水底の言葉


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 礼拝という一仕事を終えたエルドは軽く息を吐き、ふと何気なく、窓に視線をやった。
 そして、窓の向こうに見えた光景に眉をひそめた。
「!?」
(マリア!? それに、あの男たちは――?)
 木陰に座り込んでいたマリアを男たちが半ば引き摺り起こすかのように立たせていた。
 不穏なものを感じ取り、エルドは外へ駆け出した。
「さあ、ヒルダ様。我が主がお待ちです」
「ま、待って……!!」
 抵抗らしい抵抗もできず、苦しそうに喘ぐ姿に、またマリアの身に異常が起きていることが分かった。
 エルドは持っていた聖書をマリアの腕を掴んでいる男の頭を目掛けて投げつけた。
 分厚い聖書の角が男の頭を直撃する。
 エルドは心の中で神に謝罪しつつ、マリアと男たちの間に割って入る。
 乱入者に気づくや否や腰に佩いた剣を引き抜いた物騒な男たちを素早く視線をやり、エルドは先を制して動いた。
 剣を持つ男の一人の手元を狙って、手刀を振り下ろす。
「うッ!」
 手の力が緩み、剣が跳ね上げられる。
 その隙を狙い、エルドは軽く屈みこんで足払いをかけた。男は簡単に足元を掬われ、後ろに倒れ込む。
 エルドは体勢を立て直し、落ちてくる剣を掴み取ると、その切っ先を男の喉元に当てた。
「!!」
 咄嗟に応戦しようといた男たちは硬直する。
 それを確認し、エルドは内心溜め息を吐いた。
 仮にも神聖なる教会で、血を流すようなことだけは避けたかった。そのために、先手を取ったが、手のひらが伝わる剣の冷ややかさと重みは苦々しい思いを掻き立てていた。
 背に庇ったマリアが驚愕の眼差しで見つめてくるのが分かった。
「な、何で……」
 乱れた呼吸の合間から小さな呟きが聞こえた。
 やはり、異常が発生しているらしい。早々に落ち着いた場所に移して、安静にさせないとまずいだろうが、今、隙を見せると男たちが斬りかかってくる予感がした。
「一体、どちら様ですか? こちらの女性は訳あって当教会が保護している方です。身元の分からない方々に連れていかれるのを見過ごす訳にはいかないのですが――」
 やんわりとした言葉の割に、エルドの視線は鋭かった。
 エルドの登場と同時に、剣を抜いた男たちを怪しまない理由がない。
「……」
 じりじりと男たちが後ずさる。彼らは温和な若い神父としか見えないエルドを警戒していた。
 突き刺すような緊張感。
 エルドは藍色の双眸を細め、男たちの動きに集中した。
 限界まで膨れ上がった緊張が破裂しようとした、その瞬間だった。
「待て」
 涼やかな声が緊張を断ち切る。
 男たちは息を呑んで我に帰り、一斉に跪いて頭を垂れた。
「……?」
 男たちの背後から現れたのは優美な青年だった。
 栗色の髪に、青の瞳。すらりとした長身を包むのは品の良い外套と落ち着いた威厳。
「レイス・アルヴェート伯爵……」
 この村を含めた幾つのかの村と街と、肥沃な大地を領地としている若い伯爵。前伯爵の早すぎる死を乗り越え、見事その才覚で領主としての任を努めていると噂高い。
 無意識のうちに呟いたエルドに、青年伯爵は微笑みを浮かべた。
「無礼はお詫びしよう、エルド・カーディ神父」
 そして、レイスはエルドの背後にいるマリアを見やった。そして、安堵の表情を浮かべる。
「ご無事で何よりです、ヒルダ。お探しするのが遅くなりまして申し訳ありません」
 エルドは剣先を下ろし、戸惑いながらレイスと彼が『ヒルダ』と呼んだマリアを交互に見た。
「……アルヴェート伯爵、彼女をご存知なのですか?」
 レイスは静かに頷いた。
「ヒルダ・シーズファル子爵令嬢、私の婚約者だ」
 その言葉にエルドは眼を瞠った。
「彼女の故郷から発った船が嵐に巻き込まれ、行方知れずとなっていたが、貴方が助けてくれていたとは――感謝する」
 エルドはどう答えるべきか迷った。
 レイスの言葉を疑う訳ではないが、肝心のマリアが記憶を失っているのだ。真実かどうか見極める術はない。
 その時だった。
「私を探していたと言うのは本当ですか、レイス様」
 背後にいたマリアが前に進み出て、静かに問い掛けた。
「それはどういう意味ですか、ヒルダ?」
 くすりと微笑み、レイスは軽く小首を傾げた。
「……物同然に嫁いでくる女を探す理由が見当たりません。父ならまだしも貴方に、私の生死などさほど問題ではないのでしょう?」
 淡々と告げる言葉の内容に、エルドはマリア、否、ヒルダが記憶を取り戻していることを知った。
 レイスは軽く肩を竦めてみせた。
「貴方ほどの美しい人を妻に迎えられると喜んでいた私の気持ちをお疑いになると?」
「……容易く信じられるほど私が愚かとお思いですか」
「なるほど、お互い時間が必要なようですね」
 くすくすと笑い、レイスは優雅に手を差し伸べた。
 その手をヒルダは無言で見つめ、そして小さな溜め息を吐いた。かすかに伏せられた琥珀に瞳に迷いが一瞬過ぎり、そしてそれは苦々しさに転じる。
 ヒルダはレイスの手を待たせたまま、エルドの方へと振り向いた。
「今まで迷惑かけてごめんなさい」
「……」
 初めて見る殊勝さにエルドは驚愕して立ち尽くす。
 その姿を見て、ヒルダは小さく笑った。
「最後に一言だけ。どんなに辛くても自分に嘘をついたら負けよ。辛いなら、その辛さを抱いたまま生きられるだけ強くなりなさいよ、男だったらね」
「!」
 エルドが何か言う前に、ヒルダは踵を返し、レイスの手を取った。
「参りましょう」
 まっすぐに見つめてくる琥珀の瞳に、レイスは双眸を細め、無言で頷く。そして、ヒルダを先導し、待たせてあった馬車へと乗った。
「剣を返していただく」
 呆けているエルドの手から剣を取り戻し、男たちもレイスに従い、馬に跨る。
 一斉に鞭が入った。
 二人が乗り込んだ馬車の車輪が回り出す。
 かすかに舞い上がる砂煙の中、遠ざかっていく車輪の音が何かが瓦解した音のように聞こえた。




 不運だった。
 不運だったのだと静かに彼女は思った。
(運命の皮肉、もしくは神罰……なのかしら?)
 手入れの行き届いた品のある部屋。
 主の趣味を窺わせる絵画に、陶磁器。
 決して、華美ではなく、落ち着いた雰囲気がある。
(これが『ヒルダ・シーズファル』の部屋……)
 くすりと彼女は笑った。
 頭痛はすっかり治まった。呼吸困難も起こる気配がない。
 むしろ、快調だ。
(これから、どうしようかしら……)
 ヒルダに与えられた命はレイスの妻となり、後継ぎを生み、彼女の生家シーズファル子爵家とアルヴェート伯爵家の絆を確固たるものとすること。
 天候不順による凶作と、伝染病に襲われた自領への支援する約束の証。
 それがヒルダの嫁いできた理由だ。
 部屋の明かりを消し、彼女は寝台の上に腰掛けた。
 内側に模様が入った硝子窓を通って床に落ちる月光が揺れているように見えた。
 ゆっくりと彼女は琥珀の双眸を細めた。
 なすべきことは分かっている。
 だが、躊躇いがある。
 本当にそれでいいのか。今更な問いを投げかける自分がいる。
 せっかく治った頭痛がまた復活しそうな気がして、彼女は思案するのを中断して寝台に潜り込んだ。


 暗い、暗い闇の深淵。
 冷たい、冷たい闇の極み。
 誰もいない。
 何も見えない、聞こえない。
 完全なる静寂を司る死の世界。
 それでも、生は確かに存在していた。
 例え、闇に近く、死に等しくとも。


『忘れるな。自分が何者であるか、忘れてはならない』

『決して逆らってはならない。それが生きる途だ』

――決して、逆らってはならない。
 脳裏に響いた声に、彼女は目覚めた。
(何?)
 自分以外の人の気配があった。否、それどころか、体の上に誰かが覆い被さっていた。
 咄嗟に身動ぎ、抵抗しながら、彼女は口を開いた。
「だ、誰!?」
 誰何の声に答えるかのように、夜空にかかっていた雲が流れ、月明かりが差し込む。
 冷たい光に照らされた顔を見て、彼女は息を呑んだ。
「レイス、様……」
 その驚きを見て取って、レイスはくすりと微笑んだ。
「私以外に誰が貴方の寝室に入れると?」
「!」
 羞恥か怒りか、白い頬に朱が差す。
「……何を、考えておいでです。まだ、婚儀を迎えておりませんものを」
 抵抗するのを止め、彼女は固い声でレイスを咎めた。
「海に落ちなければ、とうの昔に貴方は私の妻でしたよ」
「――それにしても、あまりに礼をお忘れでは? 私は逃げも隠れも致しませんのに」
 その言葉にレイスは薄く笑った。整った容貌をしているだけに酷薄な笑みは彼の内に潜む残虐性を印象づける。
 否、彼特有の残虐性ではないだろう。多かれ、少なかれ、生命は弱い者を踏み躙って強い者が生き残っているのだから。
「言葉だけでは信用できない」
 柳眉をひそめ、彼女は短く尋ねた。
「……何故?」
「貴方は私の妻となるべき女性だというのに、他の男性に心を奪われていらっしゃるからですよ」
 思いがけない言葉だった。
「何を、言って……」
 戸惑う彼女を見て、レイスは軽く眼を瞠った。
「もしかして、無自覚だったのですか?」
 そう言うと、レイスはおかしそうに肩を震わした。
「なら、失言でしたね。気づかぬ方が良かったかもしれない、神父に想いを寄せるなど報われぬものを」
 その瞬間、彼女の呼吸が止まった。
 しかし、残酷な言葉はまだ続いていた。
「ですが、やはり早々に貴方を私の物にしておくべきなのでしょうね」
 そっとレイスは彼女の耳元に唇を寄せた。
 そして、まるで睦言を囁くように言葉を紡ぐ。
「あの神父も貴方を大切に思っていたようですし」
 くすくすとレイスは笑いながら、彼女の長い髪にくちづけた。
 無抵抗なのを良いことに、大胆になっていくレイスの動きに、彼女は我に返った。
「止めて下さい」
 自分で言った言葉と思えなかった。
(何故?)
 ヒルダ・シーズファルはレイス・アルヴェートの妻になる。
 それは決定事項であり、自身も納得してはずだ。
 必要だと、分かっているはずだ。
 拒む理由などどこにもない――そう、自分の心の中以外には。
「!」
 彼女はきつく唇を噛み締めた。
「私を離して」
「冗談でしょう、離す必要などどこにもない」



 そして、夜の静寂に小さな悲鳴は溶けて消えた。





 突然、慌しく現れた男たちに、礼拝の後片付けをしていたエルドはあっけに取られた。
「探せ! 隈なく探すんだ」
 まるで強盗のような猛々しさで荒らしていく様子に、エルドは我に返る。
「一体、何事ですか!?」
 疑問を口にしてから、エルドは気づいた。
 男たちがアルヴェート伯爵の部下だということに。
 以前、エルドに剣の切っ先を突きつけられた男が苛立たしげに説明した。
「伯爵と、ヒルダ様が屋敷から消えたのだ」
 ヒルダを迎えた明くる朝。
 侍女がヒルダの許を訪れると、そこには誰もいなかった。
 残されたのは乱れたシーツの皺と、倒れた花瓶。
 そして、床に染み込んだ水だけだった。
 その上、消えたのはヒルダだけではなく、屋敷の主であるレイスもであった。
 深夜、ヒルダの部屋にレイスが入っていったのを警備の者が目撃していることもあり、二人は同時に消えたと推測された。
「消えたって、どういうことですか!?」
 その前の説明部分にも引っかかりを覚えたが、重要なのは外に出た痕跡もなく消えたことだった。
「分からん! お二人の身に何かが起こったのか、どちらかが被害者になったのか加害者になったのか、それすらもな!!」
 エルドは愕然となった。
 男たちはヒルダがレイスに何か危害を加えたではないかと疑っているのだ。そして、彼らは彼女がここに逃げ込んでいるのではないかと確かめに来たに違いなかった。
(そりゃ、多少荒っぽい性格でしたけど)
 記憶が戻った彼女は落ち着いた淑女そのものだった。そう、まるで別人のようで――。
 驚きから抜け切れないエルドを余所に、男たちは教会や住居を探し回り、どこにもヒルダの姿がないことを認めて、去っていった。
 その間、エルドはずっと立ち尽くしていた。
 胸が灼けるような、焦燥が全身を侵していく。
(何故……?)
 脳裏に浮かぶのは感情豊かな『マリア』の顔。
 決して、自己を律した淑女の顔をした『ヒルダ』ではない。
 エルドが知る、エルドの記憶に残る彼女の声。


『また、海ですか? 怖くないんですか、普通、死にかけたんですよ』
『全然。それに、海は私を殺さなかったわ』


 呆れるほど前向きな心。
 無欲なようで、我侭な性格。
 恨めしいくらい残酷な強さで、立っていた。
 本当は忘れたままでいたかったのだろうか。
 本当は死んでしまっても良かったのだろうか。
 エルドの足は自然と動いていた。彼にはヒルダが、否、マリアが行くところに一つだけ思いあたったのだ。
 彼女の運命を大きく左右した場所――それは海でしかなかった。
 そして、エルドが彼女を見つけたのは夜半過ぎになってからだった。
 ヒルダは流れついた岩場より、更に奥まった誰も来そうにない岩場の先端に海を眺めるように立っていた。
 潮風に煽られ、長い髪が横に流れ、簡素な夜着の裾をはためかしている。
 思わず、安堵の息を零し、エルドは声をかけようとした。
「マリア」
 びくりとヒルダの背が震えた。しかし、振り返る様子はない。
「マリア……?」
「それは、私の名前じゃないわ」
 静かな否定に、エルドは我に返った。
「……すみません。では、ヒルダ様――ご無事で何よりです」
 改めて呼びかけたエルドは一瞬自分の心に走った痛みに、眼を背ける。
「……無事じゃないわよ」
「え?」
 小さな答えに、エルドは驚く。
 嫌な予感が脳裏に過ぎった。そして、一緒にいると思われる青年伯爵の姿が見えないことに安堵を覚える。
 真偽のほどはともかく伯爵に対してエルドは怒りを覚えていた。
 何故、怒りを覚えるのかと不意に疑問が沸いた瞬間だった。
「ヒルダ・シーズファルは絶望していたわ」
 暗い海を眺めながら、彼女は続けた。
「領地のため、領民のため、父のため。これが貴族の娘に生まれた義務だとどれだけ自分に言い聞かせても、無駄だった。彼女は拒みたくても拒めない運命に絶望したの」
 ざあ……と波の音がした。
「特に、自分自身に。何もかも諦め切って、すべてを流れ任せることにして、そして嵐が来た」
 風に靡いていく髪を彼女は軽く抑えた。
「ヒルダは足掻くこともしなかったわ。海に落ちて、だんだん揺らめく光が遠くなっても、苦しくなっても抵抗しなかった。すべてに絶望していた彼女にとって、生きることも死ぬこともさほど変わりがなかったから」
 まるで自分のことを他人のように話すヒルダをエルドは訝しげに見つめた。
「彼女の体は深く深く沈んで、私のところに辿りついた」
(彼女……? 私……?)
「暗く、冷たい、一条の光さえ差さない闇の世界――深海が彼女の棺、彼女の墓、彼女の安息の地」
 訳もなく、エルドの体を寒気が襲った。
「何を言っているのですか、貴方は生きているではありませんか!?」
「そうね、私は生きている」
 ゆっくりとヒルダが振り向く。
「でも、ヒルダは死んだのよ――誰もいない、闇の底で」
 エルドは息を呑んで、視線の先に佇む女性を凝視した。
 白かったであろう夜着に飛び散った赤黒い染み。
「……怪我でも?」
 場違いな問いに、彼女はくすりと笑った。
 それが見覚えのある笑みだったことに、エルドはかすかに安堵する。
「いいえ、これは私の血じゃないわ。あの男のものよ」
 さらりと言われた内容をエルドはすぐには理解できなかった。
 ややあって、エルドは震える声で尋ねた。
「……伯爵をどうしたのですか?」
 彼女は軽く肩を竦めた。
「殺したわ」
 清らかな美貌が微笑みを浮かべる。
「私が殺したの、『ヒルダ』じゃないわ。間違えないでね?」
 ようやく、ようやくエルドは彼女の言葉を理解した。
「貴方は、誰です……?」
 彼女はふわりと笑った。
「それを聞くなら、『何か』よ。私たちに名前などない。名を持つことさえ許されないのだから」
 エルドはごくりと喉を鳴らした。
 声が出ない。
 彼女は自分の問いを待っている。そして、答える気でいる。
 自分はその答えを聞きたくないのだとエルドは思った。
 聞いてしまっては取り返しのつかないことになる。
 そんな心の声が聞こえた訳でもないだろうに、彼女が言葉を添えた。
「もう、遅いわ」
「!」
 暗い海を背負い、彼女は微笑んでいた。
「……暗く、冷たい、まるで死そのものが沈んでいるような深海にも魚がいるのよ」
 突然、話題が変わり、エルドは瞬いた。
「誰にも知られることなく、生まれては死んでいく命があるの。彼らは暗黒の闇の底でしか生きられない。私たちも同じ」
 彼女はわずかに瞳を伏せた。
「だけど、私たちには一つだけ方法があった。光の許へ行っても、陸に上がっても、平気な器を手に入れること」
 そして、不意に彼女は顔を上げ、朗らかに笑った。
「不運だったのよ、私。初めて器を手に入れたせいで、記憶は失うし、助けられた先は教会だし……」
「……マリ、ア……」
「そう! その名前も!」
 一瞬、頭を抑え、彼女は続けた。
「聖母の名前なんて、私たちにしてみれば毒そのものなの。私ったら、それにずっと浸っていたのよね」
「マリア」
 その瞬間、彼女は厳しい顔つきでエルドを睨みつける。
「私の名前じゃないって何度も言っているでしょう」
 どこか泣きそうな表情に見えたのは間違いだったのか。
 彼女は嘲りの響きを込めて、告げた。


「私は魔物よ」





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