目の前に差し出された皿の上には焼き立てのクッキー。 ふんわりと漂うシナモンの匂いは甘く、香ばしい。 焦げた後もなく、星の形も綺麗に整っていて、見るからに大成功の一品。 しかし、それをキラは渋い顔で凝視していた。 ちらりと視線を上げた先にはちょうどテーブルを挟んで正面に期待に満ちた眼差しを向ける金髪の少女の顔があった。 「カガリ……」 「遠慮しなくていいぞ、さあ食べろ」 カガリはにこりと無邪気に笑って勧めた。 だが、キラは更に渋い顔をして、クッキーを睨みつけた。 最近、女の子らしいことに目覚めたカガリはお菓子作りに凝っている。 その理由をなんとなく察していたキラは最初微笑ましく思っていたのだ――その試食の相手に選ばれるまでは。 初めて、差し出されたものは焼き加減を間違えたらしく、ほとんど原型を残していないものだった。 それに比べれば、今、キラの前にあるクッキーはまるで奇跡のように大成功だ。 しかし、キラは素直に食べようとしなかった。 さすがに、カガリもキラの躊躇いを気づいて、不快げに眉根を寄せた。 「大丈夫だって。今度は、ほら、綺麗にできるだろ?」 「……」 しかし、キラは尚も疑惑を抱いて、クッキーに手を出そうとしない。 微妙な緊張感が漂う始めた、その時だった。 <ハロハロ〜!> 愛嬌のある機械音声と共に、ピンク色の丸い物体がテーブルの上にポンと乗った。 「あ」 キラとカガリの声が重なる。 「まあ、ピンクちゃんたらいけませんわ」 そして、続いて届いた柔らかな声に、二人は視線を向けた。 ハロを追いかけてきたのだろう。 薄紅の髪をふわりとたなびかせて現れたのはラクスだった。 <ラクス〜> ハロはパタリと耳を動かして、軽やかに白い手の元に戻った。 ラクスは手元に戻ってきたハロに微笑みかけ、そして、じっと見ている二人ににこりと笑いかけた。 「こんにちは、キラ、カガリさん」 その優しい声に、二人は我に返った。 「ラクス……」 「はい?」 その柔らかな微笑みに、キラは思わず微笑みを浮かべていた。 キラの気が緩んだ瞬間、カガリはテーブルの上にあった皿を手に取った。 「ラクス、ラクス! これ、食べてみてくれ!」 「あら、美味しそうですわね。カガリさんがお作りになられたのですか?」 「そうなんだ」 その瞬間、キラは我に返った。 「ラクス、待」 って。 しかし、キラの制止はわずかに遅かった。 すでにラクスはカガリ手製のクッキーを口にしていた。 次の瞬間、ラクスは微笑みを浮かべたまま、昏倒した。 「ラクス!」 咄嗟に腕を伸ばし、頭から倒れるラクスの体をキラは抱き留めた。 腕にかかる重みはラクスの意識が完全にないことを示していた。 「……あれ?」 「あれ、じゃない」 キラは鋭い眼差しでカガリを睨みつけた。 紫色の瞳が深みを増している。 「え、あ、キ、キラ……?」 普段、穏やかなキラが怒ると誰よりも怖いことを知っているカガリは無意識のうちに後ずさっていた。 その様子を見つめ、キラは薄く微笑む。 「カガリ、これのどこが大成功だって?」 元々、キラは寛容な性質をしている。他人に傷つけられるより、傷つけることを重きに考え、多少のことでは怒ったりしない。 そう、たとえ、双子の少女の処女作のせいで一晩生死の境を彷徨うことになっても。 必死で謝るカガリに対して、キラは弱々しい微笑みを浮かべて励ましさえした。 しかし、その失敗が二度三度続き、ついにキラが最も大切にしたいと願うラクスにまで被害が及んだことで、さすがのキラも限界に達した。 一見、穏やかな微笑みを浮かべて、キラは更にカガリを追及した。 「うん、確かに形は綺麗だよね。で、肝心の味は? ちゃんと自分で食べてみた?」 カガリは息を呑んで、硬直した。次いで、額に汗が滲み出す。 ここで、していないと言ったら、どうなるか。 とてもではないが、想像できない。 答えに窮するカガリに、救いの手は現れた。 「三人とも、こんなところで何をしているんだ。そろそろ、会議が始まるぞ?」 その瞬間、カガリの顔が文字通り輝いた。 「アスラン!!」 思いがけない反応に、アスランは碧の瞳を瞬かせた。 「何だ……?」 「いや、何でもないぞ。会議だったな!」 「カガリ」 不意に届いた呼びかけに、カガリの笑みが凍る。 そして、恐る恐るキラの方に視線を向けた。 凄味のある眼差しに、カガリは言葉を失う。 「キラ?」 キラの剣呑な様子とその腕に抱かれているラクスに気づいて、アスランは訝しげに碧色の双眸を細めた。 「……ラクス、どうかしたのか?」 何やら怒ってはいるが、それほど動揺していないキラに、アスランは冷静に尋ねた。 本当にラクスの身が危ない時はキラは怒るよりまずその身を心配する。 微笑を浮かべたまま答えようとしないキラを見て、アスランはその視線を隣のカガリに移した。 おろおろと懸命に考えている少女に、アスランはなんとなく事態を察した。 ラクスの身に何かが起こったのは確実で、その発端はカガリであることも確実だろう。それで、キラが静かに憤っているのだ。 アスランは軽く息を吐くと、とりあえずこの場を収めることにした。 「キラ」 「……何、アスラン?」 「俺とカガリは会議に行くから」 キラは無言でアスランをじっと見つめた。 「後は任せていいか?」 (そろそろ、許してやってくれ) 苦笑交じりのアスランの言葉に、長年の付き合いがある幼馴染みの少年は静かに息を吐いた。 「――いいよ」 (仕方ないな……) お互い、言外で会話を済ませると、二人はおもむろに頷き合う。 小さく微笑み、アスランはまだうろたえているカガリに声をかけた。 「行くぞ、カガリ」 「え、行くって……で、でも」 怒れるキラから逃げられるのは幸いだが、カガリは倒れたラクスのことを気にして視線をアスランとラクスに交互に移す。 「ラクスのことならキラがいる」 はっきりとした断言に、カガリは琥珀の瞳を瞠った。 そして、ゆっくりと窺うようにキラをちらりと見やる。 その反応に、キラはかすかに笑った。 「ラクスの欠席、上手く誤魔化しておいてよ」 ようやく、いつもの穏やかな雰囲気を感じて、カガリは表情を緩めた。 「キラ、ごめん」 「謝る相手が違うよ。後で、ちゃんとラクスに謝ること!」 「ああ、分かってる」 真剣な顔で、カガリはこくこくと頷いた。 そして、足早に会議に向かう二人を見送り、キラはおもむろにラクスを見下ろして溜め息を吐く。 とりあえず、どこかに寝かせようと横抱きにして立ち上がった瞬間だった。 「ん……」 「!」 慌てて視線を落とすと、ぼんやりと瞬いている蒼の瞳がキラを見上げていた。 「ラクス!」 キラは慌てて屈み込み、安定した体勢に戻した。 「大丈夫? どこか、変なところない? 頭痛とか、眩暈とか」 ラクスはぼんやりとキラを見つめ、こくりと頷いた。 「えぇ……大丈夫です」 「そう?」 ラクスは頷きながら、自分の足で立とうとする。 それを察して、キラはラクスの手を取った。 重なった手をラクスはまじまじと見て、緩々と顔を上げた。 「あの」 「うん?」 ラクスは躊躇いがちに口を開いた。 「申し訳ありませんが、貴方はどなたですか?」 「…………え?」 「それから、ラクス、というのはわたくしの名で宜しいのでしょうか」 キラはラクスの顔を凝視した。 時折、突拍子もないことをしでかすラクスだ。 ちょっとした悪戯心でキラを慌てさせたことはカガリの比ではない。 しかし、蒼色の瞳はいつになく不安定に揺らめいており、ラクスの心を明らかにしていた。 動揺をはっきり見せないのはラクス自身が生来持っている気丈さゆえだろうか。 思わず、キラは肩を落として大きな溜め息を吐いた。 カガリ手製のクッキーを侮っていた。 (本当に何をどうやって作ったんだか……) 記憶障害を引き起こすお菓子なんて、作ろうと思って作れるものではない。 「あの……」 キラの反応に、ラクスは怯みながらも声をかけた。 「あぁ、平気。うん、大丈夫」 にこりと笑いかけ、キラは気を取り直す。 「えーと、何だっけ? まず、僕のことだったよね。僕はキラ。キラ・ヤマト」 「……キラさま?」 出会った時を彷彿させる呼称に、キラは小さく笑む。 「それから、君はラクス。ラクス・クライン、それが君の名前」 「ラクス・クライン――」 ラクスは瞳を伏せて、何度か馴染ませるように自らの名を呟いた。 「それで、ラクス?」 「はい?」 「他のことは覚えてる?」 優しく問い掛けられ、ラクスは素直に答えた。 「あ、いいえ……ごめんなさい」 キラはくすりと笑った。 「どうして、謝るの? 大丈夫、たぶん一時的なものだから」 「そう、なのですか?」 「きっとね」 根拠のない断言をするキラをきょとんとして見つめ、ラクスは不意に笑みを零した。 「……そうかもしれませんわね」 ようやく笑ったラクスに内心安堵の息を吐きながら、キラは思案する。 これから、どうするか。 このまま部屋にいてもいいが、本来会議に出席しているはずのラクスが見つかっては、それなりにまずいだろう。 かと言って、会議に出すなんて問題外。 「キラさま?」 考え込むキラに気づいて、ラクスは小首を傾げた。 「ラクス……体の方は大丈夫?」 唐突に訊かれ、ラクスは蒼の瞳を瞬いた。 「え、えぇ、大丈夫ですけど……」 そして、キラはにっこりと微笑んだ。 「じゃあ、散歩に行こっか」 |
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