黄昏の契約U







 彼は喪服の女を問題の未亡人の家に案内した。


 すでに街は夜の闇が支配していた。


 もちろん、例外もある。花街と呼ばれる一角である。


 しかし、未亡人の家は住宅街の隅にあり、その周辺は暗く静かな闇に包まれていた。
 道を照らすのは建ち並ぶ家の窓明かりだけだ。わずかな光は闇を切り裂くどころか、深めるのみ。


「此処が、そう?」


 問われて彼は横に立つ喪服の女を見た。白い美貌は漆黒のベールに隠されている。
 ともすれば、周囲の闇と同化するかと思う程の姿だが、何故か一線を隔し、存在することを明らかにしていた。


「ああ」
 喪服の女は目の前に建つ家を静かに凝視した。
 そして、何も言わずに彼の方に首を巡らし、尋ねた。
「貴方の眼にはどう見えて?」


 判断を委ねられた彼はわずかに瞳を細めた。
 改めて見た家は何重にも重なるようにぼやけて見えた。
「歪んでいるというより、重なっているといった感じだな」
「そうね」


 彼の言葉を否定せず、喪服の女は無言で歩き出し、玄関の前に立ち、いつの間にか手にした漆黒の短剣を扉に突き立てた。


 その瞬間、異変が起こった。家全体が大きく揺らぎ、その輪郭が歪む。


「何をした!?」
「現実と夢の境界を断ち切ったのよ」
「何?」
 喪服の女は振り返らずに告げた。
「中に入れば分かるわ。説明するにしても、実際に見ながらの方が理解出来るでしょう」


 そう言って喪服の女は扉を開けた。
 彼は眉をひそめつつも、此処に連れて来た責任と義務感に押され、その後に従った。


「!」


 家の中に足を一歩踏み入れた瞬間、世界が変わっていた。


 室内のはずなのに、壁がない。
 床がない。

 其処に在るのは極彩色に彩られた奇妙な空間。

 周囲を色とりどりの無数の球体が流れていく。
 まるで、何か大きな流れに立っているような感覚がした。


「何だ、これは……」
 思わず零れた呟きに答えはすぐに返ってきた。
「夢よ」
「ゆ、め?」
 動じた様子もなく、周囲を見回しながら喪服の女は説明し始めた。


「そう、夢。『夢』とはありとあらゆる可能性の集合。眠りのうちに見る夢はその者の望み、実際の有無を問わぬ可能性。過去に置いては、あの時こうすればと思う心が見せる世界。現在に置いては思い描く未来の世界。未来に置いては無数に存在する時の流れそのもの」


 いまいち意味が掴めない説明に彼は顔をしかめた。
 それを気配で察したのか、喪服の女は更に説明を重ねた。


「本来、現実と夢は重ならないわ。現実になりえなかった可能性が夢なのだから」
 その瞬間、彼は眉をひそめた。
「待て。今、現実と夢の境界を断ち切ったと言わなかったか?」
 喪服の女は彼の戸惑いを気にも留めず、肯定した。
「言ったわ。家の中は夢が現実になっていて、あのまま入れば私たちも夢を現実と感じてしまうから」


 今度は眉どころか顔をしかめて彼は問うた。
「何の、話をしている?」


「自分でも言っていたじゃない。重なっている、と。夢と現実が重なっているの。夢の主は、貴方が会った未亡人でしょうね。一体、どんな夢かしらね? 『歪み』を纏う程の夢なんて」


 不意に喪服の女は流れていく無数の球体の中から、停止している球体を見つけた。


 くすんだ青と赤が入り混じった球体は、その場で回転していた。
 回転のせいなのか、球体は少しずつ形が変わっていく。
 その様はまるで何か力が加えられて歪んでいくように見えた。



「青は悲しみ。赤は愛しさ。くすみは否定、もしくは恐れ」



 歌うように呟くと、喪服の女は球体に触れようと、細い手を伸ばす。
「ようやく、彼女と会えるわね」
 喪服の女の指先が球体に触れた瞬間、それは弾け、世界が変わる。

 いや、元に戻るのか。
 極彩色の空間を押し退けるように、壁が、床が、現れる。
 それは扉を開けた時、見えるべき光景だった。


 変化を見届け、彼は呆然と呟く。


「……戻った?」


「いいえ」
 喪服の女は奥へと歩き出しながら否定した。
「ここは歪みを纏う夢の世界。現実とならなかった可能性の世界よ。ここで見えるものはすべて夢の産物。だから」


 首を巡らし、後ろを歩く彼を見て、喪服の女は忠告した。
「不用意に触らないことね。現実に属する私たちが触れれば、容易く夢は消えるのだから」


「夢が消えたなら、どうなる?」
 彼の問いに喪服の女は小首を傾げた。
「私たちは現実へ。けれど、夢の主はどうかしら? ただ目覚めるだけか心が砕けるか、選ぶのは当人ですもの」


 突き放すような言葉に彼は唇を噛み締めた。
 この人外の存在は本当に冷淡で嫌な性格をしていると実感した。


 迷う素振りもなく歩き進み、喪服の女は一つの扉の前に立ち止まった。
 そして、歌うように呟いた。



「我が前にある扉は夢。夢は消えゆくもの。在るはずのなきもの。よって、我が前に扉は存在しない」



 その瞬間、扉だけが砂のように崩れて消え去る。
「今のは呪文か何かか?」
 彼の言葉に喪服の女はくすりと笑った。


「そんな風に聞こえて? 私はただ宣言しただけよ。夢は否定されれば終わるもの。まして、さして重要でない部分ですもの。否定に対する反発もないのよ。激しい反発はこれからでしょうね」


 そう答えて、喪服の女は部屋の中へと足を踏み入れた。


 部屋は厨房と居間が繋がった造りの部屋だった。
 木造の食卓の上には二人分の食器。
 その中央には一輪挿しの花瓶。
 席は二つ。
 その向こうにある台所では白い服を来た女が楽しそうに料理を作っていた。


 その女の姿を見て、彼は眉をひそめた。
 白い服を着た女は昼間会った未亡人だった。だが、その表情は明るく雰囲気が全く違う。
 喪服の女は訝しく思う彼を尻目に何の躊躇いもなく、未亡人に声をかけた。


「何がそんなに楽しいの?」


 突然の問い掛けに驚きもせず、未亡人は料理を続けながら答えた。
「料理が美味しく出来そうなの」
 その返事に喪服の女はベールの内側で柳眉をひそめた。
「何のための料理?」
「何って――料理は食べるためのものでしょう?」



 くつくつくつくつくつくつ……



「それだけ、かしら?」


 思わせぶりな喪服の女の言葉に、彼はちらりと二人を見比べた。
 しかし、何も言わず、状況を見守ることにする。


「付け加えるなら、愛する人のための料理ね」
 くすくす……と幸せそうに未亡人は笑う。



 とんとんとんとんとんとん……



「愛する人」


「ええ、そう。私の、たった一人の旦那様」


 その瞬間、彼は驚きに息を呑んだ。
 彼女の夫は亡くなっている。
 そう彼女自身から聞いたのだ。
 思わず、口を開きかけるが、隣に立つ喪服の女に手で制せられ、言葉を飲み込む。


「……彼は何処にいるの?」


 その問いに未亡人は初めて動きを止めた。そして、ゆっくりと振り返った。


「……え?」


 大きな戸惑いを顔全体に浮かべて、未亡人は二人を見つめた。
「彼は貴女の側にいるの?」
「え、えぇ。それは、もちろん」


「本当に?」


 静かな、それでいて鋭い刃を思わせる追及に、未亡人は瞬く間に血の気を失い、激しく震え出した。
「本当に彼は貴女の料理を食べてくれるの?」
「だ、だって……」


 そして、喪服の女は再び問い掛けた。


「彼は何処にいるの?」


 一瞬の静寂。
 そして、それは心を引き裂くような悲痛な叫びによって破られる。



「嫌あ――っ!!」



 未亡人が頭を抱えて蹲ると同時に世界が地震のように揺れた。
「っ!!」
 壁に手をやり、倒れそうになる体を支えて、彼は恐慌状態に陥った未亡人を見やった。


「違う違う違う違う……っ!! あの人は側にいるの。だって、約束してくれた。独りにしないって、言ってくれたのよ!」


 激しく言い募る未亡人の側へと喪服の女は静かに歩み寄った。
 人外の存在だからなのか、激しい揺れなど感じない素振りで、未亡人の側に立ち、見下ろして告げる。


「貴女が夢に浸り続けたいのなら、私が叶えてあげるわ」


 思わぬ言葉に彼は喪服の女を凝視した。
 それは言われた未亡人も同様だったようで、言葉を失い、緩やかに顔を上げた。
 同時に揺れが小さくなる。それを見て、彼はこの揺れは彼女の反発なのだと気付いた。


「本当に?」
 喪服の女は静かに頷いた。
「ええ」
 そして、屈み込み、喪服の女は未亡人と視線を合わせる。
「けれど、それでいいのかしら?」
「え?」


「貴女の愛する人はちゃんと約束を守っているのに」


 そう言って、喪服の女は未亡人の腹部を見つめた。


 その視線を追い、未亡人も自分の腹部を見つめる。そして、息を呑み、両手を腹部に当てた。


「まさか、あの人の……?」


 小さな呟きに喪服の女は小首を傾げて問うた。
「約束を破るような人なの?」
 答えは即座に返ってきた。



「いいえ!」



 呆然としていた未亡人は我に返り、強く否定した。
「いいえ、あの人は誠実な人よ。絶対に嘘はつかない」
「では、選びなさい」
 喪服の女は何処までも冷静に落ち着いた声音で選択を強いた。



「夢か現実か、過去か未来か、生か死か」



 その問いに、未亡人ははっきりと答えた。


「私は生きるわ」


 その瞬間、夢の世界が瓦解するのを彼は感じた。


 何かが剥ぎ落とされるような、重なり合っていた何かが離れていくような奇妙な感覚に彼は現実の世界に戻ってきたことを知る。


 夢の世界よりも確固たる質感を持った現実の世界だ。


 ふと見やれば、喪服の女の腕には気絶している状態の未亡人が抱かれていた。
 彼女が身に纏うのは白い服ではなく、喪服だ。


「彼女は……?」
 彼の問いに喪服の女は静かに未亡人を床に横たえながら、答えた。
「大丈夫よ。夢は断ち切られた。彼女は未来を選択した」


 そして、喪服の女は静かに未亡人の顔に手を掲げる。
 それに引かれるように未亡人の口から細く白い煙のようなものが立ち昇った。


「さあ、お行きなさいな。『生命に環』に還るも良し、今まで同様拒んで、風に漂い、地に沈むも良し。何にせよ、貴方たちの好きにすれば良いわ」


 白い煙は淡く発光した。
 呟きに応えたのは白い煙だけでなかった。
 調理途中だった鍋からも、発光現象が見えた。
 そして、それは唐突に消える。


「今のは、何だったんだ?」
 喪服の女は立ち上がりながら軽く肩を竦めた。
「彼女が納骨堂から持ち出した骨に残る死霊の魂よ」


 その言葉に納骨堂で襲ってきた者たちの正体を彼はようやく知った。


 彼らは死霊。
 しかも、『生命の環』へ還ることを拒んだ者たちらしい。


 そこまで考えた彼はふと眉根を寄せた。
 喪服の女が嘘を吐く必要はないので、その言葉が真実であることには間違いあるまい。
 だが、その言葉と先程の発光した場所から導き出させる事実は、かなり気味が悪かった。怖気がする。


 渋面になって唸る彼を無視して、喪服の女は台所の片隅に置かれた古い羊皮紙を手に取る。
 綴られた文字を素早く読み取り、彼女は小さな溜め息を吐いた。


「こんなものが表に出るなんて――。ついに、時が来たということかしら?」


 誰にも聞こえないくらい小さな呟きを零し、喪服の女は古い羊皮紙を燃やした。


 突如、上がった炎に気付き、彼は驚きの声を上げた。
「おいっ! 何を燃やしている!?」
 喪服の女は振り返らずに答えた。

 ゆうこん
「誘魂の法を記した紙片よ。それも、欠落部分がある、不良品」


 燃えていく羊皮紙を見つめながら喪服の女は続けた。


 誘魂の法とは即ち『生命の環』に還った死者の魂を束の間だけ呼び戻す術。
 死者の骨を生者と同化することによって、正負の気を混在させ、断ち切られた現世との絆を一時的に復活させるもの。本来なら、呼び戻す死者の骨を使わねばならないとあるべきところが欠落している。


「第一、行う者がただの人間では何の効果も望めないはずよ」
「だが、実際に」
 こうした異変が起こっている。
 そう彼が告げる前に、喪服の女はちらりと彼の方を見て言った。
「だから、夢が強すぎたのでしょう? 夢を望む彼女の想いが強く、『歪み』が生じてしまったのよ。そして、『歪み』は時を経るごとに大きくなり、ついには現実まで侵出してきた。私たちが来なければ、『歪み』は――夢はこの家だけで済まなかったでしょうね」


「それにしても、よくも、そんな術を記したものがあったな」
 思わず零れた彼の言葉に喪服の女は一瞬沈黙した。
 そして、何処か憂鬱そうに告げた。
「一冊だけ、あるのよ。世界の真理を、その応用の仕方を記した本がね。これは、その本の一部を写したものだったようね」


 珍しい反応に彼は眉をひそめつつも話を続ける。
「そんな本があるのか?」
「ええ。誰も知らないけれど、知られないようにしてあったのだけど……ね」


 通常の手段で生み出されたものではない炎は羊皮紙を灰すら残さず燃え尽くして、掻き消える。
 それを見届け、喪服の女はふわりと宙に浮かび上がりながら、振り返り、彼に言った。


「さてと、無事『歪み』を処理することも出来たことだし、私は此処で失礼するわ」
「ちょっと待て。彼女はどうするんだ?」
 あっさりと消え去ろうとする喪服の女に、彼は慌てて尋ねた。
「どうって?」


 小首を傾げてくる喪服の女はすでにいつものような掴み所のない態度に戻っていた。
「このまま放って置いていいのか?」
 喪服の女は不思議そうに答えた。


「貴方が何を心配しているのか私には全く分からないわ」
 そして、静かに喪服の女は言い放つ。
「私たちのことなら、夢として忘れてしまうでしょうし、今後のことなんて、それこそ彼女自身が決めればいいこと」


「体とかは大丈夫なんだろうな?」
 そう問われて、喪服の女はわざとらしく溜め息を吐いた。
「私が何のために細心の注意を払って、回りくどい方法を取ったと思っているの? 『歪み』を処理するだけなら、此処に来る前に言ったとおり、『歪み』の起点である彼女を殺してしまえば済むことだったのよ。私以外の一族の者なら迷うことなく、そうしていたわ。『歪み』に関しては迅速に対処することが肝要なのだから」


 その説明に彼は不承不承に納得する。
「分かった」
 短い返事に喪服の女は静かに笑った。そして、不意に軽く手を叩いた。


「あぁ、そういえば忘れるところだったわ。今回の一件で、今日の願いは帳消しになるの。だから、また願いが出来たら、私を呼ぶと良いわ」


 一瞬、何を言われたのか彼は分からなかった。
 しかし、喪服の女が軽やかな笑い声を上げて消え去ると同時に我に返る。


「なっ!?」


 つまり何か。まだ、縁は切れないのか。
 そう悟った瞬間、彼は唸るような声を洩らした。


 礼などどうでもいいから、そのまま、忘れていて欲しかったと心底思った。
 思った瞬間、脳裏で喪服の女が答えた。



『礼儀がないのかと言ったのは誰だったかしら?』



 返って来る言葉が予想出来るようになった辺り、どうやら自分は相手のことをある程度理解したらしいと気付き、彼は渋面になる。


 少しも嬉しくない。むしろ、嫌だ。分かりたくない。
 それにしても、これは先程の自分の発言に対する報復なのか。


 彼は思わず、疑った。
 そう疑いたくなるような絶妙な瞬間の発言だった。

 不意に、彼は何やら寒気を感じ、大きく身震いをした。
 まさかと思うが、一生縁が切れない、なんてことはないだろうなと彼は真剣に考え込む。

 その答えは、しばらく出そうになかった――。










    




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