満ちる月    欠ける月









 人気の少ない森の中に、その神社はひっそりと佇んでいた。
 神主も絶えなく、信心深い村の老人によって、辛うじて寂れることを免れている。
 満月が静かに輝く夜だった。
 夜の静寂を破るように、一人の幼い娘が必死な顔つきで石段を駆け上がってくる。そして、賽銭箱に縋るような形で座り込んだ。
 肩で息をしながら、娘は祈った。
「お願いです、神様。お父さんを助けて。助けて下さい」
 母を早くに亡くした娘にとって、父を失えば、娘は妹と二人になってしまう。
「助けて下さい」
 不意に母の死に際が娘の脳裏に浮かび、涙が零れた。
「お願い……お願いです」
 重い病気にかかった父を村の医者は助からないと告げた。
 けれど、諦められない。
「お父さんを、助けて……」
 堪えきれない嗚咽が喉を突いてくる。
「おねっ……がい、です……」
 唇を噛み締め、娘は瞳を閉じた。
 さわりと夜風が吹いて、娘の乱れた髪をそよがした。
 不意に娘の眦に溜まった涙を拭い取る指があった。
「!」
 娘は驚いて眼を開け、その指の主を見つめた。
 明るい月光を弾く長い髪は金、否、銀であろうか。娘を映す瞳は金と銀の二色。
 美しい女だった。玲瓏とした白い容貌。だが、冷たい印象はなく、どこか懐かしさを掻き立てる柔らかな雰囲気が持っていた。
 女は不思議な、娘が見たこともない綺麗な衣を纏っていた。
「……天女様……?」
 思わず零れた娘の言葉に、女はくすりと微笑んだ。その拍子に、しゃらりと女の髪を飾る簪が儚い音を立てる。
「我は月姫じゃ」
「つきひめ……?」
「そなたは我を呼んだのであろう?」
 その言葉に娘は息を呑んだ。
「あなたが、神様――?」
 女は応えなかった。ただ、微笑んだまま娘を見つめた。
「……父を救いたいか?」
 娘は即座に頷いた。
「お願いです、お父さんを、お父さんを助けて下さい」
「では、そなたは我に何を捧げる?」
「え?」
 娘は茫然と女を見つめた。
「捧げる……?」
「何も与えず、望みだけを叶えてもらうつもりであったか?」
 くすくすと女は笑った。
 娘は猛然とかぶりを振り、必死になって考えた。
 神様に捧げられるもの。
 娘が持っているもの。
 何かないかと思いを巡らせ、娘は父が元気だった頃に見た神事を思い出す。
 村長が一時的な神主となり、色々な食べ物や反物を捧げていた。
 けれど、娘がそれと同じようなものを持っているはずがない。
 着古した着物と、日々を暮らしていくわずかな食べ物しかない。それを差し出しては来る冬を越せない。
 そして、娘はふと思い出す。
 神事の際、神社の主に捧げられた、もう一つのもの。
 それは物ではなかった。
「舞を」
 咄嗟に娘は口走っていた。
「私の舞を捧げます」
 女の顔に小さな驚きが走る。
「そなたの、舞?」
 娘はびくりと震え、女を見上げた。
 神事の時は美しく着飾った巫女がどこからか来て、踊っていた。しかし、娘は薄汚れた着物しか纏っておらず、まともに踊れるか分からない。
 それは許されないことだったのだろうか。
 そう娘が怯えた瞬間だった。
「……良かろうよ。我が前で舞って見せよ。我が満足すれば、父の命、救ってやろう」
 女の言葉に娘は大きく頷いた。
 そして、娘は舞った。
 やせ細った腕を伸ばし、脳裏に神事で見た舞を思い出しながら、その動きを辿る。
 上手に舞わねば、父が死んでしまう。
(お父さん)
 穏やかに微笑む父の顔が一瞬思い出された。
(お願い、死なないで)
 一心に舞を踊る娘を見つめる女の口元がわずかに緩んだ。そして、ゆっくりと両手を上げた。
 娘は耳に飛び込んできた、乾いた音に思わず舞を止めた。
 乾いた音の正体は女が両手を叩いた音だった。
 恐る恐る娘は女を見つめた。
「あの……」
「もう良い」
 女の一言に、娘は泣き出しそうになった。
 娘は自分が失敗したのだと思った。しかし、女は婉然と微笑んで告げた。
「そなたが舞、見事であった。礼として、そなたの願いを引き受けよう」
「!」
 一瞬にして、娘の顔が歓喜に染まる。
 その様子を優しく見つめ、女は告げた。
「帰るが良い。そなたの帰途と同時に父は目覚めよう」
 娘は泣きながら、頷いた。
「ありが、とう、ございます……ッ」
 何度も礼を言い、娘は逸る心のままに神社を走り去る。
 その後ろ姿が消えた頃。
「何をお考えですか、月姫様」
 幼さの残る少女の声が女を問い質した。
 神社の脇に据えられた右の兎の石像から、その声が響いていた。
「いささか、戯れが過ぎませぬか?」
 怒ったような声音は左の兎の石像から届いた。
左兎さと右兎うと

 女の呼びかけに応え、兎の石像の輪郭が二重になる。そして、一つの影が静かに浮き上がり、形を取った。
 左右の兎の石像の前に、十歳前後の少年と少女が立っていた。
 純白の髪に、赤い瞳。何より風変わりなのは髪の間から覗いている長く白い耳だった。
「人の生死をあのように容易く変えるなど」
「いくら月姫様といえど、上の方々に知れれば大事になりましょう」
 二人の言葉に、女はくすりと笑った。
「知れれば、であろう? ましてや、生死は我が範疇。如何様にもなろうもの」
 女は月を司る存在だった。『月姫』というの名は『月を司る女』を意味している。女自身の真の名は別にあった。
 月は満ちては欠け、欠けては満ちるもの。その繰り返しは『生』と『死』に繋がる。
 それゆえに、女は生死に介入する力を持っていた。もちろん、介入できない場合も多々あるが。
 娘は運が良かったのだ。
 女が社にいたことも、今宵が満月であったことも。
「月姫様」
 女はくすりと笑った。
「そなたらの眼は雲っておるのか? あの娘の舞の見事さが分からなんだか」
 二人は同時に不満そうな表情になる。
 それを見て、女は涼やかに笑い出した。
 純白の髪に赤い瞳。そして、長く白い耳の持つ幼い二人は月兎であり、女の側近であった。左兎、右兎という名は女の側近に冠せられる名である。
「舞の技量は確かに拙く、未熟じゃ。だが、舞によって祈りという形にまで高められた父への想いの純粋さは見事であった。その類い稀なる心に応えねばなるまい」
 その言葉に少女は憂いげに眉をひそめた。
「しかし、月姫様。あの娘が今宵のことを触れ回っては少々困るのではありませんか?」
「右兎の申すとおり。それとも、月姫様、天にお戻りになられる気で?」
 少年の言葉に女は小さな溜め息を吐いた。
 複雑な事情を持っている女の行く末を父である天の帝は案じ、縁談を持ち込んできたのである。それを拒んで、女は地上に身を隠していた。
「左兎、そのような戯言は止めよ。我にその気はない」
「では、もう少々慎んで頂きたい」
 遠慮のない左兎の言葉に、女は苦笑する。
「左兎は月姫様のことを心配しているのです」
 女は憂いげな少女に優しく笑いかけた。
「分かっておる」
 ゆっくりと天に浮かぶ月を眺め、女は金と銀の双眸を細めた。
「案じるな。あの娘なら大丈夫であろう」







 ある日の夕方、娘は再び神社に現れた。
「……月姫様……」
 辺りを見回し、心細そうな面持ちで娘はもう一度呼びかけた。
「月姫様、いらっしゃらないのですか……?」
 社の闇の中、娘の呼びかけに女は浅い眠りから目覚めた。だが、社の中から出ようとはしない。
 傾いたとはいえ、いまだ空には日輪が昇っているのだ。
 無反応なことにどこか怯えた様子で、娘は両手を合わせた。
「この前は、ありがとうございました。父は助かりました。本当に、ありがとうございました」
 娘がわざわざ礼を言いに来たことを悟ると、女は社の内で微笑んだ。
 人に感謝されるために存在しているのではないが、やはり純粋な感謝されると言うのは悪い気分ではない。
 右兎や左兎を渋い顔をさせても、娘の願いを叶えたことは間違っていなかった。
 そして、女は再び瞳を閉じる。
 夜の闇が訪れるまで、今しばらくの時が必要だった。
 その瞬間だった。
「……ッ!」
 風に紛れて短い悲鳴が届く。
 意識をまどろみの闇に投じようとしていた女は何事かと瞳を開けた。
 いつの間にか娘の側に数人の男たちが立ち、その細い腕を掴んでいた。
 女は金と銀の瞳をすがめ、不審の眼差しを注いだ。しかし、外に出ようとはしない。
「止めて下さい! 離して……!」
 抗う娘を男の一人が押さえつけ、後方に呼びかけた。
「旦那! 娘がいました!!」
 その言葉に娘は息を呑み、青ざめる。
 やがて、石段を登って、他の者より上等な衣を纏っている初老の男が現れた。
「……どこに行ったかと思ったら、こんなところにいたのか」
 ちらりと舐めるような視線を娘に向け、初老の男は寂れた社を眺めた。
 不快な視線だった。
 あまり綺麗とは言い難い社であることは女も承知している。それゆえに、身を隠す場所として選んだのだ。
 だが、仮にも、この社は女を祀る社だ。それを蔑まれて気分がいいはずがない。
「のう、いい加減素直に、この爺に教えてくれぬか?」
 娘に顎を捉え、初老の男は問い質した。
「どうやって、父親を蘇らせた?」
 口元を引き締め、娘は無言を守る。
 その様子に、初老の男は微笑を浮かべた。
「儂は知っているのだぞ。お前の父は確かに息を止めた。死んだのだ。なのに、再び息を吹き返した」
「……父は奇跡的に息を吹き返しただけです」
 娘の絞り出すような答えに、初老の男は笑った。
「嘘はいかん。お前の父は病を患っていたというではないか。医者も手に負えんと言った不治の病を」
 初老の男は笑みを消し、双眸に鋭い光を宿した。
「それが治っているという。何をしたのだ?」
 娘は沈黙し、瞳を閉じる。華奢な肩が恐怖に震えていた。だが、決して話すまいと決心していることは伝わった。
「強情な娘だ」
 吐き捨てるように呟くと、初老の男は顎をしゃくった。
 それを合図に男たちは一人の男と幼い少女を引き出し、娘の前に突き出した。
「お父さん! りつ!」
 娘は顔色を変えて、駆け寄ろうとするが両腕を抑えられた状況では叶うはずがない。
「お姉ちゃん!」
 突然見知らぬ男たちに捕まり、不安で震えていた娘の妹は姉の姿を見つけ、安堵の笑みを浮かべた。
「ちえ……」
 悲愴を漂わせ、父親が娘を見つめた。
「さあ、父親と妹を助けて欲しければ言うのだ」
 初めて娘の顔に躊躇が生まれた。
 無理もない。大切な家族の命を質に取られているのだから。
 女は気だるそうに溜め息を吐いた。
 娘が自分のことを話すのも時間の問題だろう。
 致し方ない。己の行動が招いたことだ。
「――――知りません」
 細い震える声で娘が紡いだ言葉に驚いたのは女だった。
「私は何も知りません! お願いだから、お父さんとりつを離して下さい!」
 娘の必死の訴えを初老の男が信じるはずがなかった。
「やれ」
 低い一言に娘は何かを叫ぼうとした。
 しかし、叫びは音にならなかった。
 父親を捕えていた男が突然、突き放すと同時に、よろめいた背に向けて刃を振り下ろした。
 赤い飛沫が飛び散り、娘の顔を汚した。
「お父さんッ!!」
 同時に妹が激しく泣き出す。
 一言も残さず、事切れた父親の亡骸を前に、娘の足から力が抜けた。
「さぁ、また死んでしまったぞ。もう一度蘇らせたらどうだ?」
 初老の男の言葉に、青ざめた顔のまま娘はきつい眼差しを向けた。
「……」
 答えようとしない娘に、初老の男はわざとらしい溜め息を吐いた。
「父親だけでは蘇らせる気にならんか? ならば」
 初老の男の視線が泣き叫ぶ妹に向いた瞬間、娘は叫んでいた。
「止めて!!」
 激しく震え、怯えながら娘は答えた。
「言います! 教えますから、りつに何もしないで!!」
「もちろんだとも。儂は鬼ではない」
 薄く微笑む初老の男に、娘は唇を噛み締めた。
 鬼の方がまだ良かろう。
 社の中で女はそう独白した。
 彼らの凶悪な姿は咎人を恐れさせるためのものだ。決して、心根が歪み、醜い訳ではない。
「さあ、どうやって蘇らせた?」
「舞を……。舞を月姫様に奉じたのです」
「――月姫?」
 しばし、考え、初老の男はこの神社の祭神を思い出した。
「ふむ……?」
 そして、初老の男は娘に告げた。
「ちえ、今から舞を舞え」
「……わ、私が?」
 初老の男はゆっくりと頷いた。
「そうだ。この社に舞を奉じたことは今までにもあったこと。なのに、お前の時だけ蘇りがあったというのは不思議ではないか」
 娘は自分の言葉が疑われていることを悟った。
「お前の舞で、再び父を蘇らせてみるがいい」
「そんな!」
「できないと言わせぬぞ」
 その瞬間、泣き続けていた妹の声が止まった。
「りつ!」
 妹の喉下に刃が当てられていた。
「お、お姉ちゃん……」
 娘は男の言葉に従うしかなかった。
 やがて、娘はぎこちない動きで舞い始める。
 神事の巫女の舞を、月夜に捧げた舞を、脳裏に描き、想いを込めてゆっくりと腕を上げて揺らした。
 風が冷たくなり、闇が密やかに忍び寄ってくる。
「もう、良い!」
 不意に、届いた苛立たしげな声に娘は舞を止めた。
「いい加減にしろ! そのような空言で儂を騙せると思ったか! いつまで待っても何の兆しもないではないか」
 刺々しい言葉に、娘は息を止めた。
「時間を稼ぐつもりか?」
 娘は言葉なく、必死でかぶりを振った。
「お前たちを助ける者などいないぞ。村長には今年の冬を乗り切るために援助をするという約定がある。その恩恵は村にもある」
 ここで何が起ころうとも誰も助けるどころか知らぬ振りをすると告げられ、娘は蒼白になった。
「さぁ、本当のことを言え!」
「本当です! 本当に舞を捧げたら、月姫様が助けて下さったんです」
「まだ偽りを言うか!」
 その瞬間だった。
 風を斬るような音に続いて、ごとりと重い音がした。
 石畳に広がる赤。
 目の前に転がってきたものを見つめ、娘は愕然となり、座り込む。
「あ……あ、あ?」
 虚ろな双眸に、娘は喘いだ。
「り、つ……? りつ?」
 怯えながら呼びかけ、唐突に娘は声を失った。
 地の果てに日輪が沈んだ瞬間。


「いやああああああああああああ――――ッッ」


 気が触れたか思うほどの激しさで絶叫を迸らせた娘の双眸に白い手が落ちる。
「……許せ」
 そっと囁いたのはいつの間にか娘の背後に現れた女だった。
「責めなら受けようぞ。そなたの痛み、我が報いじゃ」
 その瞬間、娘の意識が途切れ、力を失った体が女の腕に預けられる。
「な、何者だ!?」
 誰何の声に、女は鋭い一瞥を与えた。
「左兎、右兎」
「はい」
「ここに」
 突然、届いた幼い二つの声に、男たちは慌てて振り向いた。
 左右に配された兎の石像の前に異形の少年と少女が立っていた。
「娘を」
 男たちを擦り抜け、二人は女から娘を引き取った。
 側近に娘を預けた女はゆっくりと立ち上がった。
 しゃらりと髪飾りの音が鳴る。
「ようも、我が社で好き勝手してくれたものじゃ」
 その言葉に、初老の男は我に返った。
「お、お前が月姫? いや、月姫であらせられるか?」
 倣岸に顎を引き、女は初老の男を見据えた。
「いかにも」
「おお!」
 歓喜に震え、初老の男は跪いた。
「麗しき月影の神女よ、どうか我が願いを聞き届けて下され」
「そなたの願い?」
 吐き捨てるような声音に気づかず、初老の男は続けた。
「そうです。どうか、この身にも貴方様の御力を賜りたいのです」
 女は喉の奥で笑った。
 夜風が徐々に荒々しさを帯びてくる。
「月姫様……」
 右兎の怯える声に女は反応しなかった。
「左兎、月姫様を」
 同胞の少女の言葉を制し、少年は無言で頷く。
「右兎は娘を」
 少女が娘の体を守るように抱き締め、しっかりと頷くのを見てから、少年の姿は掻き消えた。







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