喧騒が近づいてくる。
喧騒の正体は怒号と悲鳴、弾けるような金属音。
不意に、大きな衝撃音がして、かすかに地面が揺れた。
それを感じ取り、彼女は手紙を書いていた右手を止めた。面を上げ、窓の外に黒い煙が一条立ち昇っているのを確かめる。
「王妃様……」
背後から届いた呼びかけに答えず、彼女は書き上げた手紙を小さく丸めた。
細い帯状の、小さな手紙。
たった一文、無記名で書かれた手紙。
それを手に彼女は立ち上がり、窓辺に吊られた鳥篭に向かった。
「王妃様、どうか……!!」
哀願の声を無視し切ることができず、彼女はようやく答えた。だが、振り返ることはしない。
「何ですか?」
落ち着いた、静かな声音。
「どうか、フィリアード様の許へ落ち延びましょう!」
幼い頃から世話をしてくれていた女官が紡いだ名に彼女の細い肩が一瞬震えた。
「懐かしい名前……。あの子は今幾つだったかしら……?」
かつては憎悪しか湧き起こさない名だった――彼に罪はないのに。
だが、今は愛惜のみ。
呟きながら彼女は鳥篭の鍵を開け、白い小鳥に左手を差し伸べた。
よく躾けられた小鳥は迷わず、彼女の繊細な指に止まり、鳥篭の外に出てくる。
「十八でございます」
「十八……。そう、さぞかし大きくなったことでしょう」
淡々と感想を述べる彼女に女官はすすり泣くようにして告げた。
「もう大人でございます。王妃様、いいえ、リーズヴェル様を受け入れて下さいます」
彼女は白い小鳥の細い足に嵌められた細い管に手紙を入れて、静かに手を上に掲げた。
白い小鳥が飛び立つ。
蒼い、蒼い空へ。
その姿が小さな点になるまで見届け、彼女はゆっくりと振り向いた。
ふわりと白い肩掛けと長い袖が舞う。
「リーズヴェル様!」
彼女は微笑みを浮かべていた。そして、花びらのような唇が言葉を紡ぐ。
「長い間、ご苦労様でした」
告げられたのは別れの言葉。
労わりに満ちた、慈悲の言葉。
女官は絶望を叩きつけられたように双眸を見開き、震えて泣き崩れる。
「リーズヴェル様、リーズヴェル様……」
名を呼び続ける女官に彼女は困ったように首を傾げた。
すでに三十路に入っているにも関わらず、彼女は稚い少女のような印象を持っていた。
子を産んでいないためなのか、若く美しい。
「ようやく、なのです……」
彼女の呟きに女官はただ頷いた。
そして、彼女は自らの額を飾っていた宝冠を取り外し、机の上に置く。
この国の主の配偶者である証。
この国で最も貴い存在の一人である証。
それを手放し、彼女は綺麗に結われていた漆黒の髪を解いていく。
自由になった髪は窓から入る風に揺れ、その形を作る。
その心地良さに彼女の顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「リーズヴェル様……」
彼女は微笑みを浮かべたまま、歩き出し、女官の横を通り過ぎる。
その際に一言声をかけて。
「今まで、ありがとう」
滑るように部屋を出て、彼女は長い廊下を歩き出す。
静かに、静かに。
一歩一歩を確かめるように、ゆっくりと。
ふわりと流れる白い肩掛け。
薄い、刺繍が縫い取られたそれは白い小鳥の翼のよう。
極上の絹で作られた、汚れのない白い衣装。
さらさらと衣擦れの音を立てて歩く姿は神前に向かう花嫁のよう。
彼女を見咎める者はいない。
遠くで聞こえる喧騒が徐々に大きくなっていくにつれて、彼女の笑みが深まっていく。
ある日、王が死んだ。
暗殺者の手によって、王は死んだ。
長い廊下を歩き、やがて彼女は静寂に包まれた墓所に辿り着く。
王の、ただ一人の妹を妻にしていた男が王位を手に入れた。
正当なる後継者を追い払って――その幼さにつけ込んで。
重厚な扉をそっと押しやり、彼女は隙間から滑り込むようにして入った。
幼い王子は命を狙われながら生き延びた。
信頼できる者たちに匿われて、成長した。
墓所の奥、一番新しい棺を見つけて彼女はかすかに笑った。
そして、王子は立ち上がった。
蹂躙される自らの王国を取り戻すために。
彼女は棺の傍に寄り、その蓋の表面を静かに撫でた。
「……聞こえますか? あの子が、貴方の血を継いだあの子が戻ってきました」
静かに棺の内で眠る者に彼女は囁いた。
「貴方の成し得なかったことをあの子が果たしてくれるでしょう。すべての悪しき因縁を断ち、新たな風と共に、この国を蘇らせてくれるでしょう」
だが、希望を紡ぐ声は何故か哀しみの色を帯びていた。
彼女は華奢な肩を震わして、小さく呟く。
「……どうして、それを成すのが貴方なのではないのでしょう?」
白い頬を涙が伝う。
「どうして、死んだのです?」
詰る響きには愛しさが込められていた。
「どうして、貴方が死んだのです?」
彼女は棺に縋りついた。
「どうして、私ではなく貴方が死んだのです?」
深い、深い悔恨と嘆きの言葉。
すべては私の罪だったはず。
「なのに、何故……」
ぽたりと棺の上に涙が落ち、円い染みを作る。
「死を望まれたのです?」
公衆の面前で暗殺者に襲われた王。
だが、彼は腰に佩いた剣を抜かなかった。
彼女の目の前で、悪夢が始まった。
王が死んだ。
兄が死んだ。
愛する人が死んだ。
悪夢。
好きでもない男に嫁がされた時よりも。
背徳の想いを抱いていると悟った時よりも。
貧困に喘ぎ、死の淵を彷徨っていた時よりも。
あの悪夢の瞬間を彼女は厭っていた。
「でも、もう悪夢も終わり……」
ぽつりと呟いて彼女は涙を拭って立ち上がった。そして、棺から離れ、祭壇の前に立つ。
目の前には巨大な神像。
両手を差し伸べる慈悲深き女神。
その右手には生を。
その左手には死を。
この世に生きるモノたちに等しく与えられる運命を。
そっと跪き、彼女は祈りを捧げた。
彼女の最後の願いが叶うように。
――女神よ、どうか私に貴方の力を。
やがて、女神像の足元の台座がかすかに揺れた。
それに気づき、彼女は表情を引き締めて立ち上がる。
台座の一部が持ち上がり、虚ろな四方形の闇が開く。その中から、現れたのは満身創痍の男だった。
血で濡れた剣を手にした傷だらけの男に彼女は驚いた様子もなく見つめた。
男は彼女の存在に気づいて、かすかに双眸を見開いた。
「リーズヴェル……」
彼女はかすかに微笑んだ。
「私の助言は役に立ったようですね」
その言葉に男は我に返って頷いた。
「ああ。そうだ。役に立った。……だが、これからどうやって逃げるかだが」
夫の言葉に彼女は静かに告げた。
「ご心配なく。最も安全な、誰も貴方を捕まえることのできない逃げ道があります」
「何!? ならば、早く言わぬか! あの忌々しい小僧が追ってくる前に何としても落ち延びるのだ」
彼女は勇んで近づいてくる男の言葉に双眸を細めた。
「あの子に会われたのですか?」
「あ?」
「あの子――フィリアードです」
「ああ、もちろんだとも!」
苛立った様子で男は答えた。
「あの小僧、私に向かって『父を殺した簒奪者』と汚名を着せよった! そうしておけば、王位に即き易いとでも考えたか、賢しらな小僧だ」
彼女はかすかな笑みを口元に浮かべた。
「汚名ではないでしょう?」
次の瞬間、男は驚愕に瞳を見開いて立ち尽くしていた。からりと剣が滑り落ちる。
「リーズヴェル……?」
自分の胸元にいる妻の名を男は呼んだ。
彼女は微笑みながら顔を上げた。
「私は、ずっと、この時を待っていました……」
楽しい秘め事を打ち明けるような笑顔。
そして、彼女は左手に込めた力を強め、握ったものを捻るようにして男の腹部に押し込めた。
男の肩が大きく震えた。
「リーズ、ヴェル……」
彼女は呻くような呼びかけに柳眉をひそめ、そして男から離れた。
同時に、男の腹部から鮮血が散り、男の衣服を真紅に染め上げる。
「な、ぜ……」
彼女は左手に血で濡れた短剣を持ったまま、小首を傾げた。
「何故と問うまでもないでしょう? 私は兄の敵を討ったのです」
男は腹部を抑え、後ずさりながら言った。
「私は、お前の夫だ」
神前での誓いは何よりも重要視されている。
神との約束を破れば、未来永劫その魂は許されず苦悶の世界で苛まれると信じられていた。
婚姻の誓いを交わした者たちは運命を共にする者。
生も死も彼らを引き離すことはできない。
彼女は微笑みながら答えた。
「いいえ」
わずかに遠退いた男に彼女はゆっくりと近づいた。
「私の愛する方は、この世でただ一人」
身分の低い母。
一夜の慰みで生まれた娘を養うために命を削った。
「女神に誓いました。私の愛はその方のものだと」
母が死に、引き取られた王宮。
引き合わされた、年の離れた兄。
「たとえ、報われずとも私のすべてを捧げると誓いました」
思慕はいつの間にか恋慕に変わり。
兄の隣にいる義姉を妬み、その子を恨んだ日もあった。
「貴方との結婚もそのためでした」
男は近づいてくる彼女に魅せられたかのように視線を注ぎ、その場に凍りついていた。
じわりと滲み出てくる出血が床に血溜まりを作る。
兄を取り巻く、厳しい状況。
それを凌ぐには男の一族との和解が必要だった。
「私は貴方と婚姻の誓いを交わす前に、誓っていたのです」
そして、彼女は迷わず、男の首を掻き切った。
噴水のように溢れ出る血飛沫。
力を失い、倒れた男の体。
かすかに痙攣する手。
返り血を全身で受け止め、白い衣装を真紅に染めた彼女はそのままに女神像を仰ぎ見た。
「感謝します、女神よ。貴女の左手を貸して下さったことを……」
彼女の利き手は右。
だが、男の命を奪った短剣を握った手は左。
彼女が大きな溜め息を吐いた瞬間、大きな音共に扉が開いた。
ゆっくりと彼女は振り返り、そして微笑みを浮かべた。
開いた扉の向こうから現れたのは凛々しい青年だった。
剣を手に険しい顔をしていた彼は彼女の姿を見て驚愕の表情を浮かべた。
「フィリアード、ですね……?」
名を呼ばれ、青年は大きく瞳を見開いた。
「――叔母上?」
その瞬間、彼女は朗らかな笑い声を響かせていた。
「えぇ、えぇ、そうです……。私は、貴方の叔母――」
「そのお姿は――」
血に塗れた彼女の姿に青年は戸惑い、その場に立ち尽くす。
それを察し、彼女は微笑した。
「復讐を果たしました。そして、これより私は死を女神の手により賜ります」
彼女の左手が動き、短剣の刃が白い首筋に当てられた。
「叔母上!?」
言葉の意味は分からずとも、その行動で何をしようとしているのか察した青年が駆け寄ろうとする。
「ダメよ、近づかないで」
しかし、彼女の静かな一言に青年の足は縫い留められたように止まる。
「これは私の望みなのよ」
彼女の望み。
罪を犯した彼女が最後に望むもの。
彼女の罪とは神前で偽りの誓いをしたことではない。
「私は、ようやく自由になれるのよ」
覚悟していたはずだった。
最愛の兄のため、嫁ぐと決めたはずだった。
だが、式の前日、その意志とは裏腹に恐怖と絶望が襲い掛かり、何の考えもなく逃げ出した。
広い王宮を彷徨った末、辿り着いた墓所。
女神の前で泣き、死んでしまいたいと思った。否、死のうとしたのだ。
今、手にしている短剣で。
護身用にと兄から貰った短剣で。
それを止めたのは、兄だった。
――私は罪を犯した。
永遠に、息絶える日まで秘めておかねばならなかった想い。
言葉にすることすら許されない言葉。
――それを私は……。
彼女は微笑みながら涙を零した。短剣を握る手が震えている。
分からないことは一つだけ。
父親と生き写しの青年を見つめながら彼女は今まで考えないようにしていた事柄に意識を傾けた。
――何故、兄は拒絶しなかったのだろう。
――何故、兄は抱き締めてくれたのだろう。
鮮血が散る。
――何故、兄は抱いてくれたのだろう。
「叔母上!?」
迷いもなく、自刃した叔母に青年は駆け寄り、倒れ伏した体を抱き起こした。
力を失った手から短剣が滑り落ちる。
それに気づいて視線をやった青年はすぐ傍に長年の敵だった男の遺骸を見つけ、息を呑む。
そして、ようやく叔母の言葉の意味を知った。
「復讐をって……叔母上、何故っ!?」
男を討つのは青年の役目だった。
たった一人の血縁。
幼い頃に会ったというが、青年の記憶にはその面影はなかった。
それでも叔母と分かったのは血の為せる業か、それとも青年を守り育ててくれた師の言葉を聞いていたからか。
「フィリアード」
不意に呼ばれ、青年は顔を上げた。
青年を呼び捨てにする者は一人しかいない。
命の恩人であり、剣の師である男。
「リ―ヴァ」
首を巡らすと、白い小鳥を肩に乗せた怜悧な容貌の男が扉近くに立っていた。
男が歩き出すと、小鳥は飛び立ち、墓所の中を飛び回る。
「叔母上が……」
男は無言で青年の腕に抱かれた物言わぬ女を見つめ、そしてかすかに笑った。
「ようやく、か――」
そして、男はその体を彼から引き取る。
「リーヴァ?」
男の行動に戸惑いながら従ってしまった青年は眼差しで問いかけた。
男は青年にかすかに笑いかけた。
「これが私の望みだった……」
小さな呟き。
自嘲交じりの言葉。
「リーヴァ?」
「フィリアード、お前はもう私の助けがなくともやっていけるな?」
思いがけない言葉に青年は言葉を失う。
「私は、少し、疲れた……」
そう言って男は血に染まった女の遺体を抱いて歩き出す。
「リーヴァ!?」
男は振り返らず、青年に告げた。
「すべてを新しく始めるといい――」
白い小鳥が男を追っていく。
墓所を出て、長い廊下を歩いていた男はその先に見知った女官の姿を見つけた。
「リーヴァ、間に合わなかったのですね……」
男の腕に抱かれた女の遺体を見て、女官は沈痛な面持ちで言った。
男は答えなかった。
間に合わないように動いたのは他ならぬ男自身だった。
男は女の死を望んでいた。
だが、そのことを男は母たる女官に伝える気はなかった。
王宮に引き取られた貧しい市井の王女。
彼女の女官となった母によって引き合わされた。
最初は妹のような存在として。
最後は唯一の女として。
男は彼女を愛した。
王が死んだ夜、彼女は告げた。
『フィリアードを連れて逃げて。このまま、王宮にいては危険なのよ』
泣き腫らした眼で彼女は訴えた。
『死なせる訳にはいかないの。お兄様の御子を死なせる訳には――』
そして、約束を交わした。
すべてが終わった暁には、貴女が欲しいと男は言った。
彼女は少し驚いた顔をして、そして微笑んだ。
『死体で良ければ』
男は彼女のすべてを知っていた。
彼女が誰を愛しているのかも、知っていた。
決して、自分を見てくれることはないと知っていた。
――ようやく、手に入れた……。
「リーヴァ?」
息子の様子に気づいた女官が声をかける。
男はかすかに微笑んで告げた。
「母上、もはや私は死んだ者と思って下さい」
「リーヴァ!?」
男は母の声を背に歩き出す。その胸に愛する女の亡骸を抱きながら、かすかな笑みを浮かべたまま。
死者を愛する者は死者同然。
死によってしか手に入らなかった女。
その魂は鳥のように飛び去ってしまった。
だが、それでもいい。
それでも、構わない。
あの約束の瞬間、彼女は確かに男を見てくれた。
――この亡骸はその証……。
そして、男は歓声に沸く城から姿を消した。
それは目も眩むような澄み切った蒼い空が広がっていた日のこと。
雲一つない、明るい蒼に染め上げられた空を、人知れず白い小鳥が飛び去った。
END
|
|