黄昏の契約







 城にいると言われても、城にどれだけの人がいると思っているのだろう。
 彼は城の中を歩きながら思った。
 彼ひとりだけでは「歪んだモノ」を見つけることは手に余る。
 そう告げたら、喪服の女は笑って答えた。



『聖眼を持っているのに見つけられないはずはないわ。必ず貴方は見出す。そういうものだもの』



 果たして、どこまで信用していいものか。


 軽く溜め息を吐いた彼は前方から歩いてくる男に気付いて足を止めた。
 一昨日にも会った男だ。
 相手も彼のことに気付いたらしく、笑みを浮かべた。
 挨拶を交わし、すぐに立ち去ろうとした彼は男の言葉に予定を変更させられた。


「実は今日、娘が城に来ているのだが、送ってくれんかな? 私は一緒に帰れないのだよ。事件もまだ解決してないので、心配なのだ」


 仮にも婚約者のことだ。断る訳にはいかない。
 彼は仕方なく頷き、男の娘がいるという後宮に向かった。


 本来、後宮は王しか入れないのだが、幾つかの手続きをすれば、短時間だけ、それも入口周辺一帯だけは入れるようになっていた。神の血を継ぐ王はその割に俗物で二十人近くの妃を持っていた。いや、公に認められていない者も含めれば、その倍はいるかもしれない。それだけの妃のいる後宮は広く、彼は手近にいた侍女に婚約者の居場所を尋ねた。


「え? その方でしたら、すでにお帰りになったと伺っていますが?」
「帰った? 本当に?」
 彼は思わず聞き返していた。


 それはおかしい。後宮に入る手続き所で確認した時にはまだ帰っていないとのことだった。


 侍女は後宮に住む妃の一人が見送ったと返答した。
 その妃は王の寵愛が深く、人望もある人物として知られていた。
 侍女は彼女の言葉を疑わずに信じているようだった。


 彼は礼を言い、踵を返した。

 頭の中で警鐘が鳴り響く。

 見過ごしてはならない何かがあった。


 彼は廊下を歩く足を止め、何かに誘われるように視線を窓にやった。
 そして、窓から見える光景に眉をひそめた。


 城内に幾つかある神殿の中でも今は使われることがない、小さな古い神殿が見えた。
 その上空に陽炎のような揺らぎが見えていた。いや、揺らぎというより歪みに近かった。


「歪み……?」



 喪服の女は言った――「歪んだモノ」と。



 その瞬間、彼は誰も見てないことをいいことに窓から外に出て神殿に走った。
 そして、わずかに乱れた呼吸を整え、扉に触れた。


 鍵が掛かっているはずの扉は開いていた。


「――」


 覚悟を決め、彼は扉を静かに開き、そっと滑り込む。


 神殿の中は空気が澱み、埃のせいか息苦しさを少し感じた。
 高い位置にある窓からわずかに陽光が差し込んでいるが、薄暗く中に誰かいるのか分からない。


 彼は慎重に歩き出す。しかし、視界の悪さに足元に転がっていた何かに当たった。



 から……



 その音に神殿の祭壇の方で何かが動いた。
 一瞬、視線を凝らすと、彼は祭壇の上に横たわった婚約者の娘の姿を見つけた。
 警戒しつつ、彼は駆け寄る。


 娘は無事だったが、双眸は虚ろで何も見えていないようだった。
 とにかく無事なのだ。一刻も早く此処から出た方がいい。
 そう判断した彼は娘を抱え、振り返った。
 次の瞬間、彼は殺気を感じて反射的に横に飛び退いた。


「っ!?」


 一瞬前まで彼が立っていた所に長い髪の女が立っていた。


 薄暗い中、光る眼は鮮血の赤。
 生き物のように蠢く髪は漆黒。
 土気色の額を飾る黄金の冠。


 彼は女を知っていた。侍女の話にも出た妃だ。
 だが、その姿は王の寵を得ているものではない。


「真昼から食事とは余程、空腹なようだな……」


 思わず零れた自分の言葉に彼は驚きを覚えた。


 妃はにたりと赤い唇を歪めて醜悪に笑った。
「剛毅なこと。このような妾を見て驚かぬとは、聖騎士の末裔とは名ばかりではないようだ」
 今でも充分驚いているのだが、彼は綺麗に隠し、努めて冷静を保って答える。
「それはどうも」


 事前に喪服の女から知らされていなかったら、今以上に驚き、こうして会話など出来なかっただろう。いや、喪服の女に会ってから起こった異常な出来事で多少の免疫が付いただけかもしれない。


「妾は若い娘を好むが、聖騎士の末裔なら肥えた妾の口にも合うや知れぬ。試してみるとしよう」


 妙案を思い付いたと喜ぶ妃を見ながら、彼は逃げる隙を窺った。


 常に携えていた剣は後宮に入る条件に入口の手続き所で預けてしまっていた。


 気取られぬよう動いた彼の腕を助けた娘が掴んだ。


「!」


 一瞬、正気に戻ったかと思うが、彼はすぐに判断を翻した。
 彼の腕を掴む娘の顔は無表情で、瞳は虚ろなままだった。


「妾から逃げることなど出来ぬわっ!」


 叫ぶと同時に妃が跳びかかる。


 娘にしがみつかれ、彼は避けることが出来なかった。
「っ!」
 妃の手が彼の顔を掴もうとした瞬間。


 ばさ……!


 妃の顔に黒いベールが覆い被さり、その体が弾き飛ばされる。


「!?」
 大きな音共に妃の体は祭壇に打ち付けられた。
 驚愕に目を見開く彼の前に喪服の女が音もなく舞い降りる。


「何者だ!?」
 新たな人影を認め、妃はベールを払い除け、体を起こしながら誰何した。
「まあ、ひどい。私のことを忘れてしまったの? 悲しいわ。私はずっと貴女を探していたのに」
 そして、喪服の女は軽く右手を上げた。


 その瞬間、神殿内に無数の明かりが灯った。
 使われなくなって久しい燭台は蝋燭などないのに神殿を照らした。


 その幻想的な灯火によって明らかになった喪服の女の顔を見て、妃は大きく震えた。


「お前、お前は……」


 喪服の女はくすりと微笑んだ。
「思い出してくれたかしら?」


 長い黄金の髪。
 清純と妖艶を矛盾なく持ち合わせた白皙の美貌。
 何より印象的なのは双眸――右の瞳は鮮やかな紫、左の瞳は清らかな翠。


 喪服を纏う女は不吉なまでに美しかった。


「何故、何故……此処に」


 呻く妃に喪服の女は小首を傾げた。
「理由なんて必要かしら?」
 無邪気ともいえる仕草と言葉に恐怖を覚えたのは彼だけではなかった。


 妃はそれまでの余裕を投げ捨て、恐怖に怯えた叫びを上げて逃げようとした。
 しかし、その動きよりも早く喪服の女は跳躍し、妃の前に降り立った。


「嫌……。嫌、死にたくない……」
 幼子のように首を振る妃に喪服の女は苦笑した。
「もう死んでいるわ。それを選んだのは貴女だったでしょう?」


「嘘、私は生きている。生きて、そして愛されるの。幸せになるの……」
 かつて人間の娘だった頃の口調で妃は夢見るように言った。


「いいえ」


 喪服の女は冷酷なまでに否定した。


「貴女は望まなかった。与えられた限りある生を捨て、未来を捨てたわ。貴女は生きていない。貴女は愛されていない。貴女は幸せになれない」


 そして、喪服の女は静かに笑った。


「私も残念なの。だって、あれほど愚かで愛しい、美しい貴方の魂が歪んでしまったのよ? でも、仕方ないわ。貴女が選んだことですもの。それに過去は変えられない」


 言いながら喪服の女は右腕を横に伸ばした。その白く細い手首から短剣が生まれる。


 漆黒の刀身に黄金の柄の短剣。
 禍禍しくも美しい輝きは喪服の女そのもの。


 喪服の女は短剣の柄を握り、薄く双眸を伏せた。
「私が貴女に注いだ力を返してもらうわ」
 言い放つと同時に喪服の女は妃の懐に飛び込み、迷いなく心臓に刃を突き立てた。

「がっ!」

 短く呻いて妃は仰け反る。蠢いていた髪が力を失い、ぱさりと落ちた。


 喪服の女は突き立てた短剣をそのまま上に斬り上げた。
 どれほど鋭利な刃だったのか、妃の体は心臓から右肩にかけて切断され、血飛沫を上げた。


「っ!」

 吐血し、妃は双眸を見開く。


 喪服の女は哀れむような微笑みを浮かべて告げた。



「さようなら。誰もが貴女を忘れても、私だけは忘れないわ。だから、さようなら」



 その瞬間、妃の体は霧散する。
 体だけではない。飛び散った血ですら塵と化し、消えていく。


 それを見届け、喪服の女は短剣を消した。
 そして、振り返ると、彼を見てにこりと微笑み、一瞬にして消え去る。


 同時に無数の明かりも消滅した。


 薄暗い神殿の中に取り残された彼は今後のことを考え、憂えて溜め息を吐いた。







 数日後、彼は三度墓地に来ていた。


 あの後、王の最も寵の深い妃の失踪が発覚し、城は上から下への大騒ぎになった。
 行方が知れるはずもなく、寵妃を失った王は一時期床に伏す始末だった。


 『人食い』事件についてはまだ騒がれているが、次の犠牲者が出ることはないと知っている彼はむしろ妃の失踪に自分が関与していることが気付かれないかと憂えていた。幸い、婚約者の娘は妃によって神殿に連れ込まれたことを忘れていた。
 しばらくは大人しくしているつもりだったが、彼はいつまでも父の形見の勲章を喪服の女の手元に置いておきたくなかった。


 喪服の女は出会った時のように墓地に立って、遠くに見える都を眺めていた。
 周囲には懐くように戯れる精霊の姿があった。


 彼が声をかける前に喪服の女は振り向いた。
「ようやく来たのね。もう、いらないのかと思ったわ」
 勲章を見せながら、喪服の女はベールの内側で笑って言った。


 喪服の女の美貌は毒だ。
 確実に破滅を導く、死に至らしめる魔薬だ。


 それを知っていて彼女はベールで素顔を隠しているのか。


 そして、喪服の女は彼に勲章を差し出した。
 彼は無言で受け取った。その瞬間、視界に映っていた精霊たちの姿が消える。
 だが、相変わらず、喪服の女の姿は見えた。


「……詫びも礼もなしか」


 彼は勲章を懐に仕舞いながら皮肉を言った。
 喪服の女は不思議そうに小首を傾げた。


「まあ、どうして詫びや礼が必要なの?」


 彼は眉をひそめ、喪服の女を睨み付けた。


「人の父親の形見を奪い、質に取り、私の力を利用した」


「それなら貴方もしていないわ」
 喪服の女の言葉に彼は表情を厳しくした。
「どうして私が詫びや礼を言わなければならない?」
 怒気を込めた声音に動じた様子もなく、喪服の女は答えた。


「貴方は何もしていない私を斬り付けたわ。それに、協力の代わりに願いを叶えると約束したもの。私に詫びや礼を言う必要があるというなら、同じことが貴方に言えるはずでしょう?」


 正論には違いない言葉に彼は沈黙するが、釈然としないものを感じていた。
 相手は人間ではない。
 人間とは違う価値観を持っていることを彼はようやく知った。


 それを察したのか、喪服の女はくすりと笑った。


「偽りかもしれない言葉の礼より、態度で表現しているつもりだったのだけれど、気にいらなかったのかしら?」


「感謝しているようにはとても見えない」
 むしろ良いように遊ばれている気がする。


「では、分かり易く示しましょうか?」


 彼が問うより早く喪服の女はベールを取り、近付いて来ると背伸びをした。
 眼前を黄金の糸が舞い、鼻先を芳しい花の香りが掠める。
 同時に彼は頬に柔らかな感触を覚えた。


「なっ!?」


 驚きの余り、身を退く彼を気に留めもせず、喪服の女は尋ねた。
「それで、願いは何かしら?」
 相手の都合などお構いなしの態度に彼は我に返り、喪服の女を睨み付けた。


 喪服の女は無邪気な様子で答えを待っていた。
 日差しの下でも、その容貌は不吉なまでに美しかった。


 彼は喪服の女の恐ろしさを知りながらも、一瞬は見惚れてしまう自分に腹立たしさを感じながら答えた。


「ない」


 一瞬、喪服の女は面に驚愕の色を浮かべるが、次の瞬間、軽やかに笑い出した。


「ない、とはおかしなことを。人間は欲深い生き物。望みは死ぬまで尽きはしない。それは聖騎士の血を継ごうとも、聖眼を持とうとも変わらないはずよ」


「少なくとも、お前に叶えてもらわねばならない望みはない」


 下手な願いは自らの身を滅ぼすだけ。
 第一、他人の、それもこの女の力を借りて望みを叶えるなど彼の矜持が許さなかった。


 喪服の女は軽く肩を竦めて、彼を驚かす一言を呟いた。
「仕方ないわね。では、願いが出来るまで待つことにするわ」
 彼は即座に叫んだ。


「待つな!」


 しかし、人の言うことを聞くような相手ではなかった。
 喪服の女はベールを被り直しながら告げた。


「私の名前はグナーデ」


 ふわりと喪服の女の体は空中に浮かび上がる。


 黄昏に染まる空に溶け込みながら彼女は続けた。



                 グナーデ
「願いが決まったなら呼ぶといいわ、慈悲と」



 そして、喪服の女は跡形もなく消え去った。
 残された彼は渋面で呟く。
「誰が呼ぶか」


 しかも、慈悲とは一体誰が名付けたのか。
 余りにも、似合わない名前だった。しかし、とりあえず何もかも終わったのだ。


 それで良しとすることにしようと思い直し、彼は沈む夕陽に背を向けた――。









    




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