鳥は歌い、樹は奏で(後編)









 彼女は息も絶え絶えになりながら、死神から視線を外すことができなかった。
 肩から袖へ、足元の裾へ、闇さえ秘めた深い蒼が淡い色へと変化し、袖や裾には明るい赤みを帯びた黄金の色。それはまるで静かに降りてくる夜の帳と太陽の最期の輝きを凝縮したような、黄昏の衣だった。
 ふわりと風に揺れると、まるで黄昏の空がそこに広がっているようだ。
 黄昏に身を包んだ華奢な体。不吉なまでに美しい、清純と妖艶を矛盾なく持ち合わせた白皙の容貌。何より、印象的なのは鮮やかな紫と清らかな翠の瞳。
 死神は美しい女の姿を取っていた。否、女自身が『死』そのものか。
 心が震えた。
 死に対する恐怖を通り越して、魅せられる。
 黄昏の美女は彼女の側まで歩いてくると、何かを確かめるように見下ろした。そして、不意に婉然と微笑む。
「一つだけ」
(……?)
「一つだけ貴女の願いを叶えましょう、この世界の理の許す限りで」
(何、を……)
 彼女の呼吸はすでに絶え絶えになりつつあった。声を発することはできなかった。
 それにも関わらず、黄昏の美女は彼女の言葉を聞き取ったかのように静かに笑った。
「貴女はあの子を助けようとしてくれたわ」
(あの子――?)
「それが為せたかどうかは無意味なこと。大切なのはその行動と想い。だから、私は此処にいるのですもの」
(貴女は、誰……?)
 くすりと美女は微笑む。そして、ゆっくりと膝を落とした。
「私のことを気にかける時間が貴女に許されていて?」
 美女が屈んだおかげで、少し楽な体勢で見上げた彼女は潤んだ瞳を細めた。
(私を、助けて、くれるの?)
「何を以って『助け』と言っているのかしら」
 黄昏の美女は小首を傾げた。
「貴女の死は覆せるものではないわ。それとも、貴女の願いは生きることなのかしら?」
 彼女は朦朧となる意識を繋ぎとめようと唇を噛み締めた。
(いいえ……。いいえ、違います。私の願いは、私の望みは――)
 脳裏に浮かぶ、面影。
 大切な、大切な人。
 ずっと側にいて、守ってくれていた。
 泣きたい時、黙って慰めてくれていていた。
 本当は自分だって泣きたかったはずなのに。
 両親を失った痛みは同じだったはずなのに。
(兄様)
 どんなに大切にしてくれていたか。
 それを知らない彼女ではなかった。だからこそ、今、死の間際になって憂えずにはいられない。
 彼女の死を兄がどう受け止めるか。
(きっと怒る)
 怒り哀しむだけならいい。だが、それだけでは終わらない。
(兄様のことだから、私をこんな風にした人たちに復讐する)
 幼い頃、彼女を苛めた少年たちと喧嘩したように。
 そんなことをしても無意味だと理解していても、きっと兄には自分を止めることができない。
(だから)
「だから?」
(私が止めるの。止めなきゃダメなの……)
 彼女は必死で声に出さず、言葉を――思いを伝えた。
(私のせいで兄様が罪を犯すようなことをしてほしくないの。それは嫌なの……!)
「彼には彼の想いがあるでしょうに」
 どこか労わるような響きで美女は呟いた。
「それでも、貴女は拒むのね。本当に、仕方のないこと」
 柔らかな苦笑を浮かべ、美女は異色の瞳を伏せた。
「当事者より他人が思い煩うなんて、人間はなんて愚かで、そして愛しいこと。これだから、私はあの子を止めることができず、今もまた貴女の想いを切り捨てることができないのね」
 そして、美女は婉然と彼女に微笑みかけた。
「いらっしゃい。貴女に、仮初の器を与えましょう」
 くすりと笑い、黄昏の美女は秘め事を打ち明けるように囁いた。
「貴女のためなら、と申し出た魂があるの。すでに、その魂は『生命の環』へと行ってしまったけれど、その身はいまだ命の名残がある。私の力を注ぎ、貴女の魂が宿れば、『存在』を許されることでしょう」
 美女の言葉を彼女は理解できなかった。
 それを察して、美女はくすくすと笑い出す。
「『貴女』が『貴女』であることを誰も認識できなければ、それは『貴女』ではないのよ。少なくとも、それができない人間にとっては此処で『貴女』は死んだことになる。ただ、それだけのこと」
 そして、黄昏の美女は両手を差し伸べた。
「さあ、行きましょう。貴女の願いは、貴方自身で叶えなければ真の意味で叶えたとは言い難い、とても難しいものなのだから」


 そして、彼女の魂は闇に抱かれた。








『兄様!』
 すべては一瞬の出来事だった。
 目の前で瑠璃色の小鳥が一人の少女へと転じ、泣きそうな表情で縋りついてくるのをリウエルは痛みを忘れて茫然と見つめた。



「フィーエ……?」



 その瞬間、少女は涙を零して頷いた。
 リウエルは震える指先を伸ばした。しかし、少女に触れることはできなかった。
「ッ!」
『……兄様、ごめんなさい』
 温もりも、その感触さえない頬を透明な雫が伝い落ちる。
「フィーエ」
 透けている体。
 記憶の中と変わらないのに、少女はすでに人間ではなかった。
『私のせいで、こんな……こんなことに!』
「それは違うでしょう。すべては彼自身の選択による結果だわ」
 びくりと肩を震わし、フィーエは振り返った。
『お願いです、兄様を助けて!』
 助けを求められた人物は小さな溜め息を吐いた。
「人間の愚かしさは愛しく思うこともあるけれど、やはり愚かであることに変わりはないわね」
『お願い、助けて……』
「それは無理だ」
 消え入るような懇願に答えたのは傍らにいる王だった。
「彼女は神でもなければ、万能ではない。無闇に『死』という理を覆すことは許されていない」
 言葉を失う少女を諭し、王は再び視線を上げた。
「だからこそ、私は問います。何故、貴女が関わろうとするのか――グナーデ」
 名を呼ばれた黄昏の美女は静かに微笑んだ。
「それは私が『慈悲』の名を冠するがゆえに。そして、血の繋がりがなくとも、貴方の母たるゆえに」
「グナーデ……?」
 王の疑問に答えたのは幻のような少女だった。はらはらと涙を零し、青ざめた兄の頬に手を伸ばし、労わるように撫でた。
『城からの帰り道、私は聞いてしまったんです。叔父様が陛下の御命を狙っていることを。その企みに私や兄を利用しようとしていることを』
 思いがけない言葉に、リウエルは言葉を失った。同時に、悟る。
 いつの間に暗示などかけられたのか、全く心当たりはなかった。だが、常に身近におり、心を許していた叔父なら――。
「その後のことは、すでに分かっているでしょう?」
 黄昏の美女の問いに、リウエルはかすかに頷いた。
 王を庇って射抜かれた瞬間に脳裏に流れ込んで来た光景。
 それは妹の最期だった。
「人の心は混沌そのもの。決して制御できるものではないわ」
 復讐を制しても、それを願う心は消えない。憎しみの根底にある、失われた命への愛がなくならない限り――。
「無理を強いれば、それは『歪み』になる。だから、私はすべてをあるがままに見守ることを選んだのよ。最後の瞬間に彼女の声を届ける手助けはしたけれど……」
 そして、フィーエの願いは叶った。
 リウエルは罪を犯すどころか、命を救い、妹との再会で哀しみから生じていた憎しみが消えていた。
 黄昏の美女は優しくリウエルに微笑みかけた。
「そして、貴方は彼女の想いに応えた。これは奇跡に等しいこと。だから」
 それは美しい笑顔だった。
 太陽のような眩しいものでもなければ、月のように儚いものでもない。鮮烈な、たった一瞬だけで脳裏に焼けつくような憧憬を齎す――黄昏の、笑み。
「私は貴方の願いを一つだけ叶えましょう。貴方の想い、その行いに感謝を込めて」
 その言葉に大きく反応したのはフィーエだった。
 哀しみに暗く沈んでいた表情が希望を見つけて、明るく輝きを取り戻す。
『では、兄様は助かるのですね!』
「それを彼が願うなら」
 そして、促すように黄昏の美女はリウエルを見つめた。
 リウエルは言葉を紡ごうと口を開くが、声の代わりに掠れた吐息が零れる。
 不意に、意識が途切れそうになった瞬間、心に直接響く悲鳴が届いた。
『兄様!』
 必死の呼びかけに、リウエルは意識を繋ぐ。だが、息苦しさと痛み、何より全身に及んでくる熱に声が押し潰され、応えることができない。
 すると、傍らでリウエルを支えていた王がおもむろに手を伸ばし、彼の額に触れた。
「ッ!?」
 突然、リウエルを苦しませていたものがすべて拭い取られる。
 驚愕して、大きく瞬くリウエルに王は曖昧な笑みを浮かべた。
「一時的に遮断しただけだ」
 傷を治した訳ではないと教えられ、リウエルは頷いた。そして、自分の答えを待つ黄昏の美女に視線を移した。
 長い金髪が木々の間を通り抜ける風の形を象っている。
 夜の闇に支配されつつある世界に美女が佇む姿はまるで神話の一場面のようだった。
「俺は」
 リウエルはゆっくりと一言一言を確かめるように告げた。
「俺は、何も、望まない」
『兄様!?』
 思いがけない言葉に、フィーエは鋭く兄を呼んだ。
 しかし、リウエルはそれを制して続けた。
「俺の願いはフィーエが、妹が幸せになることだった」
 ずっと、それだけを願って守ってきた。
 早くに両親を亡くした妹が哀れで、何を犠牲にしてでも幸せになって欲しかった。
「でも、それは、無理なんだろう?」
 リウエルの問いに、黄昏の美女はすぐに答えた。
「その『幸せ』が、『フィーエ』という『人間の少女』が『生きていること』を前提にしているなら、その通りと答えるしかないわね」
 今、目の前に存在する幻のような少女は厳密に言えば『フィーエ』ではない。
 かつて『フィーエ』という名で生きて死した人間の少女の成れ果て。
 記憶を持ち、同じ魂であっても、その在り方が違う。
「だから、いいんだ、もう」
 このまま死んでも構わない。
 そう告げるリウエルに、フィーエは言葉を失った。
「復讐も?」
 短い問いに、リウエルは笑った。
「殺してやりたいよ。でも」
「でも?」
「俺がするまでもない、だろ?」
 言葉の最後は傍らの王へ向けられていた。
 王は静かに頷いた。
「死より厳しい報いを、私が王たる責任によって」
「だから、いいんだ、それも」
 そして、リウエルは大きな溜め息を吐いた。
「……もう、独り残されるのは嫌なんだ」
 ぽつりと零れた呟きに、フィーエは息を呑む。
 黄昏の美女はふわりと柔らかく微笑んだ。


「叶えましょう、貴方の願いを――孤独からの解放を」


 そう宣言すると同時に、黄昏の美女は右手を軽く上げた。
 不意に、白く細い手に黄金の炎が生じる。
 そして、炎はまるで生きているかのように宙を滑り走り、リウエルを飲み込んだ。
「ッ!?」
『兄様!?』
 驚くフィーエの見つめる前で、リウエルの姿が炎に溶けていく。思わず、手を伸ばして、フィーエは硬直した。
 黄金の炎に溶かされたリウエルの体がまるで砂のように崩れ、一掴みの灰の山になる。
『そ、んな……ッ!』
 現実を認めまいとフィーエは小さく首を振った。
 その瞬間だった。
 黄金の炎が集束し、一点に凝る。そして、灰の山に沈んだ。
『!?』
 それは急激な変化だった。
 灰の山から、芽吹き、瞬く間に成長した若木が現れる。
『…………兄様?』
 茫然としたフィーエの呟きを耳に留め、黄昏の美女はくすりと笑った。
「共に在るといいわ、その命が尽きるまで」
 不意に、フィーエの姿が瑠璃色の小鳥へと転じる。そして、小鳥は一声細く鳴いて、飛び立った。
「随分と思い切ったことをしますね」
 瑠璃色の小鳥が闇に消えるのを見送り、王は小さな溜め息を吐いた。それと同時に、くすくすと軽やかな笑い声が生じる。
「姿が変わろうと、この世界における存在値が変わらないのなら、どうとでもできるもの」
 リウエルの命は尽きかけていたが、完全に尽きた訳ではなかった。それゆえに、黄昏の美女は在り方の変化を施すことで彼の命を救ったのだ。
 植物は逞しい。
 人間には致命傷に等しい傷や毒も、彼らの命を緩やかに奪いこそすれ、瞬く間に消えることはない。
 リウエルの受けた傷は若木に消えることのない傷として残っていた。
 瑠璃色の小鳥も、その魂はすでに失われているが命は在り、少女の魂が代わりに在る。
 一つの生命は命と魂で構成される。
 命は身に、魂は心に。
 例外は彼女のような世界の根源に関わりを持つ一族だけだ。
「そういうことを言っているんじゃありません」
 王は不機嫌そうに眉をひそめた。
「一晩のうちに、庭に見慣れぬ木が現れたら困ると言っているんです」
 王の住まう城はすべて庭木に至るまで管理されている。特に手をつけないにしても、突然何の前触れもなく成長した木が一本現れたら実際困惑どころか愕然となるだろう。
 しかし、黄昏の美女はくすりと笑って答えた。
「あら」
 異色の瞳が楽しげな光に輝いている。
「この程度のこと、貴方の為したことに比べれば大したことではないしょう」
 そして、黄昏の美女は婉然と微笑みかけた。



「ねえ、聖王陛下?」



 翌日、神の血を継ぐ聖王が為した奇跡が一つ追加された。











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コメント
  テーマは『切ない兄弟(姉妹)愛』。
  ……切ないでしょうか?
  何か非常に間違った方向で書いてしまったような気がします。

  色々とご迷惑をおかけしますが、これからも宜しくお願いします。
  大変恐縮ですが、どうぞお納め下さい。<返品受け付けマス





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