黄昏の契約W
四
彼の心は疑問と不安で埋め尽くされていた。
何故、自分は此処にいるのだろうか。
見知らぬ何処かの森。
夜の静寂に包まれ、わずかに届く月光は闇を深め、地面に森の木の淡い影を落としている。
時折、吹く風は枝を揺らして、葉をざわめかせ、効果的に心の不安を掻き立てる。
だが、彼は別のことで不安に襲われていた。
それは彼の視線の先に立つ喪服の女。
いつもは刺繍入りのベールを被っているのに、今はなく、清らかな翠と鮮やかな紫の異色の瞳や薔薇色の唇、清純さと妖艶さを矛盾せずに持ち合わせた美貌が露わになっていた。
死者を悼む装いに身を包んだ不吉なまでに美しい女は出会った当初から彼にとって災いの象徴だった。
何故、自分は此処にいるのだろうか。
来た覚えもなければ、連れてこられた覚えもない。
記憶が繋がっていない。
彼が渋面で悩んでいる間に、喪服の女は静かに夜空に浮かぶ満月を見上げた。
そして、細く白い指先で、宙に円を描く。
「エーヴィヒカイト、永遠の司王を」
呟きに応えるように、喪服の女の描いた円が光を放った。
そして、その内に、白銀髪に、盲目の老人の姿が現れた。
老人はわずかに眉をひそめて喪服の女の名を呼んだ。
「……グナーデか。如何なる用があってのことか?」
いきなり本題に入る辺り、老人が明らかに喪服の女と同類であることを感じ取った彼は眉をひそめた。
しかも、視界に入っているはずの自分は完全に無視している。
喪服の女は微笑みを浮かべて言った。
「用がなければ、連絡など取りはしないでしょう? これを貴方にと預かっているのよ」
そう言って喪服の女は漆黒の宝玉を老人に見せた。
盲目であっても、しっかりと見えているらしい老人はそれを見て、小さな溜め息を吐いた。
「……そなたが受け取ったのか」
喪服の女は老人の真意を見抜くように異色の双眸を細めながら、言葉を訂正した。
「いいえ。正確に言うならば、私の知人が受け取ったのよ。私は仲介役」
「そうか。では、それに何が記録されているか知らぬのだな」
「これの主は死の間際で何も言わなかったそうだし、他人宛のものを覗くなんて私の趣味ではないわ」
喪服の女の言葉に老人は静かに言った。
「あの者の死は不測である」
「でしょうね。でなければ、こんなものを残す必要はないもの」
喪服の女は漆黒の宝玉を見つめた。
元は眼球であったそれは夜の闇の中でも、わずかな光を反射して輝いていた。
「グナーデ、今、そなたは何処にいる?」
「移動はしてないわ」
突然の話題の転換に動じた様子もなく、喪服の女は端的に答えた。
その答えに彼はようやくこの場所が避暑地の周囲にある森の何処かであることを知った。
喪服の女の言葉の意味が分かった様子の老人は何処か心苦しげに告げた。
「では、引継ぎをそなたに頼む」
その瞬間、喪服の女は不快げな表情を浮かべた。
「どういうこと?」
「……言わねば分からぬか?」
呆れすら含んだ老人の言葉に喪服の女は薄く笑った。
「そちらこそ、言わねば分からないようね? 『歪み』があるのでしょう? その処理を一刻も早くしなければならないから現場にいる私に頼む、それくらい分かっているわ」
そこで喪服の女は表情を厳しくして、老人をまっすぐに見据えた。
「私が聞きたいのは、何故、私に哀れみを向けるのかということよ」
その瞬間、老人は目に見えてうろたえた。
「グ、グナーデ!」
「何の理由があって私に哀れみを向けるの、『永遠』」
周囲の気温が一気に下がるような鋭い声音だった。
そして、老人は呻くように言った。
「……許せ。我が頼むのだ、哀れむ資格などあろうはずがない」
「エーヴィヒカイト」
老人は静かに頷いて口を開いた。
「アングストに死期が迫っている」
「!」
喪服の女が何か言う前に老人は言葉を続けた。
「それが発覚した後、アングストは消息を断った」
「――此処で名が出るということは、歪んだのね?」
「今は、まだ、兆候に過ぎない」
「でも、放置しておけば、そうなると貴方たちは判断したのね。だから、処理しようとした。失敗したということは現状を甘く見ていたということ、もしくは情報が足りなかったということ」
「情報ならば、そなたの手に」
老人は喪服の女の手にある漆黒の宝玉のことを告げ、そして続けた。
「だが、そなたとアングストは旧知である」
「見逃しはしないわ。それとこれとは別ですもの」
「分かっている。そなたは成し遂げるであろう。だが、不本意であるには違いない」
その言葉に喪服の女はくすりと笑った。
「……そんなこと、今回だけの話ではないでしょう。私はいつだって不本意だわ。けれど、見過ごす訳にはいかないから、せめて私の納得のいく形で処理するだけのこと」
「では、今回も?」
喪服の女は無言で微笑みを浮かべた。
その瞬間、彼は目覚めた。
「……あ?」
視線の先には天井。
ふと横を見れば、窓から朝日が差し込んでいる。
彼の体は寝台の上にあった。
呆然と上半身を起こし、彼は記憶を辿った。
喪服の女を呼び出した後、彼は何事もなく寝台の上で就寝したのだ。
そして、朝になって目覚めた。
ちゃんと繋がっている。だとすれば、先程のは――。
「夢、か?」
だが、それにしては臨場感があった。
記憶も鮮やかに残っている。到底、夢だとは思えない。
彼は何気なく片手を顔に当てて悩んでいると、不意に或ることに思い付く。
「まさか」
あれも聖眼の力なのだろうか。
ただの夢とは思えない以上、あれは現実に起こったことと考えられる。
だが、自分は寝台の上で寝ていて、あの場所にいるはずがないのだから、物理的に見ていた訳ではないはずだ。実際にいた訳ではないのなら、二人が自分を無視して話していたことも納得出来る。
思わず、彼は低く唸った。
だとすると、何故、あんなものを見てしまったのか。
自分は関わり合いになる気は全くないのに、あれでは否応なく考えてしまう。
出来ることなら、忘れてしまいたいというのに。
「……とりあえず、実際に関わらなければ問題はないか」
どうにか、自分を納得させると、彼はようやく寝台の上から下りて、着替えを始めた。
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