水底の言葉


T


 私の罪は貴方を愛したことだった。
 私への罰は貴方に愛されたことだった。

 けれど、私は確かに幸せだった。




 慈愛の微笑みを浮かべる聖母像を彼女はひたすら見つめていた。
 腰まで届く淡い金髪に琥珀の瞳。袖口から覗く素肌は染み一つない。華奢な体を包む簡素な紺色の衣服は逆に彼女の清らかな容貌を際立たせていた。
 古い教会は彼女以外誰もいない。
「あのですねぇ、その親の敵を睨むような顔、止めてくれませんか?」
 不意にかかった声に、彼女はゆっくりと振り返った。
 木造の扉の側に、この教会を任されている若い神父が立っていた。
 漆黒の髪に藍色の瞳。容貌そのものは整っているのに、どこか惚けた印象が拭えない。
 神父を見た瞬間、仏頂面としか言いようのない顔をしていた彼女の表情が更に顰められた。
「……どんな顔をしていようと人の勝手でしょ」
 可憐な声に不釣合いな、無愛想な響きだった。
「マリア」
「それは、私の名前じゃないわ」
 神父は軽く肩を竦めた。
「仕方ないでしょう? 忘れてしまったんですから。それにずっと名無しでは不便ですし」
 その瞬間、マリアは柳眉を逆立てた。
「好きで忘れた訳じゃないわよ!」


 数日前、激しい嵐があった。
 嵐は一昼夜続き、その翌朝、村近くの岩場に一人の女性が流れ着いているのを村の神父が発見した。
 しかし、助けられた女性はそれまでの記憶を一切失っていた。


「大体、何が気に入らないって、安易に『マリア』なんていう名を付ける感覚よ!」
 自分の教会に聖母像があるから『マリア』とはあまりにも単純すぎる。
「ひどいことを言いますね。世界の『マリア』さんに失礼ですよ」
「煩い、ダメ神父!」
「ダメ神父って……私の名前はエルドですってば」
 マリアは鼻で笑い、挑戦的に断言した。
「アンタなんかダメ神父で充分よ」
 エルドは呆れた様子で溜め息を吐き、マリアを見つめた。
「そんなにここにいたくありませんか?」
 マリアは苛立たしげに頷いた。
「嫌いとかいう以前に、何か不快なの。すっごく嫌な気分になる」
「はあ」
「聖母像を見ていると、無性に苛々してくるし、教会にいると思うだけで頭痛もするし」
「私を見たら、怒鳴りたくなる?」
 エルドの言葉に、マリアは大きく頷いた。
 教会や聖母像どころか神父服を着ているエルドを見ても不快感に襲われる。
 全身が拒絶しているのだ。自制しようにも、どうしようもない。
「困りましたね。この村は小さくて、泊まる所なんて他にありませんよ」
「だから、嫌でも大人しくここにいるんじゃない」
 そう答えて、マリアはそっと溜め息を吐いた。
「まあ、そんなに長いことじゃありませんよ。きっと家族か誰か貴方を探しているでしょうから」
 その言葉に、マリアはかすかに笑った。
「だと良いけどね」
「……不安ですか?」
 その瞬間、マリアは琥珀の瞳を大きく瞬かせた。
「別に?」
 軽く小首を傾げて、マリアは続けた。
「とりあえず、衣食住は確保できているし? いつか出て行くにしろ、どうにかなるんじゃない? 嵐を生き延びられるくらい運も良いみたいだから」
 その返答に、エルドは虚を突かれた様子でマリアを見つめ、そして曖昧に微笑む。
「前向きなのですね、貴方は」
「そりゃあ、どこかの誰かさんと違って恋人に逃げられたくらいで人生を諦められないもの」
 その瞬間、エルドの表情が固まった。
 エルドの顕著な反応を認め、マリアはくすくすと笑った。
「……誰から、そんなことを?」
「さあ、誰だったかしら?」
 やがて、エルドは深い溜め息を吐いた。
「ナタリーさんですね?」
 気は良いが、噂好きで有名な隣家の主婦の名をエルドは半ば確信を込めて呟いた。
「しかも、誤った情報だし――」
「違うの?」
 何気なく問い掛けた瞬間、マリアは自分が不用意なことを言ったと察した。
 エルドは静かな、虚ろな笑みを浮かべていた。
 諦め切った、渇いた笑み。
 何か言おうとしたマリアより先に、エルドは口を開いた。
「……死んだのです」
「……え……?」
 エルドはどこか遠くを見つめるような眼差しを彷徨わせ、そして、ふと聖母像で視線を止めた。
「少し前に東の地で大きな戦がありました」
 マリアは無言でエルドを見つめた。
 記憶を失っているせいか、エルドの言葉に思い当たるものはない。
「彼女は戦火に巻き込まれて、兵に切り殺されたんです」
 事実を告げる淡々とした声音はエルドの感情を殺ぎ落としていた。
「……私は守れなかった。何より誰より守りたかった人を、守れなかった」
「それで神父になったの?」
 ひどく冷めた声だった。
 マリアは自分で言って、その響きの無情さに驚きを覚えた。
「――マリア?」
 驚きに見開いた藍色の瞳。
 苛立ちが募っていくのが分かった。
 マリアは強く両手を握り締め、胸を抑えた。
「やっぱり、アンタはダメ神父よ。結局、逃げているだけじゃない」
 刺々しい、硬い声。
「マリア」
(気分が悪い)
 何か圧迫されているような、息苦しさ。
「神に祈って償っているつもりだけじゃない」
「マリア!」
 エルドの強い呼びかけもマリアの言葉を止めることはできなかった。
「さぞかし気は楽でしょうね」
(別に怒ったって怖くないわ)
 ただ、ひたすら苛立たしい。
 エルドはマリアの肩を掴んだ。
「息をしなさい、マリア!!」
 思いがけない言葉に、マリアは琥珀の瞳を瞬いた。
(息?)
 マリアは呼吸をしていなかった。
 息苦しくて当然だった。
「!?」
「落ち着いて、息をするんだ!」
 マリアの琥珀の瞳に涙が滲む。
 呼吸の仕方が分からない。
(どうやって、息をしていたっけ!?)
 口を開いても、少しも楽にならない。
 それどころか頭痛まで始まり、頭が割れるように痛い。
 心臓がどくどくと激しい音で動いているのが自分で分かった。
 ついには眩暈が生じ、徐々に視界が暗くなっていく。
 足元から力が抜け、マリアの体が傾いだ。
「マリア!」
 咄嗟にマリアをエルドは支えた。
 その腕の感触に、ぞくりとマリアは背筋を震わせた。
(嫌……!)
 全身を支配する、拒絶。
 その理由すら分からないのに、マリアは悲鳴を上げかける。
 しかし、呼吸のできない喉からはわずかに掠れた声だけが零れた。
 衣服の上からでも分かる力強い温かさが逆にマリアの体を冷やし、針で指されたような痛みさえ覚えた。
「ッ!」
 息苦しさに琥珀の瞳に涙が浮かびあがっていた。
 しかし、嫌悪感だけは堪え切れず、マリアがエルドから離れようと腕を突っ撥ねようとした瞬間だった。
 かろうじて繋ぎ止められていたマリアの意識が闇に沈んでいく。
「マリア!?」
 エルドの驚きの声が響き渡った。
 意識を手放す最後の瞬間、マリアは自分の腕を強く引かれたのを感じ取った――。





 暗い、暗い闇の底。
 冷たい、冷たい闇の果て。
 誰もいない。
 何も見えない、聞こえない。
 完全なる静寂を司る死の世界。
 それでも、そんな世界に存在するモノ。
 遥か遠く、決して行き着くのことない光の世界に焦がれて、死を望む。

――誰の死を?
――自らの?
――他人の?
――それとも、この運命の?


『お前が行かなければ、また死が訪れる』

『行くのならば、訪れる死を活かせ』


 目が覚めると、少し汚れた天井が視界に広がっていた。
 マリアはぼんやりとした表情で何度か瞬き、そして溜め息を吐いた。
 見覚えのある天井に、硬い枕。
 これだけで、自分がどこにいるかマリアは理解した。
 教会の一室――一時的に彼女の部屋となった場所。
(今の私の、唯一の居場所……)
 不快感が競り上がってくる。


 ココハ、神ノ領域。
 神ヘノ祈リガ満チ、神ノ眼ガアル処。


 ぐっと胸を押さえ、マリアは身を起こした。
 さらさらと淡い金の髪が肩から滑り落ち、苦痛に歪む彼女の顔を覆い隠す。
 頭が痛い。
 マリアは何度も大きな呼吸を繰り返した。そうすれば、痛みも吐き出されるといった様子で。
 そして、マリアは瞳を閉じた。
 訪れる、暗闇。
 それでも、瞼には優しい光を感じて、マリアはほっと安堵の息を吐いた。
 いつの間にか頭痛はどこか遠くに消え去っていた。
 マリアがゆっくりと瞳を開けるのと、部屋の扉が静かに開いたのは同時だった。
「……マリア? もう起きて大丈夫なのですか?」
 入ってきたのはエルドだった。水を張ったたらいと小さな布を持っている。
 その姿を見たとたん、マリアは顔をしかめた。
 一度引いた頭痛がまた起こり始める。だが、我慢できないほどではない。
「……何?」
 無愛想な返事に、エルドは笑みを浮かべた。
「少し熱もあったみたいですから、用意したんですが、もう平気そうですね」
「――そう、迷惑かけて悪かったわね」
「いいえ。それにしても、一度医師に診てもらった方がいいのでは?」
「どうして?」
「どうしてって……一時は完全に呼吸停止していたんですよ? もしかして、病気だったらどうするんですか?」
「そうね、私は何も覚えてないし」
 そして、マリアは溜め息を吐いて、ふと何かに気づいたような顔になる。
 意識が途切れる寸前、強く腕を引かれたのは何となくだが覚えている。だが――。
「マリア?」
 呼びかけられたマリアは訝しげにエルドを見やった。
「ねえ、何か私に言うことは?」
「……は……?」
「あるのね?」
 気まずげにエルドは視線を逸らした。更に、わざとらしい咳払いまでするのを見て、マリアの疑惑は確信に変わる。
 気のせいかと思った、唇に残っていた温もり。
 それは。
 突き刺すような視線に、エルドは諦めてマリアを見やった。
「マリア、あのですね」
「ナニ?」
 エルドは真面目に告げた。
「アレは人工呼吸です」
「……」
 マリアの表情は完全に凍りついていた。
「それ以外の意味は全くありません」
 長い沈黙の後、マリアはニッコリと笑った。
「出て行って」
 にこやかな笑顔だが、琥珀の瞳に殺意すら見つけて、エルドは後ずさる。
「マ、マリア!」
「いいの。分かっているわ。私を助けてくれたんでしょう?」
 理解を示す言葉にエルドは大きく頷いた。
「ええ、分かっているわ。分かっていますとも。でもね」
 一度、言葉を切り、次の瞬間、マリアはエルドを鋭く睨みつけた。
「今は独りにして」
 エルドは冷や汗を滲ませ、頷くや否や扉の向こうに消える。
 それを見届けると同時に、マリアはずるずると上半身を前に倒した。
「……頭、痛い……」
 それは呻くような呟きだった。


「退屈……」
 一言呟いて、マリアは読み飽きた本を軽く投げ、寝台に横になった。
 あの日を境に、マリアはずっと部屋に籠もっていた。
 倒れて以来、動くのが億劫になっていたのこともあったが、外に出るとエルドの視線がついて回るのだ。
(あっちは心配しているだけでしょうけどね)
 その視線に苛々して、気分が悪くなるこちらの方を気にして欲しい。
(あ、まただわ……)
 マリアは右手で額を抑えた。
 断続的に続く頭痛。
 頭痛だけで収まらない時は呼吸さえままならなくなる。
 幸い、すぐに戻るので、エルドには気づかれていない。
 もし、気づかれたら、今より更に鬱陶しいことになるだろう。
(本気で出ようかしら――)
 根拠はないが、この教会から離れれば頭痛も呼吸困難も治るような気がした。
 マリアは溜め息を吐くと、おもむろに立ち上がった。
(確か今は礼拝の時間だったわよね)
 そうすると、エルドは教会の中だ。
 今なら視線を気にせずに済む。
 そっと静かにマリアは外に出た。
(あ、眩しい……)
 日差しが少し厳しい。
 マリアは木陰に入り、安堵の息を吐く。
 枝から零れる光が風に揺れる木の葉に沿って、ゆらゆらと揺れている。
 その光景にマリアは目を瞠った。ぎこちない動きで顔を上げる。
 枝と葉の隙間から差す日差しの眩しさに、マリアは双眸を細めた。
(……私、前にも見たことがある?)
 ゆらゆらと、ゆらゆらと、絶え間なく、揺れる光の欠片。
 眩暈がした。
「ッ!」
 ずるずると幹に背を預け、マリアは座り込む。そして、視線を落とし、唇を噛み締めた。
 不自然な呼吸。
 それはまるで陸に打ち上げられた魚のような喘ぎ。
(洒落にならないわ……!)
 不意に、足元に影が落ちる。
「……?」
 息苦しさと不信に柳眉をひそめながら、マリアが顔を上げた。
 視線の先に数人の男たちが立っていた。
「……何か?」
 男の一人が前に進み出る。
「お探ししました、ヒルダ・シーズファル様」
 その名を耳にした瞬間、マリアの肩が大きく震えた。
(ヒルダ・シーズファル……)
 心の中で呟いた名前はひどく乾いた響きがあった。





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