水底の言葉


V


 くすくすと笑う声がした。
 その声が現実を否定し、意識を飛ばしかけたエルドの心を引き戻す。
「私は深海の魔物。決して人とは相容れぬもの。神の祝福を受けずに生まれた、邪なるもの。気分はどう? 神に忠誠を誓う貴方が助けたのは神を冒涜する魔物だった気分は。後悔している? また罪を重ねたと悔やんでいる?」
「ッ!」
 その瞬間だった。
「止めろッ!!」
 エルドは我を忘れて叫んでいた。
「私は後悔などしていない! 後悔など……していない」
 助けなければ良かったなどと思えない。
 後悔するというのなら、あの時、あっさりと伯爵の手に委ねたことだけだ。
「帰りましょう。犯した罪は消せなくとも、償えるはずです」
 わずかな沈黙の後、彼女は薄く笑った。
「そして、私を殺すのね」
 思わず、エルドは激昂した。
「違います! どうして私が貴方を殺さなきゃならないのですか!!」
「私が魔物だから」
「関係ない!」
 即答して、エルドは我に返った。
(関係ない……?)
 何故、関係ないと言い切ってしまえるのか。
 彼女は魔物で、神に背を向ける存在。人を殺しても、良心の呵責を覚えない。
 けれど。
(彼女は……)
 エルドは改めて毅然と立つ女性を見つめた。
「貴方がどんな存在でも、貴方であることには変わりない」
「!」
「だったら、私には関係ない……」
 不意に強い風が吹き、彼女の美しい長い髪を巻き上げる。
「愚かなことを――」
 小さな、小さな呟きは潮騒に消えた。
「愚かなのはお前もではないのか」
 不意に届いた声に二人は驚いて視線を移した。
 波が打ち寄せる岩場に一人の青年がいつの間にか立っていた。
「アルヴェート、伯爵……?」
 思わず、呼びかけ、エルドは異変に気づく。
 優美な青年の衣服は水が滴り落ち、その喉に大きな傷がぱっくりと開き、変色していた。
「……兄上」
 その声に、青年は冷めた眼差しを向けた。
「我が眷属にして、我が妹よ。何をしている?」
 一瞬、彼女の肩が震えた。
「……何を、とは私の言葉。何ゆえ、陸に? その体は器としては不適格でしょうに――」
「長く留まる気はない。それに、お前がつけた傷さえなければ、この暗き欲望に満ちた器は最適である」
「……わずかな水では窒息させるには不十分でした」
「――そもそも、何故、殺した?」
 冷淡な問いに、彼女は息を呑んだ。
「我らは血肉を糧とする下等な輩とは違い、負の感情を糧とするもの。欲望に染まり易い人間は生かしてこそ価値があるというのに」
「……」
 沈黙を守り、答えようとしない彼女を冷ややかに見つめ、青年は冷淡に告げた。
「死の病に侵されたか」
「兄上!」
 それまで冷静を保っていた彼女が激しく動揺していた。
 青年は静かに彼女に歩み寄り、動揺を宥めるように髪を梳いた。
「ふむ、死の恐怖を食し、多少は回復しているか」
「兄上、私は」
「我が眷属にして、我が妹よ。死は格別であったか?」
 ぴくりと震え、彼女は視線を宙に彷徨わせた。そして、何かを諦めたかのように肩を落とした。
「はい……」
「ならば、おのれのなすべきことは分かっているはず」
 彼女は搾り出すように答えた。
「はい……」
 その苦痛に満ちた表情に、エルドは思わず呟いていた。
「マリア……?」
 びくんと大きく、彼女の肩が反応した。
 エルドの呼びかけに答えを返したのは青年の方だった。
「そうやって、毒を注ぎ込むのか、人間よ」
「ッ!」
 エルドは言葉を失い、立ち尽くす。
 暗く濁っている青の双眸でエルドを見据え、青年は忌々しげに呟いた。
「神の信徒よ、お前が我が同胞に死の病を与えたか」
「何を……」
(死の病?)
 神は魔物を厭い、魔物は神を厭う。
 だが、神父と言っても人間にすぎない自分に彼女を害する力などあるはずがない。
「愚かなことよ。真、愚かなこと。そして、残酷なること。せめて、その死を以って我が同胞の命を繋げ」
 その瞬間だった。
 二人の魔物の背後から、水流が逆立ち、鋭い先端を象り、エルドに向かって宙を走った。
「!!」
 エルドは避けることができなかった。紛れもなく、危険が迫っていると分かっているのに、動くことができなかった。
 否、動くことを拒絶したのだ。
(私の死が彼女の命を救うなら)
 しかし。
「マリア……!?」
「く……ッ!!」
 エルドの心臓を目掛けて、襲いかかった水流の軌道線上に立ち塞がっていたのは魔物である彼女だった。
 両の手のひらを重ね、水流の先端を押し止め続け、彼女は苦痛に表情を歪めた。
「う、あッ……――――ッ!!」
 言葉にならない絶叫と共に、水流が弾け飛ぶ。そして、無数の水滴となり、岩場に立っていた三人に降り落ちた。
 がくんと彼女の細い体が傾ぎ、エルドは無意識のうちに抱き止めていた。
「何故……」


「それほどに死の病に侵されたか? 我が眷属にして、我が妹よ」


 その言葉に彼女は顔を上げた。
 感情など全く窺えない冷たい眼差しに射られ、心が震えた。
「兄上――」
 自分の体を支える手の温もりに、心が軋んだ。
 激しい頭痛が襲っていた。
 しかし、彼女はそれを堪え、言葉を紡ぐ。
「すべて無意味です。どんな負の感情でも、どれほど食しても私の死は変わりません。もはや、途は決まりました」
 彼女の言葉に、青年の柳眉がひそめられた。
「もう、決まっているのです」
 そう、すべてはきっと最初から。
 ただ、認めたくなくて、恐ろしくて、目を背けていただけだ。
(私は魔物なのに)
 何もかも忘れても、魔物であることに変わりはなかったのに。
 自嘲の笑みを浮かべ、彼女は瞳を伏せる。
(一番、愚かで、一番、卑怯で、一番、逃げていたのは私自身――)
「……認めるのか」
 兄の問いに、彼女は目を開いた。
「我らにとって、最も忌むべき感情――『愛』を抱いたことを」
 彼女は小さく苦笑した。
 本能が激しい警鐘を鳴らしている。認めることは自ら死を宣告することに他ならないと。
 けれど、もはや偽るには遅すぎた。否、どんなに誤魔化そうとも自分自身は誤魔化せない。
 嘘を嘘と知っているのは、何より嘘を吐いた本人なのだ。
「死の病なれば、それは『恋の病』と言えましょう――」
 驚きの余り、びくりと支える手が震えるのを感じて、彼女は益々苦笑を深めた。
「……愚かなことよ」
「はい」
 彼女は素直に頷いた。
 彼女自身も愚かだと思う。滑稽だと思う。
 魔物である自分が神父に恋をする。
 これほどバカバカしい話はない。
(最初から結果なんて考えるまでもなく決まっているのに……)
 それでも、足掻きはした。
 教会から、彼から離れることで事態を収めようと努力した。
 レイスは優美な容姿とは裏腹に荒々しい欲望に満ちていた。
 その傍らにいれば、憎悪、恐怖や不安といった負の感情に飢えることなかっただろう。
 事実、体の不調は瞬く間に治ったのだ。
 妻となることとて、たかが器だ。何もこだわる必要などなかった。
 だが、レイスに触れられた瞬間、全身に不快感が襲った。
 彼が放つ残酷な感情は心地良いのに、その声音も温もりも嫌悪感を掻き立てた。
 気づいたら、彼女はレイスを殺していた。
 殺してしまったと思った瞬間、嫌悪感から解放されて安堵した。
 安堵したことが泣けるくらいおかしかった。
 いつの間にか、彼女の瞳から涙が零れていた。
 すでに頭痛は頭どころか、全身に及んでいた。体中の細胞の一つ一つが拒絶して、弾けていく。全身から力が抜け、彼女を彼女として存在させているものが崩壊していくのが感じられた。
 爪先から崩壊を始めた彼女の体を見て、エルドは息を呑んだ。そして、溢れそうになる名を慌てて飲み込む。
 聖母の名は魔物にとって毒。
「ッ! ダメだ、諦めるのか!?」
 必死なエルドの声に、彼女はかすかに笑った。
「だから、言ったでしょう、不運だったって」
「そんな一言で簡単に!」
「簡単じゃないわ」
 彼女は強く否定した。
「簡単な、訳がないでしょう」
「マリ……ッ!」
「でも、私は決めたの。不運でいいと。選んだのよ」
 ヒルダのように絶望しているのではない。諦め切った訳ではない。
(私が、決めたことだわ――)
「……どうすればいい? 私は君に何をしてやれるんだ?」
 今にも泣きそうな顔をしているエルドに、彼女は苦笑する。
(ホント、情けないダメ神父なんだから)
 微笑むだけで答えようとしない彼女に焦れて、エルドは伯爵の姿をした魔物に尋ねた。
「どうしたら、彼女は助かる!?」
 同族の消滅を前にしても、青年の顔に揺らぎはなかった。
「……何ゆえ、我が同胞の生存を望む?」
 青年の問いに、エルドは躊躇わなかった。
「大切だから。彼女が何者であろうと関係ない! 愛しているからだ!!」
 エルドがそう言い切った時だった。


「エルド」


 優しい声音で名前を呼ばれ、エルドは腕の中の女性を見下ろした。
 そこには花が咲き綻んだような明るい笑顔があった。


「ありがとう」


 一瞬だった。
 エルドの腕から重みが完全に消え失せ、視界にあった笑顔が見えなくなる。
「……マリ、ア……?」
 茫然とエルドは空虚な自分の腕を見つめた。
 何もない。
 何一つ、彼女の存在を示すものは残されていなかった。
「愚かなことよ」
 不意に届いた言葉に、エルドはゆるゆると顔を上げた。
 青年の姿をした魔物は冷ややかに、無感動に告げた。
「我が同胞の生存を望むならば、お前が告げるべき言葉は『愛』ではなく、『憎しみ』であったものを」
「!!」
 息が止まった。
「あ……あ……わ、たしが、殺した?」
 愛を知った魔物は死にゆく宿命。
 愛し、愛された魔物は魔物ではない。だが、魔物以外の何者でもない。ゆえに、無に還る。
 ぽたりと大粒の涙が零れ落ちた。
 エルドは気も狂わんばかりに喪失感に襲われ、激しく震える。
「私が、彼女を……ッ!」
 そして、エルドは絶望に染まった顔で魔物の青年を見上げた。
「殺してくれ。もう、いい。もう残されて悔やむのは嫌だ!」
 それは心の底からの願いだった。
 かつて守れなかった恋人のことを思う時、生きている自分が呪わしかった。
 そのくせ、死を選ぶことさえできなかった。
 何もできず、ただ後悔していただけだった。
 生きる許しが欲しくて、神にひたすら祈り続けた。
 本当に生きることを許せるのは自分しかいなかったのに。
 生きたいと望むことが罪であるはずがなかったのに。
 自身が選んだ末に『今』があるのに。
「今、死ぬことが私にとって救いだから」
(これは逃げているんじゃない。私が『選んだ』ことだ)
 だから。
(文句は聞かない)
 脳裏に過ぎった彼女は怒った顔で何かを叫んでいた。
 絶え間ない潮騒が何度繰り返されただろうか。
 青年の姿をした魔物は相変わらず冷淡な口調で告げた。
「人間よ、お前は勘違いをしている。我らは殺すことに快楽を覚えはしないし、血肉を糧ともしない」
「だが、絶望は喰らうのだろう?」
「……確かに。なればこそ、お前を殺める必要などあろうはずがない」
「!」
「どうせ、五十年ほどの苦しみだ。死に焦がれて、生きるがいい」
 そう宣告すると同時に、背後で生まれた大きな波が魔物を飲み込む。
「!!」
 一瞬にして姿を消した魔物に、エルドは言葉にならない呻きを零した。
 蘇るのは、聖母の名で死んだ彼女の言葉。


『どんなに辛くても自分に嘘をついたら負けよ。辛いなら、その辛さを抱いたまま生きられるだけ強くなりなさいよ、男だったらね』


 彼女を愛している。
 それはどんなに辛くても偽れない事実。
(この想いが齎す辛さを抱いて生きろと?)
 強くなれと言った彼女。
 逃げるなと言った彼女。
(それが君の願いなら――)
 生き続けよう――最期まで。










 その日、一人の老神父が亡くなった。
 温厚で人々から慕われ、尊敬を受けていた神父だった。
 老神父の最期の言葉を聞いた者たちは彼が天国に迎えられたのだと信じていた。


――あぁ、迎えに来てくれたのですね、マリア。















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リクエストは『深海』で悲哀がこもった話ということでした。
が。
果たして、これで良いのでしょうか?<怯
無駄に長くなって、駄文のような気が非常にするんですけど……。
微妙に展開も急かなぁ、なんて。<死

最初の間違いと思うのは性格設定。
どこが切ない話になるんだと不安を掻き立ててくれる会話に涙を零しました。
そして、捻りすぎたかもしれない『彼女』の設定。
素直に『ヒルダ』にしておけば良かったのでしょうか……?
しかし、そうすると『深海』が出てこない。<というか、文字を出せば、リクに沿ったという訳でもあるまい
最後の最後で悩んだのが神父の結末。
一緒に死ぬと、それはそれで幸せかも〜と思った私は結局生かしてしまいました。<極悪?
その上、オチはありきたりだし……。<爆

こんなものを差し上げる私ってダメ人間決定?


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