彼を見るとき、彼女は一瞬いつも眩しそうに双眸を細めるのが癖だった。 「私じゃダメ?」 そう彼女が訊くと彼は怜悧な容貌をわずかに歪めた。 それは驚きではなく。 それは拒絶ではなく。 単純な疑問の反応だった。 「何が?」 彼の問いに彼女は言いよどんだ。 やがて紡ぎ出した言葉は。 「ごめんなさい、何でもないわ」 意味のないもので。 「そうか」 彼は何事もなかったように彼女の前から歩き去っていく。 その背を視線で追いながら彼女は憂鬱そうに溜め息を吐いた。 こんなことじゃいけないと分かっている。 今、周囲は切迫していて。 ――当然よね。だって、決戦だもの。 曖昧なままで想いが届くことなんてムリで。 ――当然よね。だって、私のことなんて眼中にないもの。 それでも、諦められない夢がある。 それだけは真実で、現実で、だからこそ彼女は彼の側に近づくために努力を重ねてきた。 王家の魔術師だった父。 女騎士だった母。 凶刃にかかって命を落とした王に代わり、玉座に座った男の横暴を諌めて、父は死んだ。 父の死を知らされ、嘆く間もない与えられないまま、母と彼女は逃げ延びた。 旅路の果て。 そこで待っていたのが彼だった。 彼は先王の遺児を守り育て、祖国に帰る時を待っていた。 出会ったとき、彼はもう大人で。 出会ったとき、彼女はまだ子どもで。 その時に生じた関係は今でも変わらない。 その時に生じた距離は今でも変わらない。 「どうしてかなあ?」 彼女の目にはいつの間にか涙が滲んでいた。 悔し涙だ。 たくさん努力した。 少しでも役に立てるように頑張ってきたというのに。 父の血を強く引いたのか彼女には魔法の才能があった。 彼には多くの味方が必要で。 彼には守らなくてはならない主がいて。 彼には叶えなくてはならない望みがあって。 だから、彼女は魔術師になった。 けれど、どんなに近づいても彼は何も変わらなかった。 おかしいことを言えば笑う。 失敗すれば怒るか苦笑する。 けれど、彼女の望む感情は引き出せない。 挙句の果てに、彼女は彼が情報収集に使っているらしい小鳥にまで嫉妬することになった。 白い小鳥。 どこからかやってきては飛び去っていく小鳥。 その小鳥に触れるのは彼だけだった。 その時だけ、彼の表情はかすかに和らぐ。 愛しそうに。 切なそうに。 その時だけ、彼の行動に迷いが出る。 壊さないように。 傷つけないように。 白い小鳥は美しく鳴く。 その名に相応しく、鈴のような音色で歌う。 記憶に残る小鳥のさえずりが、鬨の声と入れ代わる。 彼女は我に返った。 ついに決戦が始まったのだ。 こんなところにいてはいけない。 ――戦って勝たなくては。 勝利を掴めば、彼の役目は終わるだろう。 彼の主が祖国を取り戻したら、彼は心に余裕を持てるだろう。 その時なら、彼女の言葉は届くかもしれない。 その時なら、彼女の想いを受け止めてくれるかもしれない。 彼女は決意を新たに歩き出す。 倒すべき相手は父の敵。 取り戻すべきは祖国と未来。 手に入れるべきは愛する人の心。 揺るがない意志を持って、彼女は颯爽と戦場に赴いた。 炎を操り、風を纏い、彼女は戦った。 気づけば、いつも視野の隅に捕えていた彼の姿がない。 彼女は慌てて探した。 彼は年若い主の側にいるはずだ。 彼女たちの旗ともいうべき清廉な存在の側で、彼はいつも影のように従っていた。 不意に彼女は空を見上げた。 太陽の眩しさに双眸を細めて、視線を逸らした先には蒼い空と城の尖塔。 そして、彼女は見つけた。 蒼い、蒼い空に。 その蒼を横切る白い影。 「べ」 白い小鳥の名を呼ぼうとした彼女の声は突如沸いた歓声に掻き消された。 勝利を伝える熱狂的な歓声。 だが、逆に彼女は心が冷えていくのを感じた。 闇雲に人込みを掻き分け、彼の姿を彼女は探した。 「!」 そして、一瞬視界を掠めた姿を追いかけて、彼女は必死で走った。 戦う前に頭に叩き込んで城の地図を思い描き、先回りする。 城の裏側。 寂れた庭園の奥で彼女は足を止めた。 前から彼がゆっくりと歩いてくる。何故か彼の主はいない。 少し考えて当然だと分かった。 彼の主は、今頃、大広場で歓声を受けている。 ――でも、どうして? 何故、彼はこんな寂しいところを歩いているのだろうか、独りで。 ――独り? 彼は独りではなかった。 その腕に誰かを抱いていた。 ――誰? 風に揺らぐ白い衣装。 対照的な赤と黒。 「……リーヴァ?」 震える声は小さすぎて届かなかったのだろうか。 彼は気づいた様子もなく歩いてくる。 そして、彼女は気づいた。 彼が腕に抱いた女だけを見つめていることを。 すぐ側に彼女がいるのに、彼ほどの優れた剣士が気づかないはずがないのに、彼は少しも意識を向けなかった。 そして、彼は通り過ぎる。 彼女は言葉もなく、立ち尽くしていた。 彼の腕の中の女。 汚れない純白と鮮やかな真紅の衣装を纏った黒髪の女。 彼女の記憶の片隅に、今まで忘れていた過去の中に女がいた。 深夜の来訪者に、母が驚いていた。 『急いで逃げる支度をして』 闇に溶け込むような漆黒の外套を頭から被っていた。 『このままでは貴女たちも危ないの。だから、逃げて』 最初は拒んだ母が説得に応じると、相手は安堵の吐息を零した。 その際に滑り落ちた黒髪が印象的だった。 『ですが、逃げるなら貴女もです』 母の要請に相手は応じなかった。 『それはダメよ。足手纏いになってしまう。それに、私はここに残るべきなのよ』 母が泣いていた。 『ここにいれば貴女たちのように助けることもできるから』 慰める手は白く細かった。 『その時が来るのをずっと待っているから』 囁く声は優しかった。 『…………様っ!!』 名を呼んだ母に相手は――女は美しく微笑んでいた。 彼女は無意識のうちに女の名を口にしていた。 「リーズ、ベル? ……違う、リーズヴェルだった」 リーズヴェル。 先王の妹。 簒奪者の妻。 王子の叔母。 そして。 ――そして? 思い出したのは彼の声。 白い小鳥の名を呼ぶ優しい声。 『ベル』 ――ヴェル。 鈴のような音色で鳴く白い小鳥。 『ベル』 ――ヴェル。 彼だけが触れた白い小鳥。 リーズヴェル。 先王の妹。 簒奪者の妻。 王子の叔母。 そして、彼の。 「っ!!」 彼女は堪え切れず、嗚咽を洩らした。 彼の腕の中の女は死者だった。 白い肌は更に白く、白い衣装は赤に染まっていた。 閉じた双眸は二度と開かない。 閉じた唇は二度と声を紡がない。 ――なのに。 彼女はずるずると崩れて、座り込んだ。 彼は微笑んでいた。 愛しそうに。 切なさそうに。 その瞳に死者の列に加わった女だけを映して。 最初から最期まで。 彼が呼ぶのは白い小鳥の名。 彼が触れるのは白い小鳥。 彼のすべてを与えられたのは彼女ではない。 彼の心に余裕なんてなかった。 彼の心に自分が入る隙間などなかったのだ。 唇を噛み締め、嗚咽を殺した彼女は堪えるように顔を上げた。 蒼い空に太陽が輝いていた。 その眩しさに、彼女は涙を零した。 その涙の意味は彼女には分からなかった――。 |
コメント ………………。 だから、私はハッピーエンドが好きなんだってば! すべては『蒼穹』が好評だったことに始まったようなもの。 ある方の感想で「ベクトルが一方通行」というものをいただいて、妙に心に残って。 で。 「じゃあ、誰か他の人もそうかな〜」 考えたら、いました。つーか、生まれました。 今回の主人公は女魔術師、のはずですが、裏主人公はやっぱりリーズヴェルです。 しかも、前作では、ただ趣味で出したものが伏線になっていました。 恐ろしい……。 前作が詳細な設定などない状態で、思いつきで書いていただけに、今回登場人物たちの年齢を決めるのに苦労しました。 ……本文には載ってませんけど。 いえね、書くのに私が必要としたので決めたんですが。<溜め息 私はおだてに弱いです。 洗脳もされやすいです。 なので、読者様の感想が私の創作意欲の炎に油を注いで、思ってもみない作品が生まれることが多々あります。<筆頭は自己満足集大成第二段 コレが良い例です。 |
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