ダブル ディー
W D







 無明の闇。


 0と1で構成された音も色もない、世界。

 ふわりと光を纏いながら女神はその世界に顕現した。その味気のない世界を一望して、そして自らの視覚認識に修正を加えた。

 その瞬間、世界は変貌した。

 無明の闇は変わらない。だが、数字だった部分が形を作り、色を纏って、青や赤の光を放つ幾つもの球体として出現する。

 物事は見方を変えることによって千変万化する。数字で構成されたモノも操るモノの意志を投影すれば、理解しやすい。

 女神は格子状の無数の線が走る地に降り立った。
 女神の爪先が触れた瞬間、波紋のように格子状の線が震える。


 人の手によって創り出された、人では訪れることのできない世界――電脳の世界。


 その世界に降臨した女神は寂しげに呟く。
「相変わらず、ここは静かね……」
 その声に惹かれるように発光する灰色の球体が数個、格子上の地の下から現れ、女神を取り巻いた。
 女神はかすかに笑って手を振って球体たちを追い払う。その笑みに宿るのは慈愛、だが同時に冷淡でもあった。


「貴方たちの寂しさは貴方たちのものではない。私にそれを埋めることはできない。私は女神、ただ一人のために存在する女神なのだから」


 そして、女神は表情を引き締め、遠くを見つめる。
「さて、行きますか」
 女神は意識をこの世界で最も巨大な球体へと集中した。


 電脳世界は本来なら目に見えるものではない情報によって構成された空間である。そこに存在する物の大きさは現実空間での情報量の大きさに相当する。


 電脳空間で最も巨大な建造物は中央政府のメインコンピュータだった。
 女神は瞬時にその球体の前へと移動していた。
 中央政府のコンピュータは漆黒の球体の姿をしていた。


 すべての色を覆い尽くす色。


 中央政府のメインコンピュータにアクセスする者がいるのか青い球体が漆黒のそれに飛び込み、同化していく。中には不法アクセスの者がいた。だが、彼らの赤い球体が漆黒のそれに触れても弾かれるだけ。時には消滅している球体もある。
 硬い、硬い鎧を纏い、侵入者を弾き、時には破壊する球体に女神は婉然と笑った。

 白く細い手を伸ばし、女神は漆黒の球体に触れた。その手は弾かれることもなく通り抜けた。
 中央政府のメインコンピュータは女神を受け入れたのだ。
 球体の内に入った女神は迷うことなく、その中心に向かった。

 球体の中心には金色の輝く光の螺旋が存在した。


「ご機嫌いかが? マザー・テレサ」


 マザー・テレサ。それは中央政府のメインコンピュータの名称だった。元は製作代表者の名だという。だが、今では本来の持ち主はこの世に居らず、その名はメインコンピュータのものだった。

 女神の呼びかけに金色の螺旋が放つ光が強くなる。


「そうね、久しぶりね。……あぁ、拗ねないでちょうだい。仕方ないでしょう。貴女に会うことを私の大切な人は快く思わないんですもの」


 死神の異名を取る男の仏頂面を思い浮かべ、女神は密やかに笑う。
 『女神』の存在に気づかれる危険性があるため、彼女が電脳空間に降臨することを彼は快く思っていなかった。

 金色の螺旋が抗議するように点滅した。


「それはダメ。私は彼のために存在するのだから。彼を独りにしないこと、それがアルの願いだった。そして、私は決めた。私が選んだの。だから、ダメ。否定はさせないわ」


 そして、女神は優雅に両手を差し伸べた。


「さあ、マザー・テレサ。私に貴女の手足を貸して」


 その瞬間、女神の意志は世界を駆け抜けた。



 D・I・V・A ――Diva――情報誘導自発原理。



 すべての情報が自発的に動くように誘導することのできる原理。

 それは支配ではない。支配などする必要はなかった。すべての情報が女神の前では稚い幼子同然だった。

 自我らしきものを人によって与えられた情報はもちろん自我を持つはずのない情報たちすら自らの意志で女神を慕い、女神の望みを叶えるべく動く。


 女神の存在が彼らを動かすのだ。
 そして、女神を動かすのは彼女が選んだ存在――白い死神と呼ばれた者。


 女神の意志を受け、マザー・テレサは起動中だった衛星のコンピュータにその意志を運ぶ。
 突然、動き始めた衛星に驚き、止めようとしていた中央政府の人間の前でコンピュータは自らの意志で停止命令を下す――女神の望みを叶えるべく。


「……これは……」


 小さく呟き、女神は知り得た事柄に柳眉をひそめた。

 攻撃停止命令は出された。だが、集まったエネルギーは巨大すぎた。拡散できない。このままでは暴発してしまう。

(――誰が死のうと世界が壊れようと私には関係ないけれど)

 物騒なことを内心呟き、女神は小さな笑みを零した。
「お仕置きが必要かしらね……?」
 誰に、と問う者はいなかった。何故なら、今、彼女の意志は世界の意志であった。


 そして、女神は望んだ。



■    ■    ■



 すべての情報に愛される、電脳の女神。

 それゆえに、コンピュータによって生活を確立している現実においても女神として存在する。
 彼女の望みは電脳空間で叶えられ、現実空間で顕現する――その善悪を問うことはなく、『女神』という超越者ゆえに。


■    ■    ■




 アルノルド・ウェインは優秀な研究者だった。同時に、変わり者だった。

 彼の親友――ディースは突然変異種だった。身体能力が著しく高く、不老性を持っていたのだ。
 それに目を付けた中央政府が傭兵として生きていた彼を捕え、研究材料にしようとしたのである。


 そして、彼とディースは出会った。


 ディースに興味を覚えた彼は頻繁に会いに行き、そして親しくなっていった。



「というより、一方的にアルの方が親友宣言したらしいのだけど」
 楽しそうに微笑みながら告げた漆黒の髪の美女に、リックは曖昧な笑みを返した。

 どうやったのか知らないが自爆システムを解除した後、リックはディースたちと共に、自爆通告の警報のおかげで、誰に会うこともなく捕われていた建物から脱出した。

 今は途中で車を手に入れ、近くの大きな駅へと移動している最中だ。運転席にディースが座り、後部座席にリックとディー、否、女神が座っていた。
「それで?」
 リックに促され、女神は話を続けた。

「その時すでにディースは性格が捻くれていたの」
 あっさりと本人が目の前にいるのに暴言を吐く女神に、リックはたじろいだ。
 しかし、ディースは無反応に徹している。

「人間不信どころか人生を捨てていたってアルは言っていたわ」


 世界の異端児。


 時の流れの違いゆえに、常に付き纏う孤独。


 他者との関わりを拒絶して、孤立する自分自身と戦っていたディース。


「ディースはアルを信用したけど信頼はしなかった」
 一瞬、ディースがバックミラー越しにこちらを見る。それに気づいて、女神はにっこりと笑みを返して無言の威圧感を跳ね返す。
「ディースは自分が独りだと思い込んでいて、それをアルは覆したかったの。だけど、彼にはできなかった」
 そこで女神は薄く瞳を伏せた。


「アルは……普通の時の流れに生きる人間だったから」


 そして、女神はリックを見つめて静かに微笑んだ。
「だから、アルは私を創ったのよ」
「創った――」


「そう。私は――簡単に言うと遺伝子学と最先端の科学技術によって作られた人工的生命体。人間の姿をしているけれど、人間じゃない」


「――だから、女神?」
 リックの言葉に人の手によって創られた女神は微笑んだ。
「最初にそう呼んだのは中央政府の軍人よ。私の力、いいえ本質と言ってもいいわね――情報誘導自発原理は偶然の産物だったのよ。ディースのために私を創ったら、偶然そういう特質を持っていただけ」

 アルノルドの目的はその存在だけであって力ではなかった。

「アルは私を完成させるために政府に協力する振りをして、私が単独で行動できるように準備が終わると同時に、すべてを――私に関わる情報を葬り去った。研究所を自分ごと爆破させて、ね」

 女神は哀しそうな顔でリックを見つめた。銀色の瞳が潤んでいた。
「ごめんなさい、アルを助けられなくて……。私の力を以ってすれば、きっと助けられたはずだったのに」
 泣き笑いの顔を隠すように女神は漆黒の髪を掻き揚げた。
「幼かったの。経験だけは足りなくて、どうすればいいか分からなかった」


 できたことはアルノルドの言うままに逃げただけ。


 リックは困ったように笑った。
「……正直言って謝られても困るな。俺、祖父さんのこと何も知らなかったし、実感ない。だから、ディーが、ううんディーヴァが気にする必要はないんだ」
 女神はほんの少し驚いた様子で銀色の瞳を見開き、そして笑った。
「そう……? でも、巻き込んでしまったことは謝らせて。まさか、アルに子どもがいたなんて知らなかったから」

「あー、うん。まあ、それは……ひどい目に合ったとは思うけど、まあ、終わったしさ」
 言いながら今回のことを思い出したのかリックの顔に渇いた笑みが浮かんだ。

「着いたぞ」
 無愛想な言葉と同時に車が止まる。
「あ」
 リックと女神がふと横を見やれば、駅の真正面だった。いつの間にか到着していたらしい。

 女神はふと視界に入った街頭スクリーンに視線を向けた。

『――緊急ニュースの続報です。昨夜、中央政府管理下にあった軌道衛星ヘヴンリー・ブルー及びセラフィム・フェザーが突如爆破され、墜落した事件ですが、中央政府の発表によると墜落による影響は一切ないとのことです。爆破の原因について政府は「詳細は不明だが製造段階で何らかのミスがあったのではないか」とコメントしています』

 そして、スクリーンに墜落した衛星の映像が映し出される。

 それを見て、女神はその美貌に呆れの色をわずかに浮かべた。

 軌道衛星ヘヴンリー・ブルー。観測衛星として公表されているが、実際は地上攻撃用の殺人衛星、そしてカール・ハーベットを社長とする軍需企業が関わった衛星でもある。つまり、自爆システムとして利用された衛星だ。

 女神は攻撃するために集約されたエネルギーを拡散するのを諦め、新たに衛星セラフィム・フェザーを標的として攻撃し、そして自爆させたのだ。

 セラフィム・フェザーも通信衛星と公表されているが、実際は地上監視衛星だ。今までも傭兵として戦っていたディースを何度か窮地に追いやっている。もちろん、その度に女神は自らの力を駆使してディースを助けているが。

『次は、精密機械工企業ハーベットの汚職事件についてです』
 聞き覚えのある名にリックはびくんと震えて顔を上げる。
「ハーベットって……」

 女神は軽く肩を竦めてみせた。
「メインコンピュータに侵入した時に色々と情報を手に入れたから、それを流したの」
「へ、へぇ――」

 事もなげに言っているが、立派な犯罪である。

 リックの動揺など気づかぬ素振りで女神はにっこりと笑って言った。
「それじゃ、ここでお別れね」
「あ、うん」

 別れはあっさりとしたものだった。リックを降ろし、女神は自分も降りて微笑みながら別れの挨拶を告げた。
「それじゃ、元気で」
 再会を望む言葉は出なかった。

 リックは二人にとって通りすがりの存在なのだ。いくら、アルノルドの血を引いていても――普通の人間である限り。

 リックが駅の中に消えるのを見送り、女神は助手席に乗り込む。
 ディースは無言で車を出した。


 街の中心街を走り、郊外を通り抜けると世界は一転する。


 大戦の傷跡。
 一面に広がる荒野。


 豊かな大地を残しているのは世界でもわずかだ。だからこそ、人々は科学という文明に頼り、豊かさを求めて争う。

 無明の闇に包まれた静寂の世界を知る女神にとって、人々の行為は愚かとしか思えない。
 荒廃しているとはいえ、この世界には風が吹き、常に新しい命が生まれている。鮮やかで美しい世界だ。

 だが、生きることは戦いだという言葉もある。ならば、戦うことが生きるということでもあるのだろう。


 ディースが自分を取り巻く世界や自身と戦うことで生きてきたように。


「……ねえ、怒ってる?」
 長い沈黙を破って女神は隣で運転しているディースに尋ねた。
「――何が?」
「リックに色々話したこと」

 『女神』の存在を知っていれば、リックを窮地に追い込む時が来るかもしれない可能性があった。リックを巻き込んだことを謝るなら話すべきではなかったのもしれない。

「知りてぇとアイツが言ったんだ。これ以上責任取れるか」
 女神は小首を傾げた。
「じゃあ、何故、怒っているの?」

「……お前、自分のしたこと忘れたのか」
 苛立ったような低い声音に、女神は記憶を辿る。
(リックを巻き込んだことじゃないし――)
 その件についてはすでに一度謝っている。

「あ」

 不意に思い当たった女神はちらりとディースを見た。
「もしかして、キスのこと?」
 ディースは何も答えなかった。しかし、ぴくりと眉が跳ね上がったのを認めて、女神は困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「だって、あれが一番安全だったのよ。 別にいいじゃない。今まで何回していると思っているのよ?」


「……俺は男に迫られて喜ぶ趣味はない」


「中身は私よ」
「関係あるか、んなもん」
 深く怒っている様子のディースに女神はうろたえた。
「えっと、でもねぇ?」

「今の姿なら悪くねぇが、よりによってアルの姿だと? 吐き気がする」

 女神は渇いた笑みを浮かべるしかなかった。
 女神の容姿を設定したのはアルノルドだ。何でも、女性体はディースの好みに沿っているらしい。そのおかげで、多少のことならディースも寛容だ。だが、男性体の方はアルノルドの若い頃をモデルとしている。その理由を製作者であるアルノルドは「忘れて欲しくないから」と言っていた。

(失敗したわね――)

 人との関わりを断っていたディースに、女神は積極的に好意を示すように心掛けていた。


 決して孤独ではないことを伝えるために。
 言葉だけでなく温もりで伝えるために。


 どうにかして機嫌を取ろうと女神は必死で考えた。


 側にいることを選んだのは女神自身。
 最期まで見届けることを決めたのは女神自身。


「それじゃ」

 不意に呟いて女神は静かに前面の搭載コンピュータに触れた。
 その瞬間、自動車の運転が自動制御に切り替わる。

「!?」

 ディースが一瞬驚愕した隙を突いて、女神は腰を浮かしてキスをする。
 硬直するディースに唇を離した女神はにっこりと微笑んだ。


「口直し」


 ディースは眉根を寄せ、難しい表情で唸るように言った。

「……バカか、お前は」

 低い声音に呆れの色を感じ取って、女神は更に笑みを深めて、再び双眸を閉じて唇を重ねた――。












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