黄昏の契約V




 喪服の女が連れて行ったのは聖都の中心である城だった。


 城壁の内側で地上に降り立った時、彼は思わず安堵の溜め息を吐いた。
 信じ難いほどの高さでの飛行は時刻が夜であることも加えて、彼にかなりの精神疲労を与えていた。


「一つ聞くが……」
「何かしら?」
「今の移動方法は嫌がらせか? いつもは一瞬で移動していなかったか?」
 喪服の女は軽く肩を竦めた。
「死ぬつもりだったの? 物好きね」
「?」


 眉をひそめた彼が意味を問うより早く喪服の女は言葉を続けた。
「人間では移動時にかかる負担に耐えられないわ」
 彼は思わず唸った。しかし、喪服の女は気にもせず、辺りを軽く見回した。
「枯れた噴水だったわね」


 そして、喪服の女は彼を置いていかねない素早さで、歩き出した。
 慌てて彼はその後を追った。
 目的地と思わしき噴水が見えた瞬間、彼は驚きに固まった。


 昼間は確かに枯れていた噴水が蘇り、清らかな水音を響かせていた。
 その噴水の前には独りの少年が噴水に魅入られたように立っていた。
 その腕には真鍮の箱がある。


「――殿下?」


 無意識の内に彼は呼びかけていた。

 何故、此処に彼がいるのか分からなかった。
 こんな夜更けに、よりにもよって、こんな状況で、彼がまるで自分たちを待っていたかのように振り返り、微笑む理由が分からなかった。


「ああ、昼間の聖騎士か」


 そして、少年は彼の隣に立つ喪服の女を見て小首を傾げた。


「貴女かな? 私の施した守護の陣を、ああも見事に崩してくれたのは。おかげで一からやり直さなくてはならない」


「やり直す必要はないわ」
 即座に返って来た冷ややかな言葉に少年は器用に片眉だけを上げた。
「あれは一度だけのもの。貴方の生も一度だけ。すでに『生命の環』へ返った身でしょう。残滓に過ぎない貴方が、未来を望んではならないわ」


 その言葉に少年は意外そうに笑った。
「ふうん? 私が誰だか、ちゃんと分かっているんだな」
「……殿下、ではない?」


 思わず零れた彼の呟きに少年は楽しそうな微笑みを浮かべた。
 その微笑は到底子供がするものではなく、老獪な大人が無知な子供に向けるような雰囲気があった。


「何も知らないで此処にいるのか? 今の聖都で唯一、聖騎士の名に相応しい若者に何も教えず巻き込んだのか?」


 少年の言葉の後半は喪服の女に向けられたものだった。


「戯言だわ。彼自身が知りたいと望んだから、連れて来ただけ。教えたいのなら、貴方がそうしたら? 最初に巻き込んだのは貴方のはず」


「ああ、なるほど? 本人の承諾も得ずに『聖眼』を使わせ、これを見つけさせたことを言ってるのか」


 冷淡な態度に気分を害した様子もなく、そう言って少年は腕に抱く真鍮の箱をちらりと見て頷いた。
「では、そうしよう」
 そして、少年は彼の方を見て告げた。



「私はこの聖都を築き上げた者。後世では、聖王と呼ばれているらしいな」



 その言葉を彼が理解するのに時間は大してかからなかった。


「聖王っ!?」


 聖都を築き上げた初代国王。
 神の血を継ぐと謳われた偉大な始祖。


 それが少年だというか。彼は驚愕の余り少年を不躾に凝視した。


「正確に言うと、その残滓でしょう」
 喪服の女は切り捨てるように言い放ち、一歩前に進み出る。
「聖王と呼ばれた者は遥か昔に逝ったわ。貴方は彼が遺した本に残った思念に過ぎない」
「これは、手厳しい。確かに、その通りだが」


 くすくす……と笑って、少年は腕に抱いていた真鍮の箱を開いた。
 その瞬間、箱は霧散するように掻き消えた。

 そして、少年の手に残されたのは古い装丁の本。


 その本を見て、彼は驚愕し、息を呑む。
 彼の『聖眼』には本と重なるように『世界』が見えた。
 生命を育む大地、大地を潤す水、水の上を滑る風、風に踊る炎、炎に癒される生命の力が見えた。


「私の邪魔をしないで欲しい。『世界』の根源種族の貴婦人よ」


 薄く笑って喪服の女は、また一歩前に進み出る。


「貴方の望みと世界。私に、私たちにとって、どちらが重要か、世界の真理を記した聖王の残滓であり、その本に宿る思念なら聞くまでもないことのはず」


「……分かっている。だが、私の望みは『歪み』をもたらすものではない。だからこそ、許され、私は聖都を護り続ける守護の陣を施した」


 ふわりと夜風が吹き、喪服の女が被るベールが揺れる。


「それは過去のことよ」
「違う。今も尚を続いている」
「世界の真理は人の手には負える事柄ではないわ。だから、聖王亡き後、それに関わる全てが封じられたのよ。其処に在っても無いように封じられ、時の流れに埋もれていった。けれど、時の流れはその力を弱め、綻びつつある。扱える者がいないまま、解放される世界の真理は『歪み』を生み出す」


 喪服の女に少年は叫んだ。
「私が此処にいる!」
 少年は喪服の女を見据えて言った。
「今一度、守護の陣を施し、そして封じよう」


 わずかな沈黙の後、喪服の女は静かに告げた。
「……『貴方』がそれを為す、それこそが『歪み』となるわ」


 その瞬間、少年の顔から感情の色が抜け落ちた。そして、ぽつりと呟いた。


「そのようなこと」


 少年は一度瞳を閉じ、見開いて叫んだ。


「認められるかっ!!」


 少年の叫びは衝撃波となり、地を裂いて、喪服の女に襲い掛かった。
 しかし、喪服の女は静かに右腕を動かして宙を薙ぎ、それを押し留めた。


「っ!」


 喪服の女の右手には闇の刃に金の柄の短剣が握られていた。
「貴方が認めようと認めまいと事実は事実」
「黙れッ!」


 喪服の女の言葉を遮り、少年は灼熱の猛火を喪服の女に放った。
 それに応じるように、喪服の女が短剣を迫り来る猛火に向かって投げつけた。
 猛火は短剣飲み込み、勢いを失わず、喪服の女に直撃した。


「っ!?」


 見守るしかなかった彼が息を呑んだ瞬間、掠れた呟きが耳に届いた。
「莫迦な……」
 呟きの主は少年だった。


 彼が見やると、少年は額に汗を滲ませ、苦悶の表情を浮かべて片膝を着いていた。
 その手から滑り落ちた本に短剣が突き刺さっていた。



「貴方の力で私を傷付けることなんて出来る訳がないでしょう?」



 不意に届いた涼やかな声は猛火の中から聞こえた。
 彼が視線をやると同時に、一陣の風が吹き、炎を巻き上げる。
 その内から現れたのは喪服の女だった。


 漆黒のベールは燃えてしまったのだろうか。
 その不吉なまでに美しい容貌が星明りに晒されていた。


 風に舞う長い髪は黄金。
 清純と妖艶を同時に持ち合わせた白皙の美貌。
 微笑みを浮かべる薔薇色の唇。
 何より印象的な紫と翠の異色の双眸は慈愛さえ湛え、少年を映していた。


「貴方に私を傷付ける意志なんて最初から最期までなかったのだから」


 顔を上げ、喪服の女の素顔を見た少年は大きな驚愕に硬直した。そして、一言。



「グナーデ……」



 呼ばれて、喪服の女は微笑んだ。
 その様子に彼は喪服の女と少年が知己であったことを悟った。


 喪服の女の微笑みに、少年は眩しそうに瞳を細めて呟いた。
「貴女が、何故」
 喪服の女は少年に近付きながら言った。
「この地に縁が深く、近くにいて、最初に綻びに気付いたのは私だったから」


「そうではなく!!  ……そうではない。何故、貴女が私の意志を阻むのですか? 何故、貴女が滅びを与えるのですか、慈悲の司姫」


 突然の態度の変化に彼は疑問が次から次へと浮かぶが、沈黙して見守ることにする。


 喪服の女から自分から説明する気はないと先に言われていた。
 今は、ただ、二人を見守り、少しでも情報を得て、自分で考えなければならない。


 喪服の女は静かに本を拾い上げた。
 それを止めようともせず、少年は苦しそうにしながら、答えを待っていた。


「私では不満かしら?」
「そう、いう意味ではない、と分かって……らっしゃるのでしょう?」
 くすりと笑って、喪服の女は本から短剣を引き抜いて言った。
「まずは、その子の体から離れなさいな。すでに聖王と呼ばれた貴方の血は薄く、負担も大きい。これ以上は、その子の未来を閉ざしかねないわ」


 短剣が引き抜かれると同時に少年の表情が和らぐ。


 それを見て、彼は思い出し、一つの結論を出した。


 本に残る思念が少年に宿っており、本体である本の損傷は思念にも影響されるのだろう。


 苦悶が拭われ、少年は落ち着いた様子で立ち上がった。
「貴女は相変わらず慈悲深いのですね」
「そうかしら?」
 そして、少年は深呼吸をして、瞳を閉じた。


 少年の姿に重なるように男の姿が浮かび上がり、それが鮮明になった瞬間、少年の体は力を失って地面に倒れた。


 男は清廉な容貌をしており、年齢不詳だった。
 苦笑を浮かべた表情は落ち着いた老年者のようで、喪服の女の見つめる眼差しは幼子のようにひたむきだった。


「今一度、伺います。何故、私の意志を阻むのですか?」
「未来を持たない貴方が未来を紡ぐのは『歪み』だから」

    グナーデ
「何故、慈悲の名を持つ貴方が滅びを与えるのですか?」


 その問いに喪服の女はくすくす……と笑った。
「私が滅びを与えるですって? 冗談でしょう」
「グナーデ! 冗談ではありません」
 男は必死になって言い募った。


「貴方も知っているでしょう! この都は私の守護の陣によって守られてきた。守護の陣が存在するから、この平穏はある。私は守りたい。争うことなく、穏やかに笑うことの出来る、この都を、此処に生きる民をっ」


 喪服の女は笑ったまま、頷いた。
「ええ。もちろん、知っているわ。永遠の都の礎も、貴方の望みも」
「ならば!」
 喪服の女は表情を変え、冷ややかな声で告げた。
「でも、全ては過去のもの。そして、私は何も与えないわ」
 そして、喪服の女は歌うように続ける。


「生があり死があるように、繁栄があれば衰退もある。正から負の転換、負から正への転換は世界の真理。守護の陣は転換を促す時の流れを、束の間、押し止めていただけ。そう、まるで歯車に楔を挟むように――。けれど、限界は訪れる。歯車の力を殺し切れない楔は放置したままだと、歯車自体を歪ませる。歪んだ歯車が紡ぐ時は歪んでいる。歪んだ時は世界を壊す」


 言葉を失った男に喪服の女は婉然と笑う。
「だから、私はそうなる前に楔を引き抜くだけのこと」
 男は大きく震え、呻くように呟いた。
「滅びよ、と貴女は言うのですか」
 その瞬間、喪服の女は弾けるように笑い出した。
「そんなに滅びたいの?」


 心底、おかしそうに笑う喪服の女に、黙って聞いていた彼は渋面になるのを感じた。

 どうして、この女はこうなのだろう。

 言葉こそは挟みはしなかったが、彼には文句が山程あった。


 聖都を守っていたという守護の陣。
 それを崩したという喪服の女。


 最近の建物消失の事件はおそらく、それだろう。

 原因なんて調べる必要はないと断言した意味がようやく分かった。

 男もさぞかし、不快に感じ、苛立っていることだろうと思い、見やると予想外の姿を見ることになった。


 男は何処か途方に暮れたような表情を浮かべていた。
「グナーデ、滅びたいのなら最初から抗いはしません」
「それもそうね。でも、あまりにも物分かりが悪いから、そう思ってしまったわ」
 くすくす……と笑いながら、喪服の女は告げた。


「私は楔を引き抜くだけよ。滅びたくないのなら、かつて貴方が望み、自身で叶えたように、今、この都で生きて未来を紡ぐ者たちが抗えばいいというだけのこと」


「……それをするのは私では駄目なのですね」
「えぇ」
 男は悄然と溜め息を吐いた。
「では、私は一体何のために此処に在るのか……」
「そんなこと自分で決めなさい」


 突き放すような言葉に打たれ、男は喪服の女を驚いて見やった。
 そして、不意に何かを悟ったかのように穏やかな笑みを浮かべた。


「グナーデ、その喪服は私との『約束』のためですか?」
「……」
「私に関わる全ての最期を見届けて欲しいという『約束』のためのものですか? 今も覚えていて下さったのですか?」


「私たちは人間と違って嘘は吐かないもの。最期を見るに相応しくなくって?」
 遠回しの肯定に男は嬉しそうに微笑んだ。
 そして、晴れやかな声音で言った。
「私は、『約束』が今も果たされていることを見るために在ったと思っていいですか?」
「好きなように」


 そして、男は喪服の女に言った。
「貴方の手にかかり、滅びるなら本望です。おそらく、本体である私も望んでいたはずだから」
 喪服の女は肩から零れた金色の髪を払い、軽く肩を竦めた。
「迷惑な話ね」


「申し訳ありません」
 男は謝りながら微笑んでいた。
「でも、今なら叶えて下さるのでしょう?」
「さあ、どうかしら?」
 喪服の女の言葉に笑い、男は軽く跪いた。


「どうか、貴女の手で滅びを」


 そして、男は短剣が握られた喪服の女の右手を取り、その甲に恭しくくちづけた。


 喪服の女が静かに微笑んだ瞬間、左手に持っていた本が金色の炎に包まれた。
 同時に男の姿も金色の揺らめきに包まれる。
 しかし、男は動じた様子もなく、むしろ至福の表情で喪服の女を見上げた。



「感謝を。我が最愛の慈悲の司姫」



 本は炎に焼かれ、瞬く間に灰と化し、風に散っていく。
 そして、男の姿が消える瞬間、喪服の女は優しく柔らかな声で囁いた。



「さようなら。愚かで愛しい――私の子ども」







 衝撃の一夜から数時間後。


 気持ちのいい晴れ晴れとした朝とは裏腹に彼の気分は今までに覚えがないくらい最悪だった。


「……もう朝か」

 窓から入る柔らかな日差しも小鳥のさえずりも、今の彼に安らぎをもたらさない。
 城から戻ってきて、すぐに床に入ったのだが、彼は一睡もできなかった。


 昨夜の出来事を思い出し、彼は後悔に唸る。
 聞き知った情報の多さにもだが、何より、その内容が彼を苦しめていた。


 この際、聖都の守護が失われたとか世界の真理だとか、そんなことはどうでも良い。

 問題なのは聖王とまで呼ばれた人物が、あの喪服の女の子どもであったことだ。
 子どもと言っても、血の繋がりは全くなく、成り行きで育てただけということらしい。

 話す気が全くない喪服の女を必死になって問い質して、それだけは確認したのだ。
 あれで、本当に血の繋がりがあれば、世の中、何を信じたらいいのか本気で分からなくなるところだった。


 というより、あの喪服の女が母親という辺りで彼の精神は拒絶反応を出している。
 あの夜、同行しなければ良かったと今更だが、心底後悔している。


 しばらくは恐ろしい想像に夢でうなされることだろう。事実、昨夜はそのせいで寝不足だ。


「どこまで私を苦しめれば気が済むんだ、あの女は」


 罵ってみたところで何が変わるという訳ではない。だが、出てくるものは仕方ないのだ。


 実際、人を、むしろ彼を思いやるという心を持たないらしい喪服の女は憎たらしくも楽しそうに、拒絶反応を起こした彼を観察しながら平然と言い放った。



『望んだのは貴方でしょう』



 思い返す度に、溜まっていく鬱憤に、彼は深い溜め息を吐く。


 彼が平常心を取り戻す日は遠かった――。









    




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