桜の花が舞う。
 巨大な大時計の前に置かれたピアノを弾いている少年の姿に、彼女は何故か泣きそうになった。

(ああ、私は……)


「ずっと待っていたんだよ……シグマ」


 その呟きは奏でられるピアノの旋律に消えて届かない。
 だが、一歩踏み出した彼女の気配に気付いたのか、少年は鍵盤に走らせていた指を止め、振り返った。
「……君は?」
 眼鏡の奥の瞳が怪訝そうに瞬いている。
 だが、そこに不審の色はない。
 ただ純粋に不思議そうにしている。
「私、は……」
 ほんの一瞬、彼女は悩んだ。
 目の前の彼は『黒上シグマ』だ。
 その彼に、シグマとは言えない。
 本来の歴史上でも、生死の未来が不安定だった『ゆう』をベースにしたせいなのか、彼に調律者シグマとしての自覚がないのは知っていた。

「私は、ネオン。月弓――ネオン」

 気付いた時、彼女は自身のベースとなった少女の名を告げていた。
「月弓……『札使い』の?」

『札使い』とは神霊と契約を交わし、式札を生み出すことによって様々な奇跡を起こす使い人たちのことだ。
 月弓はその札使いの一族だった。

「そう――その月弓」
 ほんの一瞬、シグマの体がぴたりと止まる。
 そして、何事もなかったように瞬いた。
「ああ、そうか。今日、来るって言っていた……」

 組み込まれた。

「うん、そう」

 にこりと笑いながら、彼女――ネオンは考えを巡らす。
 シグマは自身が「シグマ」である記憶を持たず、それゆえに自身の存在を安定させるため残された『ゆう』の記憶を元に、この平行世界を創った。
 その世界に『月弓ネオン』が組み込まれたのだ。
「ねえ、貴方は私のこと、どこまで聞いているの?」
 試すようにネオンが訊くと、シグマは心持ち躊躇うような表情で眼鏡を軽く押し上げた。
「月弓の最後の末裔だと……」
 それは確かに事実だ。
 ちらりとこちらを見やるシグマの視線に気遣いの色を見つけ、ネオンは何も気にしていないかのように笑った。
「うん、だから、私、自分のことも札使いの力のことも良く分からないの」
「あぁ、そうか――」
 シグマは何か得心がいった様子で頷いた。
「使い人の能力は各一族特有だからね。……良ければ、僕が知っていることを話そうか?」
「うん」
 頷いたネオンに、シグマは安堵したようで微笑む。
「じゃあ、とりあえず、場所を変えようか。ついでに黒上の館の中も案内するよ」


 黒上の館は都内の中心部、その地下に位置する。
 出入りは都内を走る専用の列車のみで、当然、入り口も地下にある。
 それも館の中心部にある大時計を守るためだ。
 不断桜に囲まれた大時計は神代の時代より続く『時の封印』だ。
 時の狭間への道を閉ざし、そこに在る強大な『逢魔』が人々の住む世界へと現れないよう封じている結界が取った一つの姿が天井まで届く大時計だ。


「逢魔から世界を守る結界……」
 大時計を見上げながら、ネオンは小さく呟いた。
 不思議な気分だ。
 ネオンの中には『彼女』の記憶がある。
 ベースとなった『彼女』は黒上の館に住んでいた。
 まずは手始めにと、現在地の『大時計の間』を説明し始めたシグマはネオンの呟きに頷いた。
「でも、時の狭間への道を塞ぐための自動調律の『結界の歯車』から時々小さな逢魔が通り抜けてくるんだ。だから、この館には黒上や使い人しかいない」
 シグマは軽く眼鏡を押し上げた。
「……だから、君も早く自分の力を使いこなせるようになった方がいいと思う」
「うん、分かった。でも、私の力は――」
「札使い、だろ?」
「うん、だけど、得意なのは『神降ろし』なの」


 『神降ろし』――札使いが持つ技の一つで、契約した神霊を自身の身に降ろして逢魔と戦う力を得ることができるようになる。
 だが、その神霊に強く影響を受け、見た目だけでなく性格も変わり、制御ができない。
 ネオンが自身の力を良く分からないと告げる訳もここにある。


「なら、問題ない」
 あっさりと答えたシグマにネオンは首を傾げた。
「?」
「僕は『音使い』だ。旋律で神降ろしした君を導くことができる」


 『音使い』は黒上一族が持つ特殊能力だ。
 音を媒介にして、様々な奇跡を起こすことができる。


「へえ〜、そうなんだ」
 ネオンに頷き返し、シグマは微笑んだ。
「ああ、だから、今日からよろしく、ネオン」
 そして、差し出された手にネオンは瞬いて、ゆっくりと手を伸ばした。


「……よろしく、シグマ」



 それが黒上シグマと月弓ネオンがパートナーになった日だった。










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