『この石は貴方の時間です』 そう告げたのは闇を従えた青年だった。 漆黒より尚艶やかな黒銀の髪に、金に見紛う琥珀の瞳。 静かに佇むだけで他者を圧倒する存在感。 大陸全土を支配下に置き、永き栄華を誇る帝国が成立する以前より存在する、魔術の王にして、人形師。 皇帝ですら一目を置いているルガーノ侯爵の許に、彼が訪れたのは秋の終わり頃だった。 カラカラと軽快に廻る車輪の音を聞きながら、彼は覗き窓から見える風景に心奪われていた。 侯爵が唯一の領地とする森は深く、人が訪れることもめったにない。それだけに自然が創り出す造形は目に鮮やかに映えた。 色づいた木々の色と、枝が織り成す曲線。 聞こえるのは冷涼とした風のそよぎと落ち葉が踏まれる音。 静寂に満ちながら、森に住む動物たちの気配は多く、一人で立っていたら、その空気に呑み込まれてしまいそうだ。 決して、首都の街並で見られない光景だった。 「若君、侯爵の館が見えて参りましたが……」 やや躊躇いがちな御者の声に、彼は表情を引き締めて頷いた。 「ああ」 「あのう、若君……やはり戻りませんか?」 御者は明らかに怯えていた。 「分かったよ」 「若君、では」 「馬車を止めてくれ。ここからは僕一人で行くから」 「若君!?」 「いいから止めるんだ」 彼は無理やり馬車を止めさせ、そのまま制止する声を振り切って侯爵の館まで足早に向かった。 侯爵の館は重厚な雰囲気を残しつつ、それでいて手入れが行き届いていた。 格子状の門に彼が触れると、それはまるで自らの意志があるように内側へと動いて開いた。 「!」 息を呑み、彼はまじまじと門を見つめた。そして、おもむろに敷地内へと進んだ。 庭は周囲の鬱蒼と茂る森とは裏腹に綺麗に整えられ、色づいた落ち葉すらなかった。 そして、彼は扉の前に立ち、覚悟を決めて呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした。 その瞬間、彼が呼び鈴に触れるより早く扉が開く。 「ッ!?」 手を伸ばしたままで彼は硬直した。 扉の向こうには誰もいない。ただ、ぼんやりとした灯火が永く続く廊下を照らしていた。 その光はまるで彼を導いているようで、否、実際導いていたのだ。彼は引き寄せられるように歩き出し、灯火の輝きを追った。 そして、彼は侯爵に会った――。 「この世で最も美しい宝石?」 わずかに柳眉をひそめ、侯爵は穏やかに笑んで首を傾げた。 「また、随分と厳しい条件ですね」 価値観などというものは人や時代によって変わるもの。 ただ、最上などというものは確定できるものではないのだ。 もちろん、誰もが認める『特別』は存在する。 侯爵は背後に控える少女をちらりと見やった。 緩く波打つ金色の髪の柔らかな輝きは春の陽光を思わせ、曇りのない蒼の瞳は星に似た清らかな光が宿っている。透き通るような白磁の肌。華奢な体はたおやかだが、凛とした強さを感じさせた。 何より特別なのが、美しい容貌に相応しい純粋な魂。 誰が思うだろう――この少女が人形だと。 誰が知っているだろう――この奇跡を。 自我があるはずのない『人形』。 確かに、侯爵は『特別』になりえるだけの時間と労力、そして、情熱を費やした。だが、この奇跡だけは故意に起こせるものではない。 「……無理だと?」 思わず、顔をしかめた青年に、侯爵は静かに笑った。 「無理とは申していませんよ。ただ、厳しいと」 侯爵は不可能だとは一言も言っていない。 「何が厳しいんだ? 費用の工面ならいくらでも」 「いいえ」 真剣に告げる青年には侯爵は否定した。 「そんな物理的な問題ではありません。つまりは、そう……人の好みはそれぞれというだけです」 「好み?」 侯爵は小さく頷いた。 「私は貴方の望む、貴方が最も美しいと思う石を用意することができます。しかし、それが貴方にとって本当に必要なものなのか、その判断が難しいのです」 そこで、侯爵はうっすらと意味深な微笑を浮かべた。 「それを本当に欲しているのは貴方なのでしょうか……?」 何もかも見透かすような眼差しに、青年は口篭もる。だが、このままでは埒が明かないと判断し、意を決した顔で話し始めた。 「――実は結婚したい女性がいて、彼女には僕以外の求婚者が何人もいるんだ」 侯爵は無言で続きを促した。 「彼女と結婚するためには、彼女が出した条件――彼女に相応しい、最も美しい宝石を婚姻の証として用意できること」 すでに何人もの求婚者たちが幾つもの宝石を手に彼女に求婚したが納得させた者はいない。 話し終えた青年は真剣な顔で侯爵の反応を窺い見た。 「やはり、難しいか?」 侯爵はあっさりと答えた。 「いいえ。目的と対象が明確になりさえすれば、容易なことですよ」 「では!」 青年は意気込んで身を乗り出した。 その瞬間、侯爵は軽く閉じていた手を開いて見せた。 その手のひらの上には薔薇色にゆらめく輝石が存在した。 美しいと青年は素直に思った。 まるで彼女を目の前にした時と同じ高揚感があった。 「この石は貴方の時間です」 ぼんやりと石に魅せられながら、青年は言葉を拾い返した。 「……時間?」 「ああ、どうぞご心配なく。別に貴方の命に関わるような危険性はありません」 そして、侯爵は石を青年に手渡した。 「この石ならば、その彼女も必ずお気に召すでしょう」 青年は疑うことなく頷いた。 侯爵の言葉が偽りでないことは彼自身納得していた。 (この輝石は彼女に相応しい……) 否、この石は彼女だけのためにある。 「礼を言うよ、侯爵」 石を握り締め、歓喜に震えながら告げる青年に侯爵は静かに微笑した。 「その必要はありませんよ、これは契約なのですから」 契約――それは無償ではない。 青年は侯爵に代償――死して後の魂を差し出さねばならなかった。 まるで、物語にある悪魔との契約のようだ。 青年は今の自分の望みを叶える代わりに、魂の未来を失うのだ。 だが、今の青年には何も関係ない。失うことになる魂の未来に在る自らは彼ではないのだから。彼であることはないから、青年は躊躇いなく契約を結んだ。 忘れるなと言外に眼差しだけで伝える侯爵に、青年は頷き返した。 侯爵から渡された石は彼女に感嘆の息を吐かせた。 『これこそ、私の求めていたもの。私が欲しかった、私に相応しい、最高の宝石』 そして、青年は彼女と結婚した。 美しい石は彼女を虜にし、青年の望みを叶えた。 「どうして、こんなことに……」 呻くように呟いて、彼は自らの両手を見下ろした。 真紅に染まった手。 その手には同じように真紅に濡れた短剣。 滑り気のある赤いそれは強い香を放ち、彼の神経を麻痺させる。 緩々と視線を上げると、そこには血溜まりに沈んだ女性の体。 極限までに見開かれたままの緑の瞳は白濁し、見上げるように彼の方を向いていた。 血に汚れた顔は驚愕と恐怖にひきつったまま固まっていた。 美しいとは到底思えない。 (あぁ……) 虚ろな思考で、彼はここ数年心の中で呟いていた単語を口にしていた。 「醜い」 白い顔も、綺麗な髪も、細い体も、整った指先も昔と変わらず美しいのに、何故、そこに留まる表情は醜悪なのだろう。 何故、かつて見惚れたそれがないのだろう。 毅然とした微笑に強く惹かれ――傲慢な微笑に抑圧され。 聡明な知識に深い敬愛を抱き――嘲りを含んだ口喧しさに苛立ちを抱き。 (醜い) かつて、あれほど美しいと褒め称えた妻を醜いと青年は評価した。 彼はワインが倒れて汚れたテーブルクロスを引き摺り下ろした。乗っていた皿が料理ごと耳障りな音を立てて落ちていくが、彼は気にも留めず、妻の顔を覆い隠した。 妻は自らの美しさを喧伝し、結婚前と変わらず華やかな場所で笑い続けていた。 周囲から視線を逸らされるほどに見苦しいまでに。 そんな彼女を見たくなかった。 彼が知る、彼が愛した彼女に戻って欲しかった。 だが、彼女は一笑した。 『私は何も変わっていないわ』 それだけの言葉で締め括ろうとした彼女と彼は口論した。 最初に刃を手にしたのはどちらであったろうか。 彼だったかもしれない。 彼女だったかもしれない。 否、どちらでも構わない。分かっているのは、彼は彼女を殺して生きていて、彼女は彼に殺されて死んでいることだ。 (これから、どうしよう……) このまま、憲兵に捕まる気にはなれなかった。 これは事故だ。だが、それを周囲が信じてくれるとは彼は思わなかった。 それほどに、彼と彼女の確執は深かった。 (あぁ、そうだ。あの石……あの石を売って逃げよう) 親から譲り受けた財産はすでに残っていない。すべて彼女の見栄と美しさを保持するためだけに費やされ、消えてなくなった。 そして、彼は数年前に手に入れた宝石を捜し出す。高価なものばかりが並ぶ妻の部屋を踏み躙るように入り、買い集めた宝石が入っている宝石箱を漁った。 見知ったものから見たことのないものもある。だが、そのどれもが彼の薔薇色の輝石には及ばない。 苛立った彼は乱雑に宝石箱をひっくり返した。 燦然と煌く石たちが絨毯の上に広がる。その中で一つだけ違う石があった。 咄嗟に、彼は持っていた短剣を投げ捨てて、それを拾い上げた。しかし、次の瞬間、言葉を失い、硬直した。 あれほど美しく輝いていた石は濁った泥水のように色を変え、歪な礫になっていた。 「……何故だ……」 茫然と呟いて、彼は石を取り落とした。 見るのも厭わしい。不快な気分に襲われて、叶うならば粉々に砕いてしまいたい衝動が沸き起こる。 「何故――」 小さくかぶりを振り、彼は石に怯えるように後ずさった。 「何故だ、侯爵!?」 少ない灯火に照らされた薄暗いの部屋の隅にある闇から、音もなく人影が凝る。 冷ややかな、揺るがない美貌。 部屋の中の闇が一段と濃さを増したような気がした。 ルガーノ侯爵は音もなく進み出て、石を拾い上げた。 「何故とは不思議なことを……。私は申し上げたはずですよ」 「な、に……?」 「この石は貴方の時間だと。貴方の彼女に対する感情を具現したものです」 侯爵は静かに続けた。 「お話しを伺ったところ、自らを賛美されることがお好きなようでしたから、その感情を形にできるよう取り計らったのですが……」 そして、侯爵は石を眺めて、くすりと小さく笑った。 「随分と心変わりをなさったものですね」 「侯爵……」 にこりと微笑み、侯爵は硬直している彼の手に石を置き渡した。 「どうぞ、これは貴方に差し上げたものですから」 まじまじと醜く変わり果てた石を見つめ、彼は唇を噛み締めた。 ようやく、彼は理解した。 この石の在り様が、彼の目に映る彼女なのだと。 彼が彼女に魅せられ、賛美していたから、手に入れた時、石は眩く輝いていた。 そして、彼女は何よりも自らを褒め称えられることを喜びとしていた。 だから、彼女はあの輝石を自らに相応しい最高の宝石と認めたのだ。 「こんな、もの……こんなもの!」 激情に駆られるまま、目についた短剣を取り、彼は石を割り砕いた。 その瞬間、彼は身動きを止めた。次いで、激しく笑い出す。 狂気に染まった笑い声に、侯爵は柳眉をひそめた。そして、呆れたように肩を竦めた。 確かに、侯爵は命に関わるような危険はないと告げた。だが、その心まで保障しなかった。 「さて、どうしましょうか」 死んだも同然だが、このまま放置してしまうのも気が向かない。 「殺してしまえばいい」 不意にかかった声に、侯爵は驚きもせず溜め息を吐いた。 「また、勝手なことを仰って下さるものですね」 姿を見せぬ声の主に、侯爵は棘を含ませて続けた。 「人殺しは罪ですよ」 「表向きは、な」 「父上……それほどに魂を糧にしたいのならばご自分で、どうぞ。私は関与しませんので」 その言葉に、楽しそうな笑い声が返ってくる。 「今更、手を汚すことを厭うたところで何になる?」 「ええ、今更です。だからこそ、貴方の言に乗せられません」 侯爵の脳裏に陽光のような少女の微笑みが浮かんだ。 生を享けた時から闇に染まっていた自らを嘆く気はない。 少女を得るまでの空虚な時間をなかったことにしようとは思わない。 闇を知るからこそ、少女の裡にある光が貴いことを侯爵は理解していた。 「では、どうすると?」 「どうとでも」 答えながら、侯爵の姿は闇に沈んでいく。 「人の心の隙を突き、闇に引き込むのは父上の最も得手とするものでしょう?」 そして、楽しげな嘲笑の響きが静かに空気を震わした――。 |
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