白夜の誓約
静寂の闇。
空も大地も闇に包まれ、溶けて、ただ、闇だけがあった。
ぱしゃん……
小さな水音と共に光が現れる。
波紋がその輝きを穏やかに広げ、闇を静かに追いやった。
光は頭まで外套を目深に被った男の人影へと転じる。
わずかに零れた髪は光り輝く白金。
長身の大きな体躯。
その腕には大きな繭のようなものが抱かれていた。
男はゆっくりと顔を上げた。
「慈悲の司姫……」
低い、静かな呼びかけに闇に星明りのような無数の灯火が生まれた。
闇の色が薄くなり、濃紺から蒼へ、蒼からヘ淡い紫色へ、そしてほのかに温かみと寂しさを感じさせる白夜へと変わった。
光と闇が混在した空間。
昼でも夜でもない狭間。
男の目の前に水面に根を下ろした巨大な大樹があった。
大きくうねり、盛り上がった根元だけで視界は一杯になる。
空を覆わんばかりに伸びる無数の枝。
風に揺れるのではなく、自ら揺れて風を生み出す漆黒の葉。
咲き誇る無数の純白の花弁の花。
捻れた幹は大樹が幾多の木が集合したものであることを示していた。
螺旋を描く大樹。
光と闇を内包する存在。
巨大な大樹は見上げても、その頂きを視界に捕えることはできない。
どこまでも広がる枝と葉に空は覆われ、深く沈み広がる根に大地は支えられている。
その根元の一部に男は視線を据えた。
細い枝と漆黒の葉の褥に身を横たえた美しい女。
枝に絡み、広がった長い髪は純金の糸。
華奢な肢体を包むのは昼と夜の狭間の空色の衣装。
双眸を閉じた白皙の美貌は雪のように冷ややかな印象を与えていた。
だが、女に抱く印象は光ではなく、闇。
その身が放つ濃い闇の気配は女の金と白の美貌を更に際立たせていた。
「慈悲の司姫」
男の二度目の呼びかけに応えるかのように、女の長い睫がかすかに震えた。
はらり、と純白の花が落ちる。
純白の花はその美しい姿のまま、潔ささえ感じさせながら女の許へと落ちる。
はらり、はらりと――。
花の一つが形の良い女の紅唇に触れた瞬間。
女は目覚めた。
さらさらと純金の髪の上で純白の花を滑らせ、身を起こした女はゆっくりと首を巡らした。
「私を呼んで?」
男を見つめる双眸は鮮やかな紫と清らかな翠の異色の瞳。
その美貌に浮かぶ微笑は清純であると同時に妖艶でもあった。
その美しさは不吉。
決して目に留めてはならない破滅の美しさ。
決して望んではならない毒の美しさ。
だが、男は動じた様子もなく、低く告げた。
「君に任せる」
端的な言葉に女は双眸を細めた。
「……何故、私に?」
重さを感じさせない仕草で女は根元から立ち上がり、飛び降りる。
ぱしゃん……
女の爪先から波紋が広がっていく。
「貴方の同胞でも充分でしょう?」
男は静かに答えた。
「光ではない」
「闇でもないわ」
「光がある」
「闇もあるわ」
女は婉然と笑った。
「源は二つ」
男は冷淡に告げた。
「私は還る」
女はかすかに双眸を見開くと、ゆっくりと男を眺めた。
「……そのようね」
女が肯定すると、男は続けた。
「彼女はすでに『生命の環』に」
女は細い腕を組み、無言で続きを促した。
「我が同胞は同胞と認めまい。さりとて、庇護なき存在を容認できるほど『世界』は優しくない」
「だから?」
「我が一族で最も古く強き存在と名を連ねる君に、慈悲の名を有する君に後を託す」
『世界』の根源種族。
固有の名ではなく、根源の名によって存在を確立し、『世界』の支柱を守る者。
女はかすかに柳眉をひそめた。
だが、男は構わず、言葉を続けた。
「君に託すことが最も適当であると私は判断した」
女はゆっくりと視線を男の腕にあるものへと移した。
「たとえ、『螺旋の環』に還ろうと貴方が貴方であることに変わりはないのではなくて? 責任は自分で取るべきでしょう?」
男はまっすぐな眼差しで女を見据えた。
「私は血を分けた存在として愛しく思う。だが、蘇りを果たした私は義務と責任のみで対するであろう。……それは耐えられない」
そして、男は視線を落として、腕の中のものを優しく見つめた。
「我が同胞も同じこと。だが、君は違う」
男は再び視線を女へと戻した。
「君は我が同胞と属性が違うゆえ、義務も責任も及ばない」
闇に属する女。
闇の性質を持つ者は個人意識が強い。
自らの心のみ忠実であり、その心のままに動く。
「加えて、慈悲の司姫たる君ならば愛情を注ぐと確信している」
不意に、女は軽やかに笑い出す。
「結構なことだわ! 光に属する貴方が決議にもかけず、物事を決断し、実行するなんて、とても興味深いこと」
光に属する男。
光の性質を持つ者は共同意識が強い。
同胞との団結を旨とし、決議の許に動く。
「確かに、確かに貴方の言うとおりだわ。私は私の心のままに動く。誰にも左右されない」
男はかすかに微笑んだ。
「知っている。私と君は違う。だから、だ」
その瞬間、男の姿が端から塵と化していく。
男はそれでも腕の中のものを大切そうに抱えていた。
「慈悲の司姫よ、我が願いを聞き届け給え」
そして。
男の姿は『世界』から失われた。
残された女は無言で、歩を進めた。
水面を滑るような足取りは細い軌跡を描き出した。
水面に浮かぶ、男が残した大きな繭に女は手を伸ばした。
細く白い指先が撫でるように繭に触れた瞬間、繭は静かに解けて、産着に包まれた嬰児が姿を現した。
嬰児は、たった今、独りになったことを知らぬまま、健やかな寝息を立てていた。
「……可愛いこと」
ぽつりと呟いた瞬間、女は表情を厳しくして嬰児をその腕に抱いた。
一陣の風が吹いた。
乱れた純金の髪がゆっくりと落ち着いた頃、女の前には三人の人物が立っていた。
白髪に盲目の老人。
銀髪に碧眼の少女。
隻眼に猫背の男。
突如、現れた三人を女は見据え、そして、優雅な微笑みを浮かべた。
「こんにちは、そして、さようなら」
相反する挨拶に、眉をひそめたのは少女だった。
「我らが用向きは、まだ、済んでおらぬ」
老人の言葉に女は軽く肩を竦めた。
「始めるまでもなくてよ。最初から結論は出ているのですもの」
険しさを漂わせながら、少女が言った。
「我が同胞の血族を、あたしたちが育てるという決定が出ているの」
女は笑った。
「無意味な決定だこと」
美しい微笑みを湛えながら、女は楽しそうに告げた。
「彼は私に託したのよ。人間で言うところの、父親から養育を委ねられたということね。貴方たちではなく私に委ねたのよ。だから、その決定に従う必要はなくてよ」
その瞬間、少女は地団太を踏んで喚いた。
「なんてことなんてこと! 決議を待たず結論を逸るとは、我が同胞にあるまじきことだわ」
にっこりと女は笑った。
「私は楽しくてよ」
少女は厳しい女を睨みつけて一歩前に進み出た。
しかし、それを隻眼の男が制する。
その様子を女はくすくす……と笑いながら眺めた。
「慈悲の司姫よ、そなたがすべてを引き受けると申すのか」
女は笑うのを止め、小首を傾げた。
「私は育てるだけよ。この子の過去も未来も、この子自身が引き受けるでしょう」
堪え切れず、少女は叫んだ。
「その子はあたしたちの同胞だわ!」
「人間でもあるわ」
「人間では持ち得ない力を持っているわ!」
「人間の弱さ、強さ、愚かさ、賢さも持っているわ」
女は婉然と微笑んで宣言した。
「私は育てるだけ。そして、選ぶのはこの子自身」
紫と翠の、異色の瞳には力強い輝きが宿っていた。
その眼差しに貫かれ、三人は言葉を失った。
「すべてが終わるまで、誰にも阻ませないわ」
静かな、力に満ちた言葉は誓約だった――。
数十年後。
神の血を継ぐという男が一つの国を建て、一つの都を整えた。
後世の人間は、彼を聖王と呼び、かの都を聖都と讃えた。
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