静寂。
それを打ち破ったのは弾き飛ばされた短剣が床に突き刺さる音だった。
緩やかに鮮赤の女は笑みを浮かべる。
「優しい慈悲の司姫、わたくしは貴女のことが大好きでしたのよ……」
「――知っているわ。私も貴女のことが好きだもの、不安の司姫」
そう答えて、喪服の女は鮮赤の女から静かに離れた。
そして、見えた鮮赤の女の姿に彼は息を呑んで凝視した。
鮮赤の女の胸に緑鮮やかな葉を付けた小枝が突き立てられていた。
それだけではない。
突き立てられた部分が淡く発光し、小枝は何かを吸収するかのように大きくなっていく。
「世界樹の、枝なんて、手に入れるのが……大変だった、のではありま、せん?」
息苦しそうに尋ねられて喪服の女は少し乱れた髪を払いながら答えた。
「無用な心配だわ」
端的な言葉に鮮赤の女はくすりと笑った。
「他の者が、よく許しましたわね? わたくしを『生命の環』に還すことを……」
その瞬間、喪服の女はふわりと微笑んだ。そして、何処か楽しげに告げた。
「今回の一件は私に一任されたわ。どう処理しようが私の勝手でしょう? 誰にも文句は言わせない」
そして、喪服の女は静かに鮮赤の女の頬に触れた。
「貴女にもよ」
「グナーデ……」
「今までの記憶も記録も何もかも消えるわ。『不安』という名も、力も貴女のものではなくなる。けれど、想いは抱いたまま終わりを迎えられるわ。それなら、いいでしょう?」
ゆっくりと鮮赤の女は蒼い双眸を閉じた。
「『わたくし』は此処で終わりなのですね」
「ええ」
鮮赤の女はぽつりと呟いた。
「……嬉しい……」
閉じた双眸から、はらはらと涙が流れる。
それを優しく拭いながら、喪服の女は歌うように鮮赤の女に囁いた。
「さようなら。貴女のことを私は忘れないわ。だから、ゆっくりとお休み」
その瞬間、鮮赤の女の姿は溶けるように消滅した。
それと同時に、彼の体の自由が戻る。
それに気付いて、彼は静かに立ち上がった。
その気配に気付いたのだろう。
喪服の女が振り返った。
彼は喪服の女の手に握られた淡く発光している大振りの枝を見て眉をひそめた。
「……それは何だ?」
喪服の女は短く答えた。
「『不安《』」
「何?」
喪服の女は小さな溜め息を吐いて呟く。
「何処まで説明したら良いのか悩むわね」
そして、訝しげに見つめる彼を余所に、喪服の女は枝を大切そうに抱え直して、床に落ちたベールを拾い上げた。
「この枝は世界樹の枝。世界樹とは世界の要たる地に立つ支柱。私たち一族の故郷ともいうべき場所。蘇りの地」
詩でも吟ずるように喪服の女は言葉を紡いだ。
「私たちは『生命の環』ではなく、『螺旋の環』に還る。同じ姿、同じ魂、寸分違わず、蘇る。そして世界が滅びるまで存在し続ける」
喪服の女は以前嬰児を包んだようにベールで枝を包んだ。
「この枝に宿るは『不安《』の力。魂と別れた純粋なる力。彼女の魂は『生命の環』へ。この力は世界樹の許へ。いつか相応しい魂が現れて受け継がれる、その時まで、ただの『力』として在り続ける」
彼は何度も心の中で反芻して喪服の女の言葉を理解した。そして、気付く。
「ちょっと待て。今の言葉、というか今までの言葉だと、お前たちの『死』の概念と私たちの『死』の概念は違うのではないのか」
何を今更といった風情で、喪服の女は小首を傾げた。
「そうよ。私たちにとって『死』は終わりではないわ。ただの段階に過ぎない」
「では、何か? 私に宝玉を渡した男も、死んだ訳ではない?」
彼の言いたいことを察したのか、喪服の女はくすりと笑った。
「貴方たちの感覚でいうなら、そうね。世界樹の許で蘇りの時を待っているでしょう」
少しずつ彼の内にやるせない怒りが生まれてくる。
「私に『これで死ねる』と言った言葉は?」
強張っていく彼の表情に動じた様子もなく、むしろ可笑しそうに異色の双眸を細めながら喪服の女は言った。
「前にも言ったはずでしょう。『歪み』は一刻も早く処理しなければならない、と」
喪服の女は右手を口元に当てて、控えめに笑った。
「今回は厳密にいうと違うけれど、早急に対処しなければならなかったのには変わりないわ」
不意に彼の脳裏に鮮赤の女の言葉が過ぎった。
『時を稼げると考えていましたのに――』
その意味を彼が理解すると同時に喪服の女が追い討ちをかけた。にっこりと笑って礼を述べた。
「貴方がいなかったら、今しばらく時間がかかったでしょうね。だから、貴方には感謝しているわ」
彼は唇をきつく噛み締めた。
関わり合いになりたくない彼が不承不承に宝玉を受け取ったのは男の最期の遺言だと思えばこそだった。だが、結局のところ、良いように利用されたようなものだ。
「騙したな」
思わず、彼はぽつりと呟いて喪服の女を睨み付けていた。
しかし、喪服の女は心外そうに言った。
「嘘なんて吐いた覚えはないわ」
確かに。確かに嘘は吐いていないだろう。
だが、釈然としないものがあり、不愉快な気分は消えない。
何か溜飲を下げる言葉はないかと思案する彼を尻目に、喪服の女は床に突き立てられた短剣を一瞥した。その瞬間、短剣は跡形もなくなる。それを確認して、喪服の女は婉然とした微笑みを浮かべ、彼の方を見やった。
「それでは、どうぞ休暇を楽しんでね」
その瞬間、彼は弾かれように叫んだ。
「お前がそれを言うかっ!」
険しい顔で怒鳴る彼を笑いながら、喪服の女は消え去る。
残された彼は歯噛みして唸った。
最後の最後まで、なんて気に障ることを言ってくれる女だろう。
休暇を楽しむ気分など吹き飛んでしまっているのが分からないのだろうか。
否、あれは分かってて言っているに違いない。
それにしてもと彼は改めて思った。
厄介な性格をしているのは喪服の女だけに限ったことではなく一族全体の性格なのだと。
そして、彼はそんなことは知りたくなかったと深く大きな溜め息を吐いて、己の不運を嘆くのだった――。
終
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