CROSS−interval−


                  10  11  12  13  14









オーブ所有コロニー『ティトポリス』




「キラ」

「……ねむい」

「起きて下さいな、キラ。……代わりに、ご褒美を差し上げますから」




「先払い、ですわ」







「どうしたの、その格好」

「あら、内緒で外出する際は変装するものではないのですか?」

「へんそう……?」

「ええ、変装です」




――お忍びには変装が付き物だ!!








「あれを渡してもらおう」

     ――――G.E.H.E.N.N.A.







「ラクスは間違ってないよ。あの子を、独りにしてはダメだ」

「キラ」

「あの子は、ラクスだから」







「僕の手は、すでに血に塗れてる」




「うん……信じる。お兄ちゃんとお姉ちゃんを、信じるよ」

     ――――C.A.N.N.A.N.




「……わたくしの、責務、なのですね」








「大丈夫ですわ、途は一つではありません」

「ラクス」

「キラがご無理をなさる必要はありません」









「ありがとう、ラクス……」














 まどろみを破る電子音が鳴った瞬間、寝台の上にあった膨らみから腕が伸び、手探りで見つけた時計を引き寄せた。
 時計が膨らみに消えた直後、電子音は消える。
 その光景を見ていた少女は呆れた様子で呟いた。
「まぁ、道理で、いつも寝坊なされる訳ですわね……」
 困った方、と小さく呟くと同時に微笑みを浮かべ、少女はそっと近づき、掛布で作られた膨らみを静かに揺らした。
「起きて下さいな、キラ」
「……ん」
「もう、朝ですわ」
「……あと、ごふん……」
 くぐもった声での訴えに、少女は苦笑した。
「キラが起きて下さらないと、わたくし、困りますのよ」
 その言葉に、膨らみがもぞりと動いた。
「キラ」
「らくす……?」
「ええ、わたくしですわ」
 答える声に、膨らみの中身――キラが緩慢な動きで顔を出した。だが、まだ半分以上意識は眠りの海を漂っている様子で、ぼんやりとしている。淡くけぶるような紫の瞳にもいつもの輝きはない。
「キラ」
「……ねむい」
 短く訴えるキラに、ラクスは困ったように微笑んだ。
 できるなら、心ゆくまで眠らせてあげたい。
 つい先日までの一連の騒動で、キラの心身には気付かないうちに負担がかかっていたのだろうと思うから。
 だが、そろそろ起きてもらわないと今後の予定が幾つかずれてくる。
「起きて下さいな、キラ」
 しかし、キラの双眸は再び閉じていこうとする。
 安心し切った、その無防備な顔にラクスはますます困ったように微笑む。困っているのだが、確かに感じる幸せに酔いしれてしまいそうになる。
 無理に起こすのは忍びない。ならば、自主的に目覚めてもらうしかない。
「……代わりに、ご褒美を差し上げますから」
「……ん?」
 ほんの一瞬、キラの意識が再び浮上しかけた瞬間を狙って、ラクスは上半身を倒した。
 無音の数秒間。
「……え?」
 身を起こし、ラクスはニッコリと微笑んだ。
「先払い、ですわ」
 次の瞬間、キラはがばりと上半身を起こした。ほとんど反動のない状態での動きに、ラクスはあらあらと楽しそうに笑った。
「すごい効果ですわね」
「あ、ぇ……ラ、ラクス?」
 微笑むラクスとは対照的に固まっているキラの意識は必死に、たった数秒前の記憶を辿っていた。
 その間に、キラを混乱に突き落とした当人はてきぱきと予め用意していた着替えを渡した。
 元々、無頓着な性質のキラの衣服は、以前はカリダが選んで買ってきていたが、ここ最近はラクスが選んでいた。
「こちらに着替えて、いらして下さいね。わたくしは隣室で待っていますから」
 にこりと咲き綻んだ花のような笑顔で告げて、ラクスは寝室から出て行った。
 その細い後ろ姿を見送り、キラは今のことを反芻した。
 朝、起こしてもらい、着替えを出されて。
(まるで新婚みた)
 い。
「……」
 次の瞬間、自らの思考にキラはばたりと大きな音を立てて枕に向って倒れ込んだ。
「〜〜ッ」
 枕に埋もれて隠れている顔はもちろんのこと耳まで赤い。
「やっぱり、断るべきだったかも……」
 半ば、バルトフェルドに押し切られる形で、最上階のスイートルームをラクスと使うように言われた時のことを思い出し、キラは虚ろに笑った。

 警備面での効率だの、キラの怪我の面倒だの、もっともらしい説明を並べられた上、ラクスからは一切反対の声が上がらなかったことも現状の一因だろう。
 せめてもの救いは寝室が二つあったことだ。その事実を確認するまで、キラの混乱は続いた。

 一頻り、呻いて気が済んだのか、キラはおもむろに身を起こした。ゆっくりと視線を動かせば、大きく取った窓のカーテンの隙間から朝陽が零れ落ちている。
 寝台から降りて、カーテンを開けると、一斉に室内に光が満ちた。
 人工の陽光。
 それでも、輝きは偽りではない。
 虚空に浮かぶ都市『ティトポリス』は崩壊した『ヘリオポリス』同様オーブの有するコロニーだ。
 上空にある巨大なシャフトを見た瞬間、脳裏に蘇った過去の光景から目を逸らすようにした瞬間、キラは自身の右腕に巻かれた白い包帯に双眸を閉じた。

 まるで何かが導くようにキラの前に現われた『剣』。
 誘ったのはキラの魂の奥底に刻まれた優しい面影。
 続く凄惨な光景に、キラは唇を噛み締めた。
 望まぬ、不可解な戦い。
 虚空に散る戦艦。
 静寂の闇。
 人の夢……その残滓。

 鋭く小さな痛みを胸に覚え、キラはそっと抑えた。
 これはキラ自身の痛みではない。

(これはラクスの痛みだ……)

 話したいと言っていた。
 何故、戦わねばならないのか。
 何を望んでいるのか。
 その問いに対する答えを知りたいと言っていた。
 けれど、『その人』は理解などできるものかと嘲り、ラクスの手を拒絶して奈落の闇に消えた――綺麗に笑ったままで。

 その時のラクスの哀しみと痛みが、キラにまで伝わってきているのだと躊躇いもなく確信できた。
 キラは静かに瞳を開けると、隣室にいる少女の所へ向った。
「ラクス」
 呼びかけられて振り向いたラクスは、まだ着替えていないキラを見て不思議そうに首を傾げた。
「キラ、まだ着替えて」
「大丈夫?」
 ラクスの言葉に重なるように尋ねられて、ラクスは小さく驚きの表情を浮かべた。
「キラ……?」
「ラクス、大丈夫?」
 問いを繰り返しながら、キラはそっと少女の薄紅の髪に触れた。
 少女の特徴というべき、長かった薄紅の髪は肩よりやや上の位置で短く切り揃えられていた。
 白い包帯が、キラにとっての数日前の戦いの痕跡ならば、ラクスにとっては髪の長さがそれだ。
 優しく触れるキラの手に、ラクスは一瞬辛そうに表情を歪め、次いで俯く。
「ラクス」
「……どうして」
「うん」
 ラクスの声はかすかに震えていた。
「わたくしは、いつも見ているだけなのでしょう……」
 見ているだけでは何も意味はないのに。
「!」
 キラは息を呑んで、ラクスを見つめた。
 指先に感じる小さな震えが、ラクスが抱く哀しみと痛みの本当の意味を伝えていた。
(そうか、ラクスは)
 ただ、過去を悔いているだけではなく、自らの無力さに憤りも覚えているのだ。
「ラクス……」
 キラの呼びかけに、華奢な肩が一瞬震えた。
 細い四肢。
 柔らかな体。
 他者を癒しこそすれ、傷つける力など皆無のような可憐な容姿。
 だが、ラクス・クラインという少女はただ優しいだけの少女ではない。また、守られるだけの存在に甘んじているような少女でもない。
 髪に触れている手のひらに、熱を含んだ雫が滑り落ちた瞬間、キラの腕が咄嗟に動いていた。
「ラクス」
 ラクスを抱き寄せて、キラは静かに、一言一言をゆっくりと紡いだ。
「見ているだけ、じゃないよ」
「キ、ラ」
「ラクスが見ていてくれるから、僕は戦えたし、待っていてくれているから帰って来れたんだよ」
 あの時も。
 今回も。


――わたくしの想いも共に。


 それは決して偽りではなかったことを知っている。
 あの時、託されたのは『力』だけではない。
 ラクスの想いも託されていた。


――想いだけでも力だけでもダメなのです。


 強大な力は人の弱い心を容易く絡め取る。
 一人の『想い』では『力』の前に打ち消されていくこともある。その『力』に引き摺られ、魅せられ、本来の意味を喪ってしまうことも。
 だが、キラは一人ではなかった。ラクスの想いと共に揮われた『力』は『兵器』でなく、『翼』として、キラの手にあった。
 その事実を思い返し、瞳を閉じて、キラは続けた。
「それに、ラクスも戦っていたでしょ?」
「え……?」
 ラクスが顔を上げる動きを感じて、キラは静かに微笑んだ。


「不安と」


「!」
 無事帰ってくるか分からない、大切な人を見送る不安。
 別れて、もう一度会える確証などどこにもないことをラクスは知っている。
 知ってしまったのだ――たった一人しかいない父の死で。
 だからこそ、寄せる想いが強ければ強いほど不安も大きくなる。
「ようやく、僕も少しだけど分かったから」
「キラ」
「……ごめん、心配ばっかりかけて」
 柔らかな紫色の瞳を伏せて謝るキラに、ラクスは小さくかぶりを振った。
「いいえ、いいえ、そんな……!」
 溢れそうになる感情を抑え、ラクスはゆっくりと微笑んだ。
「キラが謝る必要はありませんわ。キラはキラのなすべきことをなさっただけです。これは、わたくしの、ただ単なる我侭に過ぎません」
 キラにはキラにしかできないことがあるように、ラクスにもラクスにしかできないことがある。
 分かっているのに。
(言うつもりではなかったのに)
 キラの優しい手はいとも簡単にラクスの仮面を取ってしまった。
「ラクスの我侭だから叶えてあげたいんだけどね」
「!」
 一瞬にして白い頬を朱に染めるラクスに気付かぬまま、キラは呟いた。
「でも、僕にも譲れないものがあるから」
 笑みを消して、キラはラクスの目尻に残っている涙を指先で拭い取る。
「だから……ラクスの不安を全部消すことができない」
 ラクスは緩々と苦笑した。
「それは、キラの我侭ですわね」
「うん、僕の我侭だ」
 ラクスの言葉を認めながら、キラは細い体を抱き締めた。
「守りたいんだ」
 小さな、小さな呟きはぽつりと零れたものだけに、キラの真実だとラクスは感じた。
 そこに含まれる確かな想いに幸せを感じつつ、ラクスは口を開いた。


「わたくしも守りたいですわ」


 大切な人を。
 大切な世界を。
 喪う痛みを知るからこそ、生きていてくれる喜びの意味が分かる。
 相対するそれらは互いの存在があってこそ、その意味を持つ。
 愛するものを奪われた憎しみが、また誰かの愛するものを奪い、また奪われた憎しみが、その相手を大切なものを奪おうとする。


 それは悪夢の連鎖。


 それを断ち切るために、ラクスたちは戦場に立ったのだ。
(たとえ、見送ることしかできなくても、わたくしは)
 それがラクスにできることで、不安と戦うことが彼女の戦いだ。
 ラクスの敵は彼女自身の裡にいる。
 だが、同時に、彼女の『剣』もまた、その裡にある。
 自分自身に負けることなど、彼女の誇りが許さない。
「ラクス」
 気遣わしげに見つめてくる紫色の眼差しに、ラクスはにこりと笑った。
「わたくしは貴方に会えて幸せになりました。ですから、わたくしを不幸にするのも、キラですわ」
 突然の断言に、キラは束の間呆け、そして、困ったように笑い返した。
「すごいこと言うね」
「そうですか?」
「うん。でも、ラクスが笑っていてくれたら、僕も幸せだけどね」
 何気ない一言に、ラクスは一気に頬を朱に染める。
 その変化に、キラは思わず、くすくすと笑い出した。
「キラ! わたくしをからかうのは止めて下さい!」
「別にからかってないけど?」
 ラクスは一瞬絶句し、そして、鋭くキラを見上げる。
「とりあえず、早く着替えてきて下さいな。バルトフェルド隊長がお待ちですわよ」
「あ、うん、分かった」
 にこりと笑って頷き、キラは再び寝室へと戻る。
 その背を見送り、ラクスは火照った頬に両手を当て、顔を隠すようにして俯いた。
 その顔には憂いではなく、ほのかな幸せに華やぐ微笑が浮かんでいた。














「おはようございます、バルトフェルドさん」
 朝食は展望ラウンジの一室に用意されていた。
 一人掛け用のソファに座り、コーヒーの香りを楽しんでいたバルトフェルドはようやく姿を現したキラとラクスにカップを持ち上げ、笑いかけた。
「よぉ、遅かったな。こっちはもう食後の一杯をいただいているよ」
「お待たせしてすみません」
 ラクスは静かに詫びて、キラを席に促す。
「はい、キラ、紅茶ですわ」
「あ、うん、ありがとう」
「お砂糖は二つとミルクでしたわよね」
「うん」
「サラダの中のニンジンはきちんと食べて下さいね」
「う、うん……」
 渋るキラと朗らかに笑うラクスを見やり、バルトフェルドは溜め息を吐いた。
 実に、微笑ましい光景だ。
(新婚だな、これは)
 キラが聞けば起床のことも含めて、朝食を吹き出すこと間違いない感想を、心の中で呟き、バルトフェルドは再び溜め息を吐いた。
「それで、バルトフェルド隊長、昨夜お話していた件ですけど」
「ん?」
 バルトフェルドは我に返って、手に持ったカップをテーブルの上に置いた。
「あぁ、アレか」
「何の話ですか?」
 ようやく、苦手とするニンジンを嚥下したキラが不思議そうに尋ねた。瞬く瞳が少しだけ潤んでいる。
「お前もいたぞ」
「え?」
「あの時、キラは随分と眠そうでしたものね」
 こくりこくりと船を漕ぐキラの様子を思い出したのか、ラクスはくすりと微笑した。
「いつ、オーブに戻るか分かりませんでしょう? しばらく、こちらに滞在するとなると、色々と物入りになりますから、その買い物に行きたいとお話していましたの」
 ラクスもだが、キラ自身、定期的に運行しているシャトルで地上に帰るということができない。
 安全面と警備面と、そして、一番厄介な政治面での問題だ。
 その底知れぬ能力と存在ゆえに、キラの身柄に関して地球とプラント間で幾度となく水面下で論議があったと聞く。
 最終的に、オーブが預かることになり、双方に浅からぬ影響力を有するマルキオの島でキラは生活することになっていた。接触はないものの、キラの行動には監視がつく。
 公式記録ではキラは今もオーブにいることになっているのだ。
 また、アイリーン・カナーバの再三に渡る召還に応じ、一度はプラントに戻ったラクスも公式記録上はオーブから離れていないことになっているはずだ。
 ラクスの場合、キラよりも事態は複雑で、その帰路に襲撃を受けた事実がある。
 その襲撃者は退けたものの、その黒幕は未だ掴めていない。
 相手が明らかにラクスを狙っていたことが分かっているだけに、自身のことはともかく、キラは特に慎重にならざるを得なかった。
 デブリ帯で戦闘があったことはすでにティトポリス常駐のオーブ軍及びプラントのザフトも感知している。偵察隊が行き交い、状況の解明のための調査も始まっているらしい。
 同時に、シャトルに搭乗する際のチェックも厳しくなっているという話だ。
 話し合った結果、しばらく、状況が落ち着くまでティトポリスで静観した方が無難だろうという結論に落ち着いたのを思い出し、キラは小さく頷いた。
「あぁ、なるほど。確かに必要かも」
「でしょう?」
 二人の様子を微笑ましく思いつつ、バルトフェルドは懐から一枚のカードを取り出した。
「とりあえず、支払いはこれでしてくれて構わんよ。本当は、出歩くことは遠慮してもらいたいものだが」
 その言葉に、ラクスが柔らかく微笑んだ。
「あら、皆さん、お忙しいのでしょう? これくらいはさせて下さいな。護衛なら、キラがいて下さいますし」
 いつの間にか、キラの同行が決定している。
 もちろん、キラにラクス一人で行かせる気など更々ない。だが、当然のように言われ、その上、寄せられた信頼の大きさに、思わず、キラは苦笑していた。
「まぁ、そう心配はしていないがね」
 バルトフェルドも苦笑しながら、ラクスにカードと一緒にメモも渡した。
「ついでに、これも買ってきてくれたまえ」
 二つ折りのメモを開くと、そこには幾つかのコーヒー豆の種類が書かれていた。
「バルトフェルド隊長……」
 苦笑気味に見つめるラクスに対して、バルトフェルドは平然としたものだ。
「分かりましたわ」
 小さく溜め息を吐き、ラクスはキラに告げた。
「キラ、お食事が終わりましたら、お付き合いくださいます?」
 バルトフェルドらしい言動にキラもまた苦笑しながら頷いた。
「うん、いいよ」














「では、キラ、わたくし、準備をしますので」
「あぁ、うん。分かった」
 朝食から部屋に戻ったラクスが外出の準備のため寝室に戻ると、キラは部屋に備え付けのパソコンから、デブリ帯の調査がどこまで進んだか調べることにした。
(……戦闘の痕跡を発見、か)
 だが、最大の熱源が観測されたポイントには何もなかった。
 そう、漂っているはずのデブリでさえ。
 それが何によって齎されたものか知っているキラは思わず唇を噛み締める。
 偵察隊は『何か』があったのは分かるだろう。だが、『何』があったのかは決して知ることはない。
 真実を知るのは当事者であるキラたちと、そして、そこに何があったのか知っている存在が推測するぐらいだ。
 この結果を齎したキラの『剣』は、再び、彼の手から離れた。
 アークエンジェルを降りる際に、その白き戦艦と共にいずこかへ行くのを見送ったきりだ。
 どこに行くのか、キラは聞きもしなかったし、知るつもりもなかった。
 過ぎた力は人を容易く惑わせる。
 人は常に自覚すべきなのだ、その手にある『力』の本質を。
 本当に手にすべき『力』を。
 キラ自身、その『力』が何なのか、どうすればいいのか分からないでいる。
 だが、戦争は終わり、穏やかな時間が紡がれようとしている今、ゆっくりと探すことはできるだろう。
 ……そのはずだ。
「キラ」
 不意にかかった声に、キラは素早く回線を切り、パソコンの電源を落とす。
「お待たせ致しました」
「ううん、大丈夫。って、ラクス……?」
 振り返った瞬間、キラは呆けた。
「はい?」
 きょとんと瞬くラクスに、キラは引きつり気味な笑みを浮かべた。
「どうしたの、その格好」
 服装は外出用に変わっただけで、驚くものではなかった――とは言っても、ラクスに似合う清楚なデザインでキラをそれなりに動揺させている――が、キラの視線を釘付けにしたのは肩から滑り落ちている長く艶やかな黒髪だった。
「あら、内緒で外出する際は変装するものではないのですか?」
「へんそう……?」
「ええ、変装です」
 至極、真面目に頷くラクスに、キラは既視感を覚えた。
(あ、思い出した)
 以前、マルキオの孤児院にカガリとアスランが来ていた時、何か似たようなことを言っていた。
「えーと、それ……カガリが?」
 ラクスは最後の仕上げとばかりに銀縁の眼鏡をかけると、にっこりと笑って頷いた。
「はい、そうですわ」


――お忍びには変装が付き物だ!!


 きっぱりと断言する双子の少女の姿が容易の想像できたキラである。
「何か間違ってます?」
 小首を傾げて尋ねるラクスに、キラは脱力しながら微笑んでかぶりを振った。
「ううん、ちょっと驚いただけ」
 そして、キラはラクスの黒髪を手に掬い取った。
 数日前の騒ぎの最中、長い薄紅の髪をラクスは切った。
 その時の衝撃に比べれば、髪の長かった彼女が黒く染めたように見えるだけに今の驚きは大きくない。
 白い肌に、艶やかな黒髪はよく映える。
 薄紅の髪は可憐な花のような印象を与えていたが、艶やかな黒髪はまるで聖女のような雰囲気を添えている。
 曇りのない蒼穹の瞳に、繊細な容貌。
 だが、人工的に造られた長い黒髪は触れば、ラクスのそれとは違うことが明確に分かる。
 髪を切った経緯を思えば、心苦しさと憤りが蘇るのを感じて、キラは溜め息を吐いた。
「……キラ?」
「まぁ、仕方ないよね」
 胸の内に残る不満を宥めるように、キラは呟き、訝しげに見つめる少女に微笑みかけた。
「準備ができたなら、行こっか」
「あら、キラは変装しなくて宜しいのですか?」
 キラは苦笑して頷いた。
「僕はね」
 キラは歌姫だったラクスやオーブ代表になったカガリほど公的に人々の前に顔を晒していないので、素顔のままでも問題ない。
 キラの返答に、ラクスは少し考える素振りを見せ、おむもろに、自身の眼鏡を外し、キラにかけた。
「……ラクス?」
「お貸ししますわ」
 にこりと微笑むラクスに、一瞬、見惚れながら、キラは眼鏡の縁に触れる。
「……似合う?」
 小さく笑んで尋ねると、ラクスはくすりと柔らかく笑った。
「ええ」
「ラクス」
「はい?」
「ありがと」
 ラクスは、一瞬、空色の瞳を瞠り、次いで綺麗に微笑んだ。
「いいえ、わたくしは何も」
「でも、僕のこと心配してくれたんでしょ?」
 眼鏡に軽く触れ、キラは紫色の瞳を細めて微笑んだ。
「嬉しかったから、だから、お礼は言わなきゃね」
「!」
 その綺麗な微笑に、思わず、ラクスは息を呑んで、頬を赤らめた。
 優しいキラはその人柄が雰囲気にも顕著に表れていて、大抵の人間がその容貌の秀麗さに気付くことはない。
 だからこそ、時折、浮かべる真摯な顔でその事実に気付いて、周囲は驚く。
 そのことに気付いているラクスもまた、寄せる想いも加わって驚きを覚えることが多々あるくらいだ。
 キラ自身にその自覚は皆無だということもあって、かなり心臓に悪い。
 銀縁の眼鏡をかけたキラは柔らかな容貌に少しだけ鋭さを加えて、少年から青年へ過渡期を知らしめる雰囲気を放っている。
「ラクス?」
 不意に黙り込んでしまったラクスに、キラは不思議そうに呼びかけた。
 硝子越しの紫色の瞳がラクスを見つめていた。
 徐々に上昇していく体温を認識し、ラクスは溜め息を吐いた。
「……いいえ、何でもありませんわ」
 取り繕い、微笑しても、それでも不思議そうに見ているキラに、ラクスは本当に微笑して続けた。
「では、行きましょうか」














 戦時中、直接的な被害がなかったティトポリスはオーブ本国より先に平穏さを取り戻していた。
 戦いに身を投じる前、常にあった穏やかな賑やかさにキラは双眸を細めた。
 あの時は何も知らなかった。
 少し先で、戦争が起こっているなんて――幼馴染みが戦っているなんて。
 毎日、誰かが死んで、誰かが泣いていたなんて。
 守られた世界。
 今は亡きウズミが、そして、多くの人がキラを含めた多くの人々を守っていた。
 その世界が壊された時、『何故』と思った。
 壊す一端を担ったのが、幼馴染みと自身であることに『何故』と叫んだ。
 何かを奪うつもりも、壊すつもりもなかった。
 ただ、守りたかった。
 それだけで。
 あの時、キラが失った世界が、目の前にあるような錯覚を覚えた。
 この町並みのどこかに、もう、どこにもいない、キラが守れなかった大切な人たちが笑って歩いているような気さえする。
 折り紙の花をくれた少女。
 銃口から庇ってくれた友人。
 そして――。
 脳裏に過ぎった鮮やかな赤い髪の少女の面影に、キラは突き刺さるような痛みを覚えた。
「キラ?」
 不意に立ち止まったキラを訝しそうに呼びかける少女の声に、キラは我に返って首を巡らした。
「……ラクス」
「まだ、お加減が悪いのですか?」
 腕に負った傷は浅かったものの、熱を含み、キラを寝台に縛りつけたことを思い出して表情を曇らせるラクスに、キラは静かに思い返した。
 そう言えば、アークエンジェルを降りてティトポリスに来てから、ほとんど動いていない。
「ううん、平気」
 偽りでない微笑みを浮かべてキラは答えた。
「……あちらの公園で少し休みましょうか?」
 それでも、気遣うラクスに苦笑して、キラは頷いた。
 時間帯が平日の午後のため、公園にいる人間は少なかった。
 幾つかあるベンチの内、ちょうど影になっているものを選んで座る。
 コロニーの天気はプラント同様、予め決まっている予定で運行されている。
 今日の気温は少し高めに設定してあるのか、影の中に入ると思っていたより涼しい空間が気持ち良く感じられた。
「涼しいですわね」
「うん」
 二人が微笑み合った瞬間だった。
 ラクスのポシェットがもぞもぞと動いた。
「あら?」
 ポシェットの口を開けると同時に、弾けるようにピンクの球体が飛び出てくる。
〈ハロ、ゲンキ!!〉 「まぁ、ピンクちゃんったら、いつの間に」
 ポーンと飛び跳ねたハロはラクスの手元に降りると、パタパタと耳を動かした。
「ダメですわよ、内緒でついてきては」
 小さな子どもにするように叱るラクスを見て、キラは笑みを浮かべた。
「留守番が嫌だったのかな……。この子、いつもラクスと一緒だし」
 初めて会った時も、このピンク色のマイクロユニットはラクスと一緒にいた。
「きっと寂しかったんだよ」
「キラ……」
「ね?」
 にこりと微笑むキラに、ラクスは緩々と微笑した。
 高度なプログラムなど持っていないハロに対して、まるで感情があるように接してくれる人間は少ない。
 その少ない中に、キラがいることがラクスは嬉しかった。
「そうかもしれませんわね」
〈ハロハロ!〉
 肯定に似たハロの反応に、キラとラクスは思わず瞬いて、くすくすと笑い出した。
「本当に、アスランの作るマイクロユニットってすごいよね」
 素直に幼馴染みの技術を誉めるキラに、ラクスはふと思い出した。
「そういえば、キラもアスランから頂いていましたわね」
「うん、トリィね」
「わたくし、見せて頂く約束、果たしてもらっていませんわ」
 そして、ラクスはじっとキラを見つめた。
 無言のお願いに、キラは小さく苦笑した。
 時々、ラクスはマルキオの家にいる子どもたちと同じような仕草をする。
(普段はそんなことないんだけど……)
 ラクスに望まれるまま、キラは上着の内ポケットにいるトリィを起動させた。
〈トリィ>
 すぐに緑色の小鳥がキラの懐から手の甲に乗ったかと思うと、ふわりと羽ばたくと同時に上空に舞い上がる。
「まぁ」
 感嘆の声を上げるラクスに笑いかけ、キラはすっと右手を上げた。
 すると、二人の上を旋回するように飛んでいたトリィは優雅に滑空し、キラの手に戻る。
「……これがトリィ。月の幼年学校時代にアスランから貰ったんだ」
「本当に、アスランは器用ですわね」
 ニコニコと笑って、ラクスはトリィを覗き込むように顔を近づけた。
「こんにちは、トリィ」
〈トリィ?〉
 こくりと首を傾げる愛らしい様子は、本物の鳥の動きそのもので、ラクスは笑みを深めた。そして、キラを見上げて告げた。
「可愛いですわ」
「……」
「キラ」
「あ、うん、そうだね……ッ」
 笑っているラクスに見惚れていたキラは我に返ると同時に、慌てて笑みを浮かべた。
〈ハロ!〉
 不意に、自身の存在を訴えるように、ハロが声を上げ、トリィの側近くで跳ねた。
 驚いて飛び立つトリィを更にハロが追う。
〈トリィ!〉
〈ハロハロ!〉
 突然、追いかけっこを始める二体のマイクロユニットに、二人は呆けた。
「ピンクちゃん!」
「トリィ!」
 数瞬の後、二人はベンチから立ち上がって、ハロとトリィを追いかけた。しかし、意外に広い公園を抜け、ビル街の間の小道に入った所で、ついに、二人は見失う。
「……困りましたわね、このままだとピンクちゃんが迷子ですわ」
 走ったため、ほんのりと上気した頬を抑え、ラクスが嘆息した。
 見えないところに飛んでいってしまったトリィを探すように視線を彷徨わせていたキラはゆっくりとラクスを見やった。
「トリィは、たぶん、戻ってくると思うし……」
 人物探査機でも備わっているのではないかと心密かに疑いを抱いているキラは呟いて、困り果てているラクスに笑いかけた。
「とりあえず、先にハロを探そうか?」
「ありがとうございます、キラ」
 そして、再び捜索に動こうとした瞬間だった。


「ねえ」


 不意に声をかけられ、キラとラクスは振り返った。
 ちょうどキラたちが来た方向とは対する位置で、一人の少年が立っていた。
 深く被った帽子から零れる淡い銀髪、大きな緑の瞳。
 年はマルキオの家にいる子どもたちと同じくらいだろうか。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、この子を探してるの?」
 少年の両手に抱えられるようにして、ハロがパタリと耳を動かしながら、そこにいた。
「まあ、ピンクちゃん!」
 弾けるように微笑みを浮かべて、ラクスは少年に歩み寄った。
 キラもそのすぐ後ろに続く。
「貴方が見つけて下さいましたの? ありがとう」
 屈み込み、視線を合わせるラクスに少年は少し戸惑ったような眼差しを注いだ。
「うん……転がっているの見つけた」
「助かりましたわ。さあ、いらっしゃい、ピンクちゃん」
 柔らかな誘いに、ハロの瞳が一瞬輝く。
〈ハロ、ゲンキ! マイド、マイド!〉
 ラクスの手元に戻り、いつもの調子で声を上げるハロに、ラクスは静かに微笑んだ。
「本当に、無事見つかって良かったですわ」
 その微笑をじっと見つめていた少年が不意に口を開いた。
「あ」
「はい?」
「その、ロボット、そんなに大事なんだ?」
 おずおずと尋ねてくる少年に、ラクスはにこりと微笑んだ。
「ええ、大切なお友だちですわ」
「友だち……」
 ラクスの言葉を繰り返し、少年が何かを言おうと口を開いた。


「ガヴィ」


 小さな肩が震え、弾かれるように少年は振り返った。
「……お、父さん」
 掠れた声で呼ばれた男は、ゆっくりと双眸を細めた。
 少年と父親らしい男の様子を見比べながら、ラクスは静かに立ち上がった。ラクスの隣に立つキラも二人を静かに見つめていた。
 男はキラとラクスを見つめ、そして、立ち尽くしている少年に視線を移した。
「……おいで、行くよ」
 こくりと頷き、少年が足を踏み出した瞬間だった。
 キラは全身を貫くような鋭い感覚に襲われた。
「!?」
 何か思うより先に、キラの体が動いていた。
「ラクス!」
 咄嗟に、細い体を抱き寄せ、屈み込むように、自身で庇う。
「キラ!?」
 突然の行動に、驚愕の声をラクスが上げると、同時に、空気が抜けるような音が街の喧騒に紛れて聞こえた。
 それが消音装置使用による独特の銃声だと二人が思い当たったのは、少年の悲鳴が響き渡った直後だった。
 駆け寄る少年の向う先――そこに立っていたはずの男が倒れ伏していた。
「!」
 その光景が何を意味しているのか、キラとラクスは瞬時に悟った。
〈ハロハロ!〉
 ラクスの手からハロが転がり落ちていくが、そのことに注意を払うより先に、二人の意識は少年の側に現われた影に顔色を変えた。
 咄嗟に、二人が声を上げるより先に、少年が影に気付き、突きつけられた銃口に固まった。
「……ッ!」
 次の瞬間、キラの手が足元に転がっていた空き缶を掴み、男に向って投げつけていた。同時に、足は地面を蹴っている。
 鋭く投げられた空き缶は男の注意を逸らすには充分だった。
 一気に間合いを詰め、少年の肩を引き倒す。
「!」
 その衝撃に我に返った少年が見たのは目の前で、キラの蹴りが男の首筋に叩き込まれようとする光景だった。
 だが、男は咄嗟に左腕を上げ、それを受け止める。
「キラ!」
「行って!」
 鋭く呼ぶラクスの声に、反射的に返し、キラは未だ驚愕から抜け切れていない男に意識を戻した。
 実戦経験の末、モビルスーツ戦闘において他を圧倒する力を有するキラだが、それ以外は他の一般的なコーディネーターと変わらない。
 遺伝子操作によって優れた身体能力を持つコーディネーターといえど、訓練もなしにできることなど限られているのだ。
 それは、最高のコーディネーターとして生まれたとされるキラにも当て嵌まる。
 専門の訓練を受けたことがないキラが格闘技や銃の扱いなど大して知るはずがない。
 かつて、砂漠の地で銃を撃つのではなく、投げてしまった時よりはマシとはいえ、男のような『専門家』相手では分が悪かった。
 長引かせてはまずい。
 一瞬で判ずると同時に、キラは男が驚愕から立ち直る前に、その無力化を図ろうとした。
 男に握られた銃身を掴み、そのまま、一気に捻る。
 引き鉄にかかったままの男の指先が鈍い音を立て、本来、ありえない方向へと曲がった。
 その瞬間、苦痛の叫びが上がった。
「――ッ!!」
 思わず、蹲る男にキラは続けて容赦のない膝蹴りを相手の鳩尾に叩き込む。
 意識を失い、倒れる男の体を避け、キラはその手から素早く銃を取り上げ、装填されていた弾丸をすべて落として、あらぬ方向へ放り投げた。
 振り向くと、すでにラクスと少年の姿はない。
 キラの言葉に従い、ラクスは少年を連れて、この場を離れたのだろう。
 キラが二人の後を追おうとした瞬間、間近から低い呻き声が聞こえた。
「ッ!」
 不意に緊張に身を強張らせたキラは呻き声の主が少年の父親だということに気付くや否や、駆け寄って屈み込んでいた。
「大丈夫ですか!?」
 キラの声に、相手の肩がかすかに揺れる。
「う……ぁ」
 今にも途切れそうな呼吸と、体の下に広がった赤い水溜りに、キラは表情を翳らせた。
 大した知識がなくても分かる。
 この出血量では、もはや助けられない。
 唇を噛み締めるキラの肩が不意に掴まれた。同時に、小さな囁きが呼気に紛れて紡がれる。
「……を」
「え?」
 今にも消えそうな声を聞き取ろうとキラは耳を寄せた。
 だが、次の瞬間、男は力尽き、キラの肩を掴んでいた手が滑り落ちる。
 男が息絶える瀬戸際、振り絞られた声で告げた言葉。



「ゲヘナ……?」



 『煉獄』を意味する言葉を繰り返した、その瞬間、全身を貫くように走り抜けた悪寒に、キラは顔色を変えた。



「ラクス!?」











「行って!」
 その瞬間、自身に何を望まれているかラクスは理解していた。
 呆然としている少年を助け起こし、その手を掴んで逆の方向へと走り出す。
 ビル街の小道が終わり、再び公園に入ると、そのまま、隠れるのに適した茂みを見つけて、ラクスは飛び込んだ。
「ッ!」
 小枝や葉が頬を掠めるが、そんなことに構っていられない。
 まずは安全なところへ。
 そうでなければ、キラが退けない。
 逃げる時間を稼ぐために、キラは残ったのだ。
 ラクスたちが安全なところまで離れないと、キラも逃げられない。
(キラ……!)
 一瞬で焼きついたキラの背を脳裏に浮かべ、ラクスは強く祈る。
(どうか、無茶だけは)
 今のキラはちゃんと分かってくれている。
 どれほど、ラクスがキラを必要としているか分かっていてくれるはずだ。
 だからこそ、ラクスは留まることを選ばず、少年と共に逃げているのだから。
 生い茂る木々の間に身を隠し、ラクスは息を殺しつつ、周囲の様子を探った。
 喧騒が遠い。
 緑の多い公園らしく、吹き抜ける涼風が走って上気したラクスの頬を撫でていく。
 周囲にラクスたち以外の人の気配はない。
 一応の安全を確認し、ラクスはホッと息を吐くと、おもむろに少年の手を離した。
「あ……」
 その瞬間、少年は脱力して座り込む。
 子どもの足では、かなり厳しかったのだろう。呼吸も荒く、汗もかいている。
 そのことに気付いて、ラクスはポシェットからハンカチを取り出して差し出した。
「……大丈夫ですか?」
「!」
 不意に、少年が頬を赤らめ、後ずさった。
「い、いい……っ! 平気だから! それより何で助けたんだよ!?」
 その言葉に、ラクスは軽く眼を見張った。そして、困ったように微笑みを浮かべた。
「助けない理由がありまして?」
「だ、だって……」
 ラクスは小さく笑んで、そっと少年の頭を撫でた。
「貴方はピンクちゃんを見つけて下さいましたし、恩返しさせて下さいな」
「でも!」
 ラクスは人差し指を少年の唇を当て、腰を屈めて微笑んだ。
「人が人を助けたいと思うのに、理由などありませんのよ」
 だからこそ、キラは『剣』を手に取った。
 だからこそ、キラとラクスの出会いはあった。
 ラクスの言葉に少年は目を瞠った。そして、緩々と首を降り始めた。
「ち、違う……」
「?」
 少年の緑色の瞳が徐々に潤み始めるのをラクスは驚いて見つめた。
「違うの、お姉ちゃん、僕は」
 その瞬間、ラクスは何かを感じて、少年の口を塞いだ。
「!?」
 黙っているようにと人差し指を自身の口に当て、ラクスがゆっくりと振り向いた瞬間だった。
 空を斬るような音と共に、二人の真横を何か通り過ぎていく。
「ッ!!」
 はらりと、黒い髪が一筋舞い落ち、ちりりと熱が一瞬頬を走り抜ける。
 ラクスの背後にあった幹には一発の弾痕ができていた。
「十秒以内に出てこなければ、今度は当てる」
 茂みの向こうから無感動に告知され、ラクスは唇を噛み締めた。
 今の銃弾は、狙ったものか、ただの偶然か。
 こちらからは相手の姿が見えない。ならば、相手も同様のはずだ。
(でも……)
 じわりと感じる頬の痛みがラクスの危機感を掻き立てた。
 確証はない。むしろ、このような場合、最悪の状況を想定して行動すべきだろう。
 ラクスは静かに双眸を伏せ、思考を巡らせた。
 殺害可能な相手を目の前にすぐに実行に移さないのは、そこに理由があるからだ。
 ならば、それこそが活路になる。
(もっとも、その理由を知らないというのは難しいところですけれど)
 心の内で呟き、ラクスは表情を引き締めた。
 その変化を見ていた少年がかすかに双眸を瞠った。
「お姉ちゃん……?」
 戸惑いを含んだ声音に、ラクスは静かに微笑んだ。
「大丈夫、わたくしも参りますから」
 そして、ラクスは少年の手を取り、茂みから抜け出た。
 その瞬間、幾つもの銃口に取り囲まれる。
 逃げる様子を少しでも見せれば撃つ構えは、敵意はないにしろ、明確な意思表示だ。
 ある程度、予測していた光景に、ラクスは意識が冴えるのを感じた。驚き怯え、縋るように握り締める力を強める少年の手に、そっと握り返す。
 暖かな小さな手。
 少し高い体温が、別の手の温もりを思い起こさせ、ラクスは一瞬微笑した。
(大丈夫、わたくしは大丈夫ですわ)
 ラクスにはラクスの戦い方がある。
(わたくしも戦います)
 そして、ラクスはにこりと微笑んだ。
「その物騒なものを控えていただけますか? 小さな子を怯えさせるなんて、良識のある大人がなさることではありませんわよ」
 動揺の欠片も見せず、言ってのける少女に、銃口を向けている男たちだけでなく、少年も一瞬唖然となる。


「これは、また随分と気丈なお嬢さんじゃ」


 不意に届いた声に、ラクスは鋭く視線を向けた。
 男たちの向こうから、ゆっくりと姿を現したのは一人の老人だった。
「ほれほれ、お嬢さんの言う通りじゃ。その無骨なものは収めんか」
 白い髭の好々爺といった風情の老人は、手にした杖の先で、男たちの一人の肩を叩いた。
「……老師」
 渋る呟きに、次の瞬間、老人の双眸に鋭い光が走る。
「二度も同じ事を言わせるではない」
 その一言に、男たちは瞬時に銃口を降ろした。
(……!!)
 咄嗟に、ラクスは身を強張らせた。
 一瞬、小柄な体から放たれた圧倒的な気迫。
 浮かべた笑みは単純なそれだけではない。
 これは、もしかすると、より厳しい状況になったのか。
 ラクスの内心の疑問を応えるかのように、老人が再びラクスを見やった。
「さて、お嬢さんや」
「……」
「見たところ、お嬢さんは無関係じゃ。その子を儂に預けて去った方が無難じゃと思うがね」
 穏やかな物言いながら告げられる脅しに、ラクスはかすかに苦笑した。
「……袖すり合うも他生の縁、ということわざはご存知ではありません?」
 典雅な笑みを湛え、ラクスがおっとりと尋ねれば、老人は物珍しげに双眸を細めた。
「これはまた、面妖なことを言うものじゃ」
 くつくつと喉の奥で笑い、老人は緩やかに視線を周囲の男たちに注いだ。
「では、お嬢さんの言い分を受け入れ、ご同行願おうかの?」
 そして、老人は眼差しだけで前言を撤回するなら今しかないと暗に伝えた。
 それに気付き、ラクスはかすかに柳眉をひそめた。
「……」
 老人の言葉から、狙いはラクスの手を掴んでいる少年にあることは分かった。
 これ以上、下手に言葉を重ねて時間を稼ごうとすれば、老人は躊躇なくラクスの排除を選ぶだろう。
 皮肉なことに、彼らはラクスの正体に気付いてない。
 彼らの前に立つ少女が『ラクス・クライン』だと知れば、その利用価値を見出し、確保にと動くのは容易く想像できた。
(さりげなく教えて差し上げるのは簡単ですけど……)
 同時に、それはラクス自身の危険性が増すことを示していた。
 そして、わざわざ、そんなことをすれば。
(確実に、キラはお怒りになるでしょうね)
 微笑みながら怒り狂う少年の様子を思い浮かべ、ラクスはふと場違いにも綺麗な微笑みを浮かべた。
「……結構ですわ」
「うむ?」
 ラクスはにこりと晴れやかに微笑んだ。
「そのお招き、謹んでお受け致しましょう」
「!」
 その挑むような微笑に、何を思ったのか老人がわずかに動揺した。
「許可が頂ければ、の話ですが」
 その瞬間、ラクスたちを取り囲む男たちの一画が急に崩れる。
「!?」
 低く呻いて倒れる男たちの体の影から、険しい眼差しの少年が現われ、ラクスは失笑した。
「……許可、なんてことを言ってると本気で怒るよ?」
 低く、唸るような声音。
 細い体躯から静かに滲み出ているのは明らかに憤りだ。
 もうすでに怒っているのではないかと心の内で呟き、ラクスは笑んでキラの咎めを躱した。
「それは困りますわ」
 ぴくりとキラの柳眉が跳ね上がる。その瞬間、我に返った男たちが銃口に向けたかと思うと、キラの足がその銃身を蹴り上げていた。
「貴様!」
 キラの双眸が冷たく冴え渡る。
 次の瞬間、キラの体は獰猛な獣のような俊敏さで男たちを翻弄し、叩きのめす。
 引き鉄を引かせる隙など与えない。
 男の一人から銃を奪い取り、キラはその銃床で殴り倒した。


「キラ!!」



 鋭い声音で呼ばれて、振り返ると同時に、キラは体を落とした。
 右肩を掠める弾丸。
「ッ!!」
 鋭い熱の痛みに、キラは顔を歪めながらも体勢を整える。そして、視線を上げた瞬間、キラはすべての動きを止めた。
 老人の片手に小銃が握られ、その銃口はラクスに向けられていた。
「ッ!」
 老人を戦闘能力のない者と思い込んだ自身の迂闊さにキラは唇を噛み締める。
「……やれやれ、これまた派手にやってくれたものじゃ」
 呆れ混じりに、老人は周囲を見回した。
 ほんの数十秒の間に、男たちはキラによって全員倒れていた。だが、昏倒しているだけで命に別状はない。
「ほれ、起きぬか。子どもにやられるとは情けない」
 片手に持った杖で、老人は近くに倒れている男の足を突いた。
 ややあって、男たちは呻きながら起き上がっていくのを横目で見ながら、老人は無言で睨んでいるキラに笑いかけた。
「中々やるの、小僧。だが、甘い。確実に仕留めぬから、こういうことになる」
 キラが昏倒など生温い手段ではなく、もっと別の『確実な手段』を選んでいれば、老人はこの場からの撤退を選んでいただろう。
 示唆されたものを察し、キラは低く唸るように答えた。
「……僕は、殺さない」
 たとえ、この手に、そのための『武器』があるのだとしても。
 手のひらから少しはみ出る、冷たい鉄の塊。
 引き鉄に指先をかけ、少し力を込めるだけで殺意はカタチとなる。
 モビルスーツという兵器に比べれば、その殺傷能力は格段に劣る。だが、キラがその気になれば、この場にいるラクスたち以外の人間を『どうにか』できるだろう――不慣れなどという問題など関係なく。
(僕は、もう誰も)
 殺さない。
(ラクスも、あの子も)
 誰も殺さずに助ける。
 最後の最後まで、諦めない――その最後の瞬間に選ぶのだとしても。
 その覚悟はすでにあるのだとしても。


――キラ。


 音のない呼び声に、かすかに視線を向ければ、ラクスの蒼い瞳がキラをまっすぐに見つめていた。
 強い光を宿した瞳が、キラの視線を受けて、かすかに和らぎ、ふわりと微笑みの光が浮かび上がった。
(ラクス)
 自身の想いを受け入れてくれた少女の想いを認め、無意識のうちに、キラの手に力が篭もった。
 いつも、彼女はそうやって、キラの選択を受け入れ、認めてくれる。
 そこに含まれる苦しみも、哀しみも、憤りさえも。
「まぁ、そんなことはどうでも良い」
 その瞬間、キラは我に返った。
「問題はここからじゃ」
 老人はくつりと低く笑って続けた。
「儂は目的さえ果たせれば、子どもの一人二人どうなっても構わん」
 その言葉に、ラクスの隣にいた少年がびくりと震えた。
 その反応を視界の隅で認め、老人は笑みを深めた。
「『ゲヘナ』」
 その一言に、少年の幼い顔に恐怖が宿った。
「あれをどこにやった?」
 ゆっくりと双眸を細め、問う老人に、少年は大きく喘いだ。
「し、知らな……ッ!」
 思わず零れた少年の否定の声は老人の鋭い一瞥に掻き消された。
「嘘はいかんのぅ」
 ゆったりと笑い、老人は続けた。
「それでは、お前さんを守ろうとしているこの二人の厚意は全くの無駄に終わってしまう」
「!」
 大きく震えながら、少年の眼差しが彷徨うかのようにラクスを見上げ、キラを見つめる。
 二人とも、ただ黙然と老人を見据えていた。少年をちらりとも見る気配もない。
 それが余計な気遣いをせぬようにという思いからだと、少年には分かった。
 見せかけの優しさを与えてくれる人は多かった。
 本当に優しかったのは寡黙な『父親』だけだった。
「……ロボット……」
「!?」
 キラとラクスの視線を感じ、少年は表情を歪ませ、俯きながら続けた。
「ピンクの、ロボットに……」
 その瞬間、ラクスはハロのことを話していた時の少年の様子を思い出した。
(ピンクちゃんに……?)
 迷子になったハロに、老人の求める『ゲヘナ』と呼ばれるそのもの、もしくはその手かがりとなる何かを少年が隠したのだ。
(あぁ、だから)
 ハロを大切な友だちとだと告げたラクスに、少年は複雑そうな顔をしたのだ。
 そして、助ける理由にハロのことを挙げた時も。
 キラとラクスの反応に、老人は思案する素振りを見せた。
「なるほどの、偽りではないらしい」
 そして、老人は何かを思いついた様子で、くつりと笑った。
「では、こうしようかの」
 ゆるりと視線を向けられ、キラは柳眉をひそめた。
「まずは、その手にある物を捨ててくれんかね? 交渉の場には似つかわしくない」
 ならば、自分たちはどうなのか。
 そんなキラの思いを表情で察した老人は軽く肩を竦めた。
「儂とおぬしが対等であるとでも?」
 笑みを浮かべる老人の双眸に、鋭い光を見出し、キラは無言で銃を投げ捨てた。
 その行動に、老人は満足げに頷き、続けた。
「では、交渉じゃ。そのロボットと交換に、この二人を解放しよう」
 その瞬間、側にいた男が慌てて叫んだ。
「老師!!」
 だが、老人は鋭い一瞥で、反論の意を封じ、キラにニヤリと笑いかけた。
「悪い話ではなかろう?」
「……何で」
 小さなキラの問いに、老人は小さく笑った。
「知らぬ者が探すより、知る者が探す方が容易かろう?」
 それは否と言わさぬ響きが含まれた声音だった。
「……」
 キラは無言で唇を噛み締めた。
 袖の内側で伝う、生温い血の感触がざわざわと神経を逆撫でている。
(ハロと交換でラクスたちを……?)
 その言葉がどこまで真実なのか。
 それを見極めることはキラには難しかった。
(ラクス……)
 無言で見つめるラクスを見やり、キラはゆっくりと双眸を閉じた。
 どちらにしろ、選択肢はない。
 今、ここでキラが頷かなければ、ラクスたちを救う途は閉ざされる。否、二人を救うこと自体は、バルトフェルドたちに委ねることができるかもしれない。だが、キラ自身の安否のほどは保障できない。
 ラクスたちを人質に取られた今、キラの抵抗などない等しく、最悪な場合、この場で殺されることさえ予測できた。
(死ぬつもりはないけど)
 それを想起させるかもしれない惨状をラクスに見せるのは躊躇われた。
 誰だって、目の前で大切に想う人が傷つけば、動揺し、その喪失に恐怖するだろう。
 キラがラクスを想うように、ラクスもキラを想ってくれていると、自惚れでもなく、そう思うから。
(だから)
 今は、もっとも、最良だと思う選択を。
 キラにとって、守りたいのはラクスの体だけでなく、心もだ。
「……分かった」
 その一言に、ラクスが息を呑むが分かった。
 その反応に小さく笑んで、キラは静かに老人を見据えた。
「だけど」
 その瞬間、硝子越しの瞳が底冷えするような冷徹な輝きを宿す。
「!」
 闇に沈む夜の静寂の、その突き刺さるような気迫に、老人は一瞬気圧された。
「彼女に髪一筋傷つけてみろ、僕は貴方たちを絶対に許さない」
 ゆっくりとキラは口元に笑みを立ち上らせる。
「もちろん、その子にも」
 有利な状況にいるのは間違いなく、男たちであるにも関わらず、彼らはたじろぎ、怯んでいた。
「もし、約束を破るようなら」
 すう、と紫の双眸が緩やかに細められる。
「その時は」
 そのまま、刻まれる笑みは普段のキラから予想もつかない仄暗いものだった。
 そして、キラの唇が一つの言葉を紡ごうとした瞬間。


「キラ」


 静かな、それでいて強い清廉な声音が、その瞬間を阻んだ。
 ゆっくりとキラが、その声の主である少女を見やる。
 まっすぐに注がれる眼差しはどこまでも澄み、強い。だが、その蒼い瞳に揺らぐのは否定の色だった。
 言うなと、告げるなと、そう訴える瞳。
 音というカタチにして、傷つくのはキラ自身だと訴えるなき声に、キラはかすかに微笑んだ。
「……大丈夫だから」
「ッ!」
 その瞬間、ラクスは自身に向けられた銃口のことなど忘れたようにキラに向かって駆け寄った。
 咄嗟に、男たちが銃口を向け、引き鉄を引こうとするが、次いで、老人の杖が上がり、それに制される形で押し留まる。
「キラ……!」
 縋るように抱きついてきた華奢な体を抱き留め、キラは冷えた心が温もりを取り戻すのを感じた。
「ラクス」
 そっと、少女だけに聞こえるように耳元で名を囁く。
 ラクスの存在を、その正体を知られる訳にはいかず、叶うならば、何度でも呼びたかった名をようやく口にできた喜びに吐息が零れた。
「ごめんなさい」
 小さく謝るラクスの言葉に、キラは苦笑した。
「何で、謝るの?」
「……」
 強く抱き締め、キラは細い背を撫でた。
「ラクスは間違ってないよ。あの子を、独りにしてはダメだ」
「キラ」
 そして、キラは唇を噛み締めるラクスを見下ろして静かに微笑した。
「僕も助けたいから」
 ラクスは俯き、小さく頷いた。
「だから、待ってて」
「は、い」
 ゆっくりと距離を取り、ラクスはぎこちなく微笑みを浮かべた。
「お待ちしています」
 そっと両手を胸の部分で握り合わせ、一言一言に想いを込めて、告げた。


「わたくしはキラを信じていますわ」


 幾度となく、告げられた言葉。
 だが、そこに込められる想いは決して同じではない。
 その証に、ラクスの握り合わせた手はかすかに震えている。
 わずかに双眸を伏せ、キラはその手に自らの手を重ねた。
 それはラクスの抱く不安を包み込むような優しい仕草だった。
「僕も」
 静かに続けながら、キラはにこりと微笑んだ。
「ラクスを信じてるよ」
 その一言に、ラクスは微笑んで、ゆっくりと踵を返した。
(大丈夫、わたくしは一人ではない)
 一人で戦っている訳ではない。
 遠く離れても、繋がる想いがある。
 手に、背に、そして、全身に残る温もりが見えぬ絆を教えてくれている。
「別れの挨拶は終わったかの?」
 泰然とした態度を崩さぬ老人に、ラクスはふわりと微笑んだ。
 別れの挨拶などではない。
 キラとラクスが交わしたのは再会の約束だ。
 その信じるものを歪めぬまま、貫くための誓約と言ってもいい。
 だが、ラクスは老人の言葉を否定することなく、答えた。
「お待たせ致しました。参りましょう」
 囚われるのではなく、自分自身の意思で行くのだと言外に告げられ、老人が軽く目を瞠り、次いで、ちらりとキラを見つめて面白そうに笑む。
「……どうやら、ただの子どもではなさそうじゃ。まぁ、良い、いずれ、暴いてくれようて」
 不穏な言葉を聞いても、ラクスは微笑みを消さなかった。
 かつりと老人が杖で地面を叩く。
「!」











 その瞬間、ラクスは自身の耳が捉えた渇いた破裂音に、心が一気に冷えるのを感じた。
 全身から、血の気が引いていく。


「あ」


 かすかに開いた唇から、かすかな声が零れた。
 ゆっくりと、ぎこちなく、ラクスは体を動かした。
(確かめなければ)


――イヤ。


(違う、きっと、わたくしは何か思い違いを)
 そんなこと、あるはずがないのだから。
(交渉は成立したはず……!!)


――ソンナコト。


 キラが。
 倒れて、いること、なんて。



「――――ッ!!」



 振り向いた瞬間、視界に飛び込んできた光景に、ラクスは自制することを放棄した。


「キラ……?」


 ゆっくりとした足取りで、ラクスは地に倒れ伏しているキラに近寄り、座り込んだ。
「キラ?」
 呼びかけに、返る応えがない。
 ラクスは歪む視界に双眸を細め、ぎこちなく手を伸ばした。
 震える指先が、そっとキラの柔らかな髪を梳き、現われた首筋に、躊躇いながら触れた。


「……!!」


 次の瞬間、緊張に強張っていたラクスの体から力が抜けた。
(生き、て、る)
 完全に意識がないのか、ぴくりとも動かないが、キラは生きていた。
「……ッ」
 大きく息を吐き、ラクスは瞳を閉じた。
 溜まっていた涙が溢れ、ラクスの白い頬を静かに伝い、雫はキラの頬に滑り落ちた。
 そして、ラクスはゆっくりと肩越しに振り返る。
「……これは、何のつもりですか」
 消しきれない動揺が残る声で、ラクスは問い質した。
 相手に、自身の動揺を知られても、もはや構うものか。
 取り繕う理由など、すでにない。
 ラクスの鋭い視線に動じることなく、老人は平然と答えた。
「何、この場を立ち去るのに、少なからず邪魔になるのでな」
 その返答に、ラクスは唇を噛み締めた。
「さて、後は、その少年次第じゃ。我らはゆるりと待とうではないか」
 そうして、老人は軽く手を振った。同時に、男たちがラクスを取り囲む。
 無言の威圧に、ラクスは薄く双眸を伏せた。意識のないキラの横顔に視線を止め、不意に上半身を傾ける。
(キラ……)


「わたくしの想いは、いつも貴方と共に……」


 次いで、顔を上げたラクスは静かに立ち上がり、老人を見据えた。
「一言、宜しいですか?」
 凛とした風情で立つ、その姿は儚い花のようであるのに、その小さな体から放たれる静かな存在感は揺るぎない。
「……何かな、お嬢さん?」
 老人に促され、ラクスは口を開いた。
「あまり、わたくしを怒らせないで下さいな」
「うむ?」
 殊更、ラクスは穏やかに、あるかないかの微笑を口元に刻む。
「わたくしを怒らせると、怖いですわよ?」
 その一言に、老人は器用にも片眉を上げてみせた。そして、泰然と笑んで呟く。
「なるほどの、情が強いは恋する女の特徴じゃな」
「……」
「じゃが、所詮、幼き者の戯言じゃ。できぬことを言わぬ方がよかろうよ」
「さぁ、それはどうでしょうか」
「!?」
 老人の訝しげな眼差しを受け、ラクスは薄く笑んでみせた。
「戯言は貴方の方かもしれませんわよ?」







「で、そっちの状況はどうかね?」
 モニター画面に映る相手に軽く尋ねると、同時に、バルトフェルドはコーヒーの香りに満足げに双眸を細める。
「どうもこうも、受け入れ態勢を整えるのに必死ですよ」
「苦労をかけね、『マリア・ベルネス』くん」
「全くですわ」
 苦笑気味に返したのは作業服姿の女性だった。
 柔らかな空気を纏う美女だが、かつてその身を包んだ軍服よりも作業着服が馴染んでいるように見えることに、バルトフェルドは奇妙な感心を覚える。
「まさか、もう一度改修することになるなんて、こちらも予想外の事態です。しかも、なんです、この外装の傷は」
 手元の資料を覗き込み、マリア・ベルネスと呼ばれた女性――マリューは柳眉をひそめる。
「改修前でも、こんな傷を作った覚えがありませんよ」
 一体、どんな無茶な指揮をしてくれたんです?  文字通り、命を託した戦艦に思い入れがあるのだろう。マリューの鋭い一瞥に、バルトフェルドは笑って躱すしかない。
 ヤキン・ドゥーエでの戦いを終えたアークエンジェルの損傷は甚大だった。それをオーブのホムラを始めとするウズミの志を継ぐ者たちによって、密かに改修されたのである。
 それが、さほど時を置かず、再びの改修である。
 突っ込みたくなるのも道理だ。だが、こちらにも事情というものがある。
「仕方ないだろう。そういう状況になってしまったんだから」
 コーヒーカップを口に運び、バルトフェルドは肩を竦めた。
 その返答に、マリューの表情が翳る。
「……聞いていますわ。キラ君、あれを使ったんですって?」
 自由の名を冠する最強の『剣』。
 それに新たに宿った、力――絶対の『盾』。
 強大な力は人が持つには余りある。聡明な少年が、そのことに気付き、揮うことに傷つきはしなかったろうか。
 マリューの愁いを帯びた問いに、バルトフェルドは苦笑した。
「キラなら大丈夫だ。ラクスがいる」
 その答えに、マリューはかすかな笑みが零した。
「そうですわね。それで、その二人はどうしているんですか?」
 その瞬間、バルトフェルドはニヤリと笑った。
「デートだ」
「あら、まあ」
 次いで、マリューはくすくすと笑った。
「不幸中の幸い、ですわね」
 同じ年頃の少年少女たちが当然のように持っている時間を、キラとラクスが過ごせるのは二人を見守る『大人』として喜ばしいことだ。
「全く」
 二人して、微笑み合った瞬間だった。
 通信画面の片隅に、緊急事態を示す赤いサインが表示される。
「……?」
「どうかしました?」
 ふと、笑みを消したバルトフェルドに、マリューの訝しげな問いが放たれる。
「……どうやら、何かあったらしい」
「!」
 瞬間、表情を引き締め、マリューは口を開いた。
「では、こちらのことは任せて下さい。『オケアノス』の受け入れ態勢が整い次第、アークエンジェルを降下及び収容し、改修に入りますから」
「頼む」
「こちらこそ、あの二人のことお願いしますね」
 静かに笑むマリューに頷き、バルトフェルドは通信を終了した。
続けて、別回線に繋ぎ始める。
「俺だ。ダコスタを呼んでくれ」












 雑踏の中、少年の姿はすぐに見つけられた。
 待ち合わせの定番になっていると思われる建物の並列する柱に寄りかかり、少し瞳を伏せている様は賑やかな街中に溶け込んでいながら、際立っている。
 ちらほらと年頃の少女たちが視線を向けているのに、彼は思わず苦笑した。
 本人に自覚はないだろうが、彼の容姿は優れていている。
 その人柄まで加えて考えると、さぞかしモテるのだろうと邪推しつつ、ダコスタは苦笑した。
 このままでは、逆ナンパなどという事態になりそうだ。
 その前に、彼に接触しなければならない。
 ゆっくりと人ごみを擦り抜け、彼は少年の側近く立った。
「……お久しぶりです、キラ君」
 視線を行き交う人々に向けたまま、ひっそりと挨拶すると、ほんの一瞬、少年が身じろぐ気配がした。
「ダコスタ、さん」
 視線は合わせず、彼は他人の振りを続ける。
「あの人に言われて来たんですけど、何かありましたか?」
 大雑把な気質を持つ上司は呼びつけて、キラのところへ行って来いと言ったきりで何の説明もしなかった。
 不平を零しながらも、彼が動けるのは長年務めた副官としての経験と信頼ゆえだ。
「……ラクスが、攫われました」
 低い小さな声は、ともすれば雑踏に掻き消されてしまうほどのものだったが、ダコスタの耳にはしっかりと届いていた。
「な」
 何故。
 続く疑問は、不意に消えた。
「キラ君?」
「はい?」
「君……怪我をしていませんか」
 一瞬、沈黙が降りる。
 少し、掠れたキラの声。
 喉に張り付くような呼吸の間隔。
 ラクスが攫われた動揺と受け取るには熱を帯びたそれには覚えがあった。
「よく、分かりますね……」
「君より経験者ですから」
 モビルスーツ戦闘においてはキラの方が上かもしれないが、格闘や銃撃戦となるとダコスタの方が上だ。それも、経験を重ねれば、キラの方が勝るのかもしれないが、生来、優しい気質の少年がそんなことに慣れてしまうのは望ましくない。
 最終的に、キラ自身が選んだものだとしても、誰の目から見ても、彼は傷ついていた。
 これ以上、戦いに慣れない方がいいと、人の良いダコスタは常々思っていた。
「ホテルに戻って、手当てを」
「いえ」
 ダコスタの言葉を、キラは即座に拒んだ。
「掠り傷、ですから」
 その返答に、ダコスタは思わず大きな溜め息を吐いた  キラが一緒にいて、むざむざとラクスが攫われるのを見過ごすはずがない。
 そんなキラがいながら、ラクスが攫われたのだとしたら。
(あの連中の残党、か……?)
 ザフトの戦艦を数隻保有し、見たことのないモビルスーツを繰り出した、襲撃者たち。
 その裏にいたはずの黒幕は依然として掴めていない。
 彼らはラクスを拉致しようとした当初、どこかに連れて行く様子だった。
「……ラクスの発信機は?」
 ラクスにもキラが持つものと同じ非常用の発信機を渡してある。
「今のところ、何も……」
「そうですか」
 発信機の作動に望みをかけていたのだろう。キラは小さく溜め息を零し、柱に重心を傾ける。
「それにしても、一体、何が狙いで、ラクス様を……」
「え」
「……え?」
 ややあって、キラが小さく声を洩らした。
「あ、違います」
「え?」
「彼らはラクスが『ラクス』だということを知りません」
 その言葉の意味をするものを理解して、ダコスタは眉をひそめた。
「じゃあ、何で」
 ダコスタの問いに、キラはゆっくりと事の次第を説明した。
「ゲヘナ……」
「ええ、それが鍵だと思います。何か、ご存知ですか?」
 クライン派の情報網は広い。
 ダコスタなら何か知っているだろうと思惟を向けるキラに、ダコスタは困惑を滲ませた。
「いえ、特には。……ただ、気になるのが一点」
 そして、ダコスタは続けた。
「その子の父親が死んだとするなら、すでに警察に連絡が入って何らかの動きがあってもおかしくないのに、今のところ全く気配がありません」
「それ、は……?」
「圧力がかかって、もみ消されている可能性がありますね」
「圧力」
 小さく呟き、キラは薄く双眸を伏せる。
「キラ君?」
「いえ、確かに、そんな感じだなと」
 かすかに苦笑を滲ませ、キラは溜め息を吐いた。
「とりあえず、探るなら、その線からですね」
 ダコスタの言葉に、キラは小さく頷いた。
「お願いします」
「で、キラ君はどうします?」
 その言葉はキラの反応が固まった。
「キラ君?」
「僕は、ハロを探してみます。それが条件ですし」
 ダコスタは軽く頬を掻き、困ったような笑みを浮かべて視線を周囲に泳がせた。
「……大丈夫ですか」
「平気です」
 そして、キラはゆっくりと凭れていた柱から背を離した。
そのまま、視線を移して、ダコスタに微笑む。
「適当に、やりますから」
 その瞬間、硝子越しの瞳に見つけた光に、ダコスタは息を呑んだ。
「!」
 微笑を含んだ紫の瞳。
 だが、炎にも似た揺らめきは、到底穏やかだとは言えない。戦慄さえ齎す、その眼差しの深さ。
 少年の細い姿が人ごみに紛れて消えるのを見送り、ダコスタは脱力して、柱に凭れかかる。
「こ、怖かった……」
 静かな、決意を秘めた微笑は底知れぬ強さと、一切の躊躇を断ち切った、ある種の最後通告そのものだ。
 キラが動くと同時に、幾つかの気配が離れていくのを感じ取り、ダコスタは嘆息した。
「やれやれ、本当にラクス様とお似合いですよ」










 不思議な気分だった。
 行き交う人々に紛れ込んで、歩きながら、キラはどこか一歩退いた視線で、世界を睥睨していた。
 深く、身の裡の奥底から溢れてくるのは、怒りだ。
 キラは間違いなく怒っていた。
 怒っているのに、ひどく意識は冷めているのが分かった。


(ラクス、ごめん)


 油断した自身が許せない。
 銃弾に倒れたキラをラクスはどんな思いで見たのか、それを考えるだけで、深い憤りに呼吸が止まりそうになる。
 たとえ、あのまま、ラクスが連れて行かれるのを見送るしかできなかったのだとしても、これほどの怒りをキラが覚えることはなかっただろう。
 ふと、キラは足を止め、視線を上空に向けた。そして、何かに気づいた様子で、再び、歩き出す。
 何度か同じ事を繰り返しているうちに、キラは大通りから外れて、ウォーターフロントに出ていた。
 真空の闇に浮かぶ都市ティトポリスには小規模な海があった。もちろん、人工的に造られた海だが、その蒼さや光の乱反射する美しさは、地球の海を思わせ、人々に憩いを与えているのだろう。
 視界の隅に、キラたちが宿泊するホテルが見えた。
 そして、ゆっくりと視線を巡らせたキラは点在するベンチの上に、ちょこんと止まっている緑色の小鳥を見つけた。
「トリィ」
 歩み寄りながらキラが呼びかけると、トリィはこくりと首を傾げた。
〈トリィ?〉
 ベンチの上で軽く飛び跳ねるトリィに、キラはすっと手を差し伸べた。
 すると、トリィは心得ているように、ふわりと翼をはばたかせ、キラの手の甲に乗る。
 その瞬間だった。
 ベンチの背後にあった茂みが、がさりと音を立てた。
 薄暗い中、きらりと輝く、二つの光点。
「!」
〈アカンデェ〜ッ!!〉
 突然、飛び出てきたハロに、トリィが逃げるように鳴いて飛び立つ。
 キラは咄嗟に手を前に出し、勢いよく突撃してきたハロを掴んで止めていた。
「……ハロ?」
〈アカンデェ、アカンデェ〉
 しきりに、パタパタと耳を動かし、丸い双眸を光らせるハロの様子は尋常じゃない。しかも、いつもより熱い。
(オーバーヒートしかけてる?)
 キラは柳眉をひそめ、次いで、ゆっくりと振り返った。
「何か、御用ですか?」
 声をかけるより先に、気付かれたことに驚く二人の男に、キラは密やかに笑った。
 神経が過敏になっていたのだろう、キラが監視に気付いたのは意識を取り戻した直後だった。
 その監視があるからこそ、キラは非常用の小型発信機を使ったのだ。
 そのことを薄々察していたのか、現われたダコスタもあくまで他人の振りをして接触してきた。
 そして、キラがハロを見つけると同時に、彼らが現われるのは予測の内だった。驚く必要など、どこにもない。
 その上で、キラが用件を尋ねたのは一つの疑念があったためだ。
「……そのロボットを渡してもらおう」
 驚きから立ち直ると同時に、放たれた言葉に、キラは静かに双眸を細めた。
「約束を、破る気ですか」
 返答は、男たちの懐から引き抜かれた黒光る塊だった。
 やはり、とキラは銃口に晒されながら独白する。
 彼らに――正確には、あの老人に、約束を果たすつもりなどないのだ。
 対等ではない約束など、優勢な立場にあるものにとって、その価値は低い。相手にとって、どれほどの意味があるのかなど考えもしないのだろう。
「投げずに転がせ」
 キラの返答はすでに決まったものとして男たちは話を続ける。
「……」
 その傲慢な態度に、キラはかすかに双眸を伏せ、手元のハロを見つめる。
 ハロの発熱は少しずつ上昇しているようだ。
 キラはゆっくりと腰を屈め、ハロを男たちの立つ方に向けて転がした。
 紫の視線がハロを追う。
(……3、2、1)
「ハロ!」
 その瞬間、ハロの瞳が一際強く輝いた。
〈テヤンデェ!!〉
 転がっていたハロが突然跳ね上がり、男の一人の顔面に直撃した。
「!?」
 思いがけない衝撃にもだが、不意に感じた熱さに、男は動揺した。もう一人も、突然のことに唖然となる。
 それが、決定打となった。
 俊敏な獣さながらに地面を蹴ったキラは、唖然としている男の懐に飛び込み、銃を持つ腕を取り、勢いよく投げ飛ばす。
「!!」
 取り落とした銃はキラに蹴り上げられ、海中に没した。
「貴様……!」
 ハロを振り払った男が憤怒の表情で銃口を、振り返るキラに向けた瞬間。
〈トリィ!〉
「な!?」
 するりと眼前を横切った緑色に、一瞬、男の持つ銃の照準が彷徨った。
 その瞬間、キラは回し蹴りを男の首筋に放っていた。
「ぐッ……!」
 傾ぐ体に、止めとばかりにキラの膝蹴りが鳩尾に入った。
 呻いて倒れる男の緩んでいた手から銃が奪い、キラはそのまま、くるりと振り返り、起き上がろうとしていた男の眉間の銃口を押し当てた。
「……ッ!」
 わずか数十秒で、形勢が覆り、男は痛みに眉をしかめながら、キラを睨み付けた。
「僕は」
 息一つ乱すことなく、キラは冷ややかな声を紡いだ。
「言ったはずだ」
 静かに紫の双眸が細められる。
 夜明けの色と称されることがあるキラの双眸は今、深い闇を湛えていた。
「許さないと。約束を破るようなことがあれば、その時は」
 がちりと激鉄を起こす音に、男の顔が強張る。
「……できないと思ってるなら、それは間違いだ」
 そして、キラはふわりと微笑んだ。


「僕の手は、すでに血に塗れてる」


 とっくの昔に。
 ストライクに乗る前から。
 そう、生まれた時から。
 人の夢、最高のコーディネーター――それを望んだ実父が、どれだけの命を犠牲にしたのか、キラは知らない。
 だが、脳裏に蘇る声が、厳然たる事実を突きつける。


『失敗に終わった、同胞たち』
『数多の犠牲の果てに創り上げられた、唯一の成功体』


 それは否定したくても、否定できない現実。
 悪夢の残滓は、今も、真空の海に残っている。
 無人の地で、魂の色かと思う、青い光を纏って。
 殺意はないにも関わらず、その時が来れば、引き鉄を引くと、その悲痛に満ちた声音で察し、男の顔の強張りが増した。
「だから」
 ゆるりと紫の瞳が男を捉える。
「教えて下さい、二人がいる場所を」
「だ、誰が」
「でないと、僕はこの引き鉄を引くしかない」
 静かに浮かべたキラの表情は痛みを堪えて微笑むそれだった。
「僕は、二人を助けたいから」
 何の情報も得ずに、このまま放置しておくことは危険すぎる。少なくとも、他の仲間との連絡が取れなくなるようにしなければ、キラではなく、ラクスたちに危険が及びかねない。
 無言で注視するキラに臆して、男は震える声で、ゆっくりと呟いた。
 その瞬間、キラの顔に安堵の笑みが浮かんだ。
「ありがとう」
「!」
 その晴れやかな笑みに、一瞬、気を取られた男の後ろ首にキラは銃床で鋭い一撃を叩き込む。
 瞬く間に意識を失った男を一瞥し、もう一人の男もまた意識を失っているのを確認した後、キラは自分の手元に残っている『武器』に視線を留めた。
 思わず、渋面になり、キラは勢いよく銃を海の中に投げ捨てる。
 ずっと掛けっぱなしだった眼鏡を外し、キラは今聞いたばかりの情報を口の中で繰り返した。そして、キラはかすかに笑んだ。
「……さあ、反撃開始だ」













 その瞬間、それまで大人しくしていたハロが暴れるように、周囲を飛び跳ねていた。
〈ハロ、ゲンキ! ハロハロ!?〉
 勢いよく、飛び跳ねて、またどこか行ってしまいそうなハロに、キラは我に返った。
「ハロ!」
 咄嗟に、キラは手を伸ばして、ハロを捕まえた。
〈認メタクナーイ、認メタクナーイ!〉
 キラはハロの抗議を聞きながら、その電源に触れる。
 そのとたん、ハロの双眸から光が失われ、動きが完全に止まる。
 一息吐いて、キラは持っていた携帯電話を取り出した。
 監視の目がある時は使えなかったが、今なら使っても問題ない。
 短縮機能を使い、指定番号に電話をかけると、コール一回で相手が出た。
「バルトフェルドさん?」
「よぉ、そっちはもういいのか」
 バルトフェルドの開口一番の言葉に、キラは苦笑した。
 ダコスタから連絡があったのだろう。キラの置かれた状況を踏まえた上での発言だ。
 キラに監視がついていることを、ダコスタも気付いていた。
「ええ、適当にやりましたから」
「ほほう」
 電話の向こうで、バルトフェルドが軽く眉を上げ、笑うのが分かった。
「で、何か進展はあったかね?」
 大らかに聞こえる声音に含まれる真剣な響きに、キラは真顔で答えた。
「ええ。ラクスたちのいる場所が分かりました」
「!」
「それから、ハロも見つけました」
 キラが男から聞き出した情報を話すと、真剣を帯びた声が返ってくる。
「……少し遠いな。分かった。すぐに車を回す。大通りに向かえ」
 キラの居場所は発信機で追跡されている。今、どこにいるか聞く必要などないのだろう。
 キラは足早に歩き出した。
〈トリィ〉
 キラの後を、トリィは羽ばたきながら後を追い、ふわりとその肩に舞い降りる。
 ややあって、キラが大通りに出ると同時に、一台のワゴンが通り沿いに止まった。
「乗って下さい!」
 窓から顔を出したダコスタに頷き、キラは車の後部に乗り込んだ。
「!」
 乗った瞬間、ワゴンの中の物々しい空気にキラは気付いた。
 一見、ごく普通のワゴンの内部は、幾つかのパソコンや機器に溢れ、乗っていたバルトフェルドを始めとする数人の男たちは武装していた。
「キラ」
「バルトフェルドさん」
「それで、あったかね。ゲヘナという代物は」
 その問いに、キラは手元のハロを見やった。
「いえ、これから確認します」
「?」
 訝しがるバルトフェルドに、キラは続けた。
「恐らく、それはハロの内部――データの中に」
「!」
 驚きに息を呑み、次いで、バルトフェルドは部下に視線だけで命じる。すぐさま、男の一人が、キラに解析用のパソコンを譲る。
「ありがとう」
 短く礼を言い、キラは端末をハロに繋ぐ。そして、その内部データを検索し始める。
「確証は」
「オーバーヒートしかけていました」
 データ容量増大による過負荷。
 それが、ハロの行動パターンに狂いを齎し、発熱させているとキラは考えた。
 画面上を流れていく数字と英文の羅列を視線で追いながら、キラは忙しく指を動かす。
(行動原理システム、音声プログラム、伝動プログロムに異常なし。後は)
「あった……!」
「キラ?」
「データを移行します」
 圧縮されているにも関わらず、容量のあるデータに、眉をひそめつつ、キラは作業を続ける。
「隊長」
 キラの作業を見守っていたバルトフェルドは部下に呼ばれて、肩越しに振り返った。
 自身の作業に没頭していたキラは気付くことなく、指を運び、そして、データを解凍して現われたファイルを開いた瞬間、その表情が強張った。
「これ、は」
「キラ」
 我に返り、キラはバルトフェルドを振り仰いだ。
「圧力をかけていた相手が分かったぞ」
「誰ですか」
「サマエル財団、医療事業を中心とする財団だ」
「医療、企業……」
 息を呑むキラに気付き、バルトフェルドはその手元の画面に表示されたデータに、なるほどと呟いた。
「また、物騒なものを」
 皮肉げに呟くバルトフェルドの声を聞きながら、キラの思考はたった今、知った事実に混乱していた。
(ただの医療企業が、これを……?)
 否、そんなはずはない。
 これは、『ゲヘナ』の意図は明らかだ。
「お前が聞き出した場所にある建物は、所有こそは別会社だが、実質はそこの医療研究施設ものだ。間違いないな」
 その瞬間、キラに向かって、バルトフェルドは何かを投げ渡した。
 咄嗟に受け取ったキラは、ずしりと手にかかる冷たい重みに、息を呑んだ。
「ッ!」
「持っておけ」
「……バルトフェルドさん、僕は」
 表情を歪めるキラに、バルトフェルドは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「保険とでも思っておけ。使うか使わないか、お前に任せる」
 思わず、キラは唇を噛み締めていた。
 いざという時、使うか否か。
 答えはすでに出ていた。
 だからこそ、キラは手にすることを拒みたかった。
 力があるから、人は揮う。
 それは一つの事実だ。
「今から、俺たちが行くのはそういうところだ」
 すでに知っているはずだと眼差しのみで言われ、キラは緩々と頷いた。
 穏便にラクスたちを取り戻せるなど考えていない。
「分かっています、けど」
 渋るキラに、バルトフェルドは苦笑した。
「ラクスも望んじゃいないだろうがな、お前にソレを持たせることを」
「ラクスは、優しいから」
 キラが傷つくならば、持たなくていいと言ってくれる。


『望むのも、手放すのもキラの自由ですわ』

 そう言って、キラの選択を、受け入れてくれる。
(ラクス、僕は……)
 かすかに笑みを零し、キラは瞳を閉じて銃を握り直した。
「分かっては、いるんです。分かっているから」
「持ちたくない?」
「ええ……でも、今更、です」
 儚い笑みを浮かべ、開いた双眸に強い意志を見つけ、バルトフェルドは内心感嘆の声を上げた。
「もう、僕は選んでいるから」
 守るための力を。
 必要な時に躊躇わぬことを。
 そして、守るべきものを。


(ラクス)


 脳裏に過ぎった、双眸を潤ませた少女に、キラは囁きかけた。


(必ず、助けるから)


 その瞬間、キラの顔が感情の色が消える。
 では、今、男から得た情報が真実であるという裏付けは取れない。
「……行くか?」
「ええ。……約束しましたから」
 待っていてとキラは告げ、そして、ラクスは待っていると言ってくれた。
「分かった。他の連中も、追って向かわせる」
 緩やかに走っていた車が徐々に速さを増すのが分かった。
 キラは瞳を閉じ、祈るように、不安に包まれているかもしれない少女に想いを傾けた。
(ラクス……どうか無事で)
 手に感じる冷たい重みに、負けぬように。











10




(……キラ?)
 ふと、呼ばれたような気がして、ラクスは思わず振り返っていた。
 だが、その先にあるのは嵌め殺しの窓のみ。
 かなりの高層部にあるのだろう。厚い強化硝子の窓から見える景色は、整然と植え込まれた木々と、高い塀だけだ。
(気のせい?)
 だが、次の瞬間、ラクスは心の裡から否定の声を上げた。
 違う――キラは呼んでいる。
 ずっと、ラクスが心密かに呼ぶように。
 だが、今の感覚は――。
 柳眉をひそめ、ラクスは唇を噛み締めた。どうしようもなく、心が騒ぐ。
 また、何か無茶なことをしているのだろうか。
 つい、先日も彼女を庇って銃弾を受けたばかりのキラを思い返し、ラクスは物憂げに溜め息を零した。
「お姉ちゃん……?」
 心細そうな声に、ラクスは我に返った。振り返り、不安に揺れる少年の瞳に微笑みを浮かべる。
「どうかなさいましたか?」
 ふるふると首を振り、少年は俯いた。
「……」
 ずっと、ここに着てから、この調子だ。
 倒れたキラから引き離され、ラクスたちは高級車に連れ込まれた。その直後、麻酔薬を嗅がされ、気付いた時には、どこかの医療室めいた殺風景な部屋にいた。
 硬い寝台の上で目覚めたラクスはすぐに自身の確認と、少年を起こした。
 何もないだろうが、万が一、ということはある。
 確認した結果、隠し持っていた発信機がなくなっていた。
 それに気付き、ラクスは杞憂を抱かずにはいられなかった。
 普通の一般人は、発信機など持って歩いてなどいない。
 だが、元々、老人はラクスたちが只者ではないと訝っていた。発信機の一つや二つ持っていても納得するかもしれない。
 問題なのは、ラクスの正体が知れることだ。
 発信機一つで、身元が割れることはないとは思うものの、疑念は捨て切れない。
 小さく嘆息し、ラクスはゆっくりと腰を屈めた。そして、寝台の上に座り込んでいる少年を見上げるようにして、覗き込む。
「話して下さい」
「!」
 びくりと大きく震え、少年は動揺して緑の瞳を見開いた。
 追い詰めるつもりはない。だが、何も知らぬままでは、もはや、いられない。
「わたくしに、話すことはできませんか?」
 重ねて問うと、少年は涙を零して口を開いた。
「……ご、ごめんなさ……ごめっ! こ、こんなことになるなんて、僕……っ!」
 ラクスは微笑して、少年をそっと抱き寄せた。
 少年はついに堪え切れず、ラクスの優しい温もりに縋るようにしがみついた。
「でも、でも、これしかないって! お、お父さんがッ! あいつらに奪われる訳には」
「ゲヘナ、ですわね」
「ッ!!」
 その瞬間、少年がびくりと震えた。
「あ」
 少年の身に怯えが走る。
 それに気付き、ラクスは微笑んだ。
「大丈夫ですわ。わたくしたちは、大丈夫です」
 少なくとも、他の人より、この事態を打開できる術を持っている。ラクスたちが関わることになって、それは、もしかすると不幸中の幸いだったのかもしれない。
「ですから、話して下さいな」
 ね?
 優しく微笑むラクスに、少年は唇を噛み締めた。
 そして、深呼吸をし、少年は溢れた涙を拭って口を開いた。
「ここは、研究所なんだ」
「研究所?」
「うん。……お父さんは、僕の、本当のお父さんじゃない」
 ちらりとラクスの顔色を伺い、頷くのを見て取り、話を続ける。
「お父さんは、研究者で、そして、僕は、ここの実験体、だったんだ」
「実験体……?」
 思わず、不穏な単語に、ラクスは柳眉をひそめた。
「うん、僕は『カナン』って呼ばれてた」
「カナン? ガヴィ、ではなくて?」
 その瞬間、少年が弾かれたように顔を上げた。
「どうして、その名前……!」
 ラクスはにこりと微笑みかけた。
「お父様がそう呼んでいらっしゃったでしょう?」
 ラクスの言葉に、少年――ガヴィは頬を赤らめた。
「う、うん」
 そして、ガヴィは話を続けた。
「カナンっていうのは、僕の名前じゃない。カナン01、02、とか呼ばれている子が他にもいて……僕はカナン32だった」
 そうして、話しを聞くうちに、ラクスの顔から笑みが消える。
 医療室に似ていると思ったのは間違いではなく、この研究所は医療施設のものだった。
 しかも、研究内容は遺伝子学。
 ガヴィに振られた番号が察するに実験体となった子どもたちは少なくとも、彼以外で三十一人いたことになる。
 この平穏そのもののティトポリスで、人体実験が行われていたことに、背筋が震えるような思いがし、ラクスの脳裏に、否応なしに、L4コロニー『メンデル』にあった研究施設の存在が思い起こされた。
 そして、虚空に消えた施設も。
(キラ……)
 何の関わりがなければいい。
 そうでなければ、また、キラが傷つく。
 哀しい顔をして欲しくない。
 脳裏に浮かぶのは数時間前、見たばかりの穏やかな笑顔。
 それが哀しみに歪むのは見たくなかった。
 そうしているうちに、ガヴィの話は続き、問題の『ゲヘナ』に至る。
「ゲヘナっていうのは、ここで、研究されていた兵器なんだよ」
「兵器」
 こくりと頷き、ガヴィは何かを思い返すように視線を遠くに注ぎながら続けた。
「うん、僕も詳しくは知らない。けど、お父さんは言ってたんだ」


――これが世界に広がれば、人間は時限爆弾を持って生きるようなものだ。
――人の命を淘汰する権利など、誰にもないのに!


「淘汰……」
 静かに繰り返し、ラクスは思考を巡らせる。
 医療研究所。
 遺伝子学。
 人体実験。
 兵器。
 淘汰される命。
 時限爆弾に比喩されるもの。
(考えられるものは……?)
「!」
 不意に、ラクスの脳裏に閃くものが走る。
 その瞬間だった。
 コン、と軽い音がした。
 深く考えず、振り返ったラクスは、一瞬、硬直した。
 まるでドアをノックするような気軽さで窓硝子を叩く少年が振り返ったラクスに気付いて、にこりと微笑む。
 皮製のジャケットを着て、小型無線機のヘッドセットをつけたその顔をラクスは知っていた 「キ」
 ラ!?
 驚愕の声は、窓の向こう側で、口元に人差し指を当てるキラの仕草に封じられた。
 ガヴィに至っては、声も出せず、ぽかんとなっている。
 それも、そうだろう。ラクスたちのいる部屋の外に足場になるところなどないに等しいのだ。
 そこに、人がいるなんて普通は思いもしない。
 ラクスは我に返って、窓に駆け寄った。
「キラ……危ないですわ!」
 ラクスの表情と、唇の動きで、何を言っているのか察したのだろう。キラの紫の瞳がきょとんと瞬き、次いで、悪戯めいた微笑みが浮かぶ。
『大丈夫だよ』  唇の動きより、直接、心に聴こえるような錯覚を覚えながら、ラクスはキラが何を言っているのか理解した。
「でも」
『それより、そっちは大丈夫?』
 わずかに翳る紫の瞳に、気遣いの色を見つけて、ラクスは無意識のうちに強張っていた体から力が抜けるのを感じた。
 ふわりと微笑み、ラクスは頷く。
「ええ、わたくしもガヴィも」
『?』
 きょとんとするキラに、ラクスは微笑んで、少し体をずらした。
 その先に、まだ呆けている少年を認め、キラの表情が和らぐ。
「キラ」
 無意識のうちに、ラクスの手が窓硝子に伸びていた。
 硝子を挟んでラクスとキラの手が重なる。
 じわりと伝ってくるような温もりに、ラクスは泣きたい衝動に襲われた。咄嗟に、唇を噛み締め、双眸を細めて、微笑みに変える。
『ラクス……』
 困ったように、キラは柔らかく微笑み、そっと窓硝子に額を押し当てた。
 ラクスも引き寄せられるように、額を窓硝子に当てる。
『大丈夫……僕は平気だから、ね?』
「キラ……」
 堪え切れず、閉じたラクスの瞳から一筋の涙が伝い落ちる。
 分かっていた。
 キラが無事だったことは、迎えに来てくれることは、再会が約束されていることは。
 それでも、あの時、一瞬で刻まれた恐怖はラクスの奥深くに氷塊のように凝っていた。
 ずっと抱き続けていた不安が現実になったような感覚は、忘れたいのに忘れられない。
 きっと、忘れることなどできない。
 ずっと、抱き続けるのだ、キラを想う限り。
 けれど。
(貴方の側にいれば)
 それはどこまでも愚かな不安であってくれる。
 アイリーン・カナーバの召還を拒み、ラクスがキラと共にオーブに身を寄せることを選んだのには幾つかの理由があった。
 政治的な理由、今後の視野を入れた予測、そして、キラの側にいたいと思った自身の想い。
 だが、もはや、『いたい』ではない。
 キラの側にいなければ、ラクス自身が不安でどうにかなってしまう。
 これは弱さだ。
 ラクス・クラインが持ってはならない脆弱な心だ。
(でも、これが、今のわたくし)
 ひたすら、キラを失いなくないと思う。
 失いたくないのだと、幼い子どもさながらに叫んでいる。
 それではダメなのだと訴えかける自身の内なる声に、ラクスは苦痛を覚えた。
『ラクス』
 優しい声に促されるように、ラクスがそっと瞳を開くと、キラがふわりと光に解けるような微笑を浮かべるのが見えた。
『大丈夫だよ』
「!」
 キラの言葉は、先ほどと同じように、単に、不安に思っているラクスを気遣うものだったのだろう。
 だが、ラクスにとって、今、紡がれた言葉は今のラクスの在り様を許す言葉に聞こえた。
 怖がっていいと。
 恐れていいと。
 弱くてもいいのだと、言ってくれているような気がした。
(キラ)
 そう思うのも、ラクスの弱さなのだろうか。
(キラ、わたくしは)
 不安と戦うと決めたばかりなのに。
(本当は、ずっとずっと誰よりも弱くて愚かなのかもしれません)
 それでも、傷つきながらも戦うことを選んで立つキラの傍らに在りたいと、並び立つ存在でいたいと思うのは過ぎた望みなのだろうか。
 ラクスはゆっくりと瞳を閉じて、深呼吸をした。
『ラクス?』
 呼びかけるキラの声に、ラクスは緩々と笑みを浮かべた。
「……大丈夫ですわ」
 小さく呟き、そして、もう一度、ラクスは繰り返した。
「わたくしは、大丈夫です」
 今は強がりでもいい。
 今は戦うことはできなくても、せめて、弱い自身からは逃げない。
「わたくしは大丈夫ですわ」
 にこりと微笑みかけると、キラの双眸が柔らかく笑みを含んだ。
『うん』
 そして、キラは微笑んだまま、続けた。
『ラクス、もうちょっとだけ、待っててくれる?』
「キラ?」
 何をする気だろうかとかすかに柳眉を寄せるラクスに、キラは小さく笑いかけた。
『大丈夫だから。できるだけ、窓から離れてて。うん……できたら、何か物陰とかに隠れてくれると嬉しいんだけど』  しばし、躊躇い、ラクスは少し考えてから頷いた。涙を拭い、キラの眼差しに促され、後ずさるようにして窓から離れる。
「お姉ちゃん……」
 窓から離れ、戻ってきたラクスに、戸惑った声音がかかった。
 キラの登場とラクスの様子に明らかに驚いている様子だ。
 ほんの少し、恥ずかしく思いながら、ラクスは静かに微笑みかけた。
「ガヴィ、貴方もこちらに」
「う、ん」
 頷いて、ガヴィは寝台から立ち上がった。
「何をするの?」
「すぐに分かりますわ」
 そう答えて、ラクスは困ったように微笑んだ。
「キラは意外に思い切りが宜しいから……」








11



 居続けるには不安定な窓際から離れ、キラは斜面となっている屋根に寄りかかり、ヘッドセットに備わっている無線機触れた。
「こちら、キラ・ヤマト」
 かすかな雑音が流れ、次いで、バルトフェルドの声が届く。
「あー、バルトフェルドだ。そっちの状況はどうだ?」
 相変わらず、緊張感が欠ける声音に、キラはそっと笑んだ。
 男がキラに告げたのは、都市部から離れた工業区画の一画にある医療研究施設だった。
 厳重な警備システムに囲まれた建物。
 警備の人間が本来持つには過ぎた武装。
 よくよく観察してみれば、ただの医療研究施設にしては不穏な光景だった。
 バルトフェルド率いるクライン派の実戦部隊は精鋭だ。
 キラたちは施設の警備システムに侵入し、感知システムの一部を切り、手際よく、侵入を果たしていた。
「ラクスたちを見つけましたよ」
「ほぉ、やるねぇ。さすがだ」
 感嘆の声に潜む鋭さに、キラは双眸を細めた。
 キラたちの最大の懸念が、ラクスたちの所在だった。
 まず、何より、二人の安全を確保しないことには動きようがない。
 キラの報告は、バルトフェルドにとって待ち望んでいた朗報だった。
「幸い、すごい協力者がいましたから」
 さらりと答え、キラはちらりと視線を上げた。
〈トリィ〉
 木々の間から、するりと光沢のある緑の小鳥がキラの肩に舞い降りる。
〈トリィ?〉
 トリィが小首を傾げる仕草に、微笑み、キラは意識を再びバルトフェルドに向けた。
「でも、ちょっと問題が」
「ん?」
「ラクスたちが幽閉されている部屋の窓硝子が強化硝子です」
 叩き割ることは元より、銃弾でさえ、割ることは難しい。
 キラの言いたいことを察したのか、無線機の向こう側でバルトフェルドが笑った。
「分かった、派手にやればいいんだろう?」
「ええ、お願いできますか」
「ああ、すでに幾つかメイン電源や要所に、陽動用にしかけてある」
「さすがですね」
 言いながら、キラは隠し持っていた小さな銀筒を取り出し、それを二つに割ると、別の隠しから出した粘着性のあるゴムに片割れを沈め込む。それをペタリと窓硝子と枠の隙間に埋めるように取り付け、キラはその場から離れた。
「タイミングはいいか?」
 確認を取るバルトフェルドに、キラは残った銀色の片割れを握り込み、答えた。
「はい」
 そして、キラは視線を窓に据えた。
「……五……四」
 バルトフェルドのカウントに、キラも心の中で唱和する。
「……三……二」
(……三……二)
 姿勢を低く取り、キラは衝撃に備えた。
「一」
(一)
 キラの手に力が加わる。


(!)


 その瞬間、窓辺が爆発した。
「ッ!」
 規模は小さいとはいえ、不安定な場所で、しかも、充分な距離を取っているとは言い難い位置での爆発だ。
 衝撃をやりすごし、キラはその威力に軽く目を瞠った。
 小型で小規模範囲だが、威力は優れているとダコスタのお墨付きだった高性能爆弾だ。
(ちょっと、すごすぎかも……!)
 窓枠部分が吹き飛ばされるどころか、続く屋根の部分が瓦解しかけている。
「ラクス……!」
 室内にいるラクスたちの安否を思い、キラは慌てて動いた。
 屋根の上に飛び散った硝子が耳障りな音を立て、駆け寄りたい思いのキラを押し留める。
「ラクス……?」
 ゆっくりと歩み寄り、爆発でできた穴の縁に手をかけ、キラはするりと室内に降り立った。
「キラ……」
 部屋の片隅にガヴィと身を縮めるように座り込んでいたラクスは現われたキラを恨めしげに見上げた。
「……もう少し、大人しいものはなかったのですか」
 ある程度、覚悟していたとはいえ、予想以上に爆発に、さすがのラクスも驚いていた。ガヴィに至っては蒼白になって硬直してしまっている。
「ごめん」
 苦笑して謝りながら、キラは手を差し出した。
 ラクスは引力でもあるかのような自然さで、キラの手に自らの手を重ねた。その瞬間、引き起こされるが、爆発の衝撃は思っていたより大きく、足に力が入らない。
「!」
 咄嗟に、キラの胸にラクスは体を預ける形になった。
「ッ!」
「……大丈夫?」
 不意の出来事にも関わらず、ラクスを支えても揺るがないキラの力強さは紛れもなく、『男』のものだった。
 ラクスの思考が、一瞬、真っ白になり、体温が上昇した。
 だが、気付かれなくない思いがそれ以上の反応を自制し、小さく礼を言って離れる。
「あ、ありがとうございます」
 そして、ラクスはまだ固まっているガヴィに話しかけた。
「ガヴィ……大丈夫ですか?」
「う、うん……平気、だけど」
 ラクスの手を借りて、立ち上がったガヴィは呆然と部屋を見回した。
 何に驚いているのか察して、ラクスはゆるりと周囲を見回し、溜め息を吐いた。
「……こんなことをして、他の方々に気付かれてしまいますわよ」
 言葉の向ける先は苦笑しているキラである。
「大丈夫だと思うよ、バルトフェルドさんたちが引き付けてくれているから」
 キラが爆破すると同時に、バルトフェルドたちも仕掛けていた爆破装置を作動させている。
 警備の目はバルトフェルドたちに向いているのだろう。現に、まだ他の人間がくる気配がない。
「今の内に、脱出しよう」
 ラクスたちさえ、救出してしまえば、キラたちに留まる用はないのだ。バルトフェルドたちも、その時点で退くことを決めている。
「ええ。ですが、どこから?」
 通路に続くドアは当然電子ロックされている。専用のカードキーがなければ開閉はできないうえ、内側からは開けられない。
 まさか、爆破でできた穴から脱出するのだろうか。
 眼差しで問うラクスに、キラは小さく笑った。
「これ、なーんだ?」
 次の瞬間、目の前に現われた鮮やかなピンク色に、ラクスは驚きの声を上げた。
「まあ、ピンクちゃん!」
〈ハロハロ!〉
 ぽーんとキラの手から跳んで、自身の手に収まったハロを、ラクスはまじまじと見つけた。
〈ハロ、ゲンキ! ラクス、ゲンキ!〉
 パタパタと耳を動かす愛嬌のある仕草に、ラクスは思わず微笑んだ。次いで、あることを思い出して、ゆっくりとキラに視線を向ける。
 その視線を受け、キラが微笑して頷く。
 その紫色の瞳に翳りの色を見つけ、ラクスもまた、やはりと憂いを含ませ、双眸を伏せた。
 ゲヘナ――煉獄の名を与えられた『兵器』。
 キラがハロを見つけたということは、ゲヘナの何らかの情報を得たということだ――少なくとも、ラクスよりは詳細に。
 キラの翳った瞳から感じ取られた感情は悲痛に似ていた。
「キラ」
 ラクスの言いたいことを察しているにも関わらず、キラは別の言葉を紡いだ。
「僕がやってもいいんだけど、設備の問題で、ね」
「……大荷物になりますものね」
「うん、だから、ハロに手伝ってもらおうかなって」
 にこりと悪戯めいた笑みを浮かべ、キラはハロを見やる。
〈ハロハロ!〉
 まるで、ハロはキラの言葉を理解したかのように、飛び跳ねてドアの方へ向かう。
「あらあら……ピンクちゃんは本当に閉じ込められるのがお嫌いですこと」
 ラクスは一つ苦笑して、ハロを見た瞬間に強張ったガヴィに優しく話しかけた。
「ガヴィ、大丈夫ですか?」
「あ……」
 後悔を滲ませ、言葉を探すガヴィに、ラクスは柔らかく双眸を細めた。
「ガヴィも、貴方のお父様も間違ったことはなさっていません。正しいと思われたのでしょう? だから、そうしたのでしょう?」
「でも!」
 その瞬間、ラクスはふわりと微笑んだ。
「大丈夫です、貴方々の選択を無駄には致しません。どうぞ、信じて下さいな」
「……」
 ガヴィは戸惑い、ゆっくりとラクスの傍らに立つキラを見上げた。
 その視線に受けて、キラも柔らかく微笑む。
 微笑む二人を見比べ、ガヴィはゆっくりと頷いた。
「うん……信じる。お兄ちゃんとお姉ちゃんを、信じるよ」
 会って数時間しか経っていないガヴィの言葉を信じてくれた二人だ。
 信じられるとガヴィは思った。
「信じる」
 ぎこちなく、ガヴィが笑った瞬間だった。
〈ハロ!〉
 不意に大きく跳ねて、ハロがガヴィの手元に飛び込んでくる。
「!?」
 驚くガヴィに、ハロが叫んだ。
〈オ前モナー!〉
 目を丸くするガヴィに、ラクスはくすくすと笑った。
「ピンクちゃんは貴方のことを信じているようですわね」
「ぼ、くを……?」
「えぇ」
 ガヴィの頬をほんのりと赤らむ。
「もちろん、わたくしたちも、ですわ」
 ガヴィはハロを抱き締めて、頷いた。
「……うん」
 その様子を穏やかに見つめていたキラは、ふと表情を変えた。
「二人とも、そろそろ、いい? あんまり時間を取ると、危ないから」
 バルトフェルドたちが相手の注意を引くには充分すぎる時間が経っている。
 キラの言葉に、ラクスは静かに表情を引き締めた。
「ええ、では参りましょう」











12



 部屋から出た通路は医療施設というより、軍事施設に似た印象を持っていた。無駄なものは一切なく、天井の隅には等間隔に設置された監視カメラが並んでいる。バルトフェルドたちの陽動爆発で、メイン電源が落ち、サブ電源が作動しているのか、赤い非常灯が周囲をほのかに照らし出している。
 キラは監視カメラの電源が落ちていることを確認し、ラクスとガヴィを誘った。
「二人とも、こっち!」
 警備システムに侵入した時に入手した施設の見取り図を脳内に描きながら、キラは二人を先導して北に向かった。
 施設は全部で四つの棟から成り立っている。正面ゲートから見える北棟が一番の面積を持ち、表向きまともな研究を行っていることはここまで侵入する際に確認している。
 残りの三棟は地上にある規模こそは小さいが、地下施設が隠されていた――そこに何があるのか知るつもりもなければ知りたくもないが。ラクスたちがいたのは、その内の西棟だ。
「さっきの爆破で、警報が鳴ったはずだから、こっちの人たちは避難しているはずなんだ」
 向こうにとっても、襲撃ではなく、単なる事故で済ませたいところだろう。関係のない者は早々に引き上げさせる指示が下っているはずだ。
「……全部、予測なんだけどね」
 頼りなげに呟いて微笑むキラの瞳は密やかな決意が宿っていた。
 できるならば、誰もいなければいい。
 もし、誰かに出くわしたなら、それがラクスたちを連れ去った男たちの仲間だったら。
(その時、僕は)
 隠し携えた拳銃の重みが不意に強く感じられた瞬間だった。
「キラ」
 声音に含まれた思惟を鋭く察したのだろう、凛とした声でラクスは呼びかけ、キラの手にそっと触れる。
「大丈夫ですわ、途は一つではありません」
「ラクス」
「キラがご無理をなさる必要はありません」
 キラはほんの一瞬、双眸を瞠り、ラクスの手を握る。
「……うん、ありがとう」
 仕方ないと、そうやって諦めて力を揮う、それが過ちの始まりなのだろう。
 力は力。
 そこに善も悪もない。
 揮う者の意志が、そして導き出される結果が、力に意味を与える。
 ラクスが託してくれた『剣』はキラの想いを現実にするだけの力を有し、そして、応えてくれた。
 それは、手にする力が別のものでも、揮うキラが同じように望むなら、同じはずだ。
 引き鉄を引く覚悟はある。
 誰かを傷つけてしまう覚悟も。
 だが。
(誰かを傷つけることになっても、僕は、殺さない――)
 望むものが同じでも、叶える方法は一つではないと信じたい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、あれ!」
 ふと何か気づいた様子でガヴィが指差した。
 通路が途切れ、広い空間に現われていた。
 足早に向かうと、そこには三階程度の高さを吹き抜けにした正面玄関ホールだった。
 人は誰もいない。警報によって慌てて避難したのだろう。どこか雑然としている雰囲気が残っている。
「キラ、あちらから降りることができそうですわ」
 ラクスの言葉に、停止したエスカレーターを見て、キラは頷いた。
「行こう」
 キラが二人を先に行くように促し、エスカレーターの途中まで降りた時だった。
 鋭く貫くように閃いた感覚に、キラは息を呑み、考えるより先に体を動かしていた。
「ッ!!」
 覆いかぶさるように、前にいたラクスとガヴィに飛び掛り、一気に階下へと落ちる。
 同時に、エスカレーターが爆発し、炎と煙が巻き起こる。
「う……ッ!」
 飛び散った破片が右腕に突き刺さり、キラは低く呻いた。
だが、すぐに破片を引き抜いて、素早く身を起こす。
「お、お兄ちゃん……!」
 間近に聞こえた少年の声に、キラはかすかに微笑んだ。
「ガヴィ、怪我は?」
「ないよ、僕よりお兄ちゃんが!」
 破片が刺さったキラの右腕は徐々に赤い染みが広がりつつあった。
「これくらい平気だから。それより、ラクスは」
 その瞬間、キラの顔から表情が消えた。
 爆発の余韻で残る煙の向こうに、唇を硬く引き締めてラクスは立っていた。
 その背後には、一つの人影。
「……ッ!」
 その人影の正体を見て取り、キラは低く唸った。
「キラ」
 小さく詫びるように呼ぶラクスに、キラはかぶりを振り、そして、鋭い眼差しを人影――少女の背に銃口を押し付けている男に向けた。
 キラは束の間記憶を探り、ラクスたちが攫われた時にいた男たちの中に、目の前の相手がいたことを思い出す。
「よくも、ここまで好き勝手にしてくれたものだ」
 キラたちを見て、現状の実態を察したのだろう。
声音には苦々しさが含まれていた。
「やはり、あの時、始末しておくべきだったな」
 その一言に、ラクスの肩が小さく跳ねた。
 その反応を見て、キラは双眸を細めて、男に向けて微笑みかけた。
「それは、僕の台詞ですね」
 あの時、キラが撃っていたなら間違いなく、男たちは死んでいた。その確信もまた、キラにはあった。
(……だけど)
 ラクスが教えてくれたことをもっと早くに気付いていたなら、こんな危険な目にラクスやガヴィを合わすことにならなかった。
(僕は、いつだって同じところで迷ってる)
 何度も、何度も。
 そうして、気付くたびに悔やんでいる。
「ゲヘナはどうした?」
 男の問いに、キラは我に返った。
「あれを見つけたのだろう? それさえ、渡せば、見逃してやっても構わん」
 ゆっくりとキラは双眸を細めた。
(この状況で?)
 次の瞬間、まるでキラの心の呟きが聞こえたかのように、不意にラクスが口を開いた。
「なりません、キラ」
 凛とした声音で、ラクスは続けた。
「渡したところで、こちらの方々にわたくしたちを無事に帰すおつもりなどありませんわ」
 キラ自身、そう思っていたが、あっさりと断言するラクスに、思わず柳眉をひそめる。
「ゲヘナというものが、遺伝子レベルの生態兵器であるならば、少しでもそれに関わったわたくしたちを見逃すなどということはありません」
「な、お前、どこでそれを!?」
 動揺して銃口がわずかにラクスの背から離れる。
 その感触にかすかに瞳を伏せ、ラクスはちらりと男を見上げた。
「あら、図星ですか」
 微笑さえ含み、ラクスは静かに続けた。
「随分と大層なものを欲しがっていらっしゃいますこと。一体、どこのどなたのご希望でしょう」
 静かに向けた蒼い眼差しは冷然と澄んでいた。
 決して、有利とはいえない状況下で、精神的な優位を作ろうとしているラクスに、キラはそっと息を吐く。
 ラクスは相手の動揺を誘い、隙を作るつもりなのだろう。
 キラはちらりとガヴィを見やり、ゆっくりと肩から力を抜いた。


「genetic hastening extinction neutron nano‐acceptor」


 不意に届いた呟きに、男は息を呑み、弾かれるようにキラを見やった。
「――これに感染した人間は遺伝子を書き換えられ、ある時期になると細胞崩壊を引き起こす」
 硬直している男に、キラは冷ややかに見つめ、ゆっくりと懐から一枚の黒いディスクを取り出して告げた。
「!」
 男の意識がキラの手にあるディスクに集中した。
「遺伝子ウイルス――それがG.E.H.E.N.N.A」
 ナノレベルでの遺伝子感染だ。ゲヘナに感染したものは、間違いなく、死に至る。
 これは、偶発にできてしまったものではない。
 ハロに隠されたデータには細胞崩壊時期を任意で定めることが記されていた。
「そ、それを寄越せ!」
 上擦った男の言葉に、キラは一瞬ちらりとラクスを見つめた。
 まっすぐに見返してくる蒼い双眸に、かすかに笑んで、キラはディスクを男に向けて投げた。
「!」
 咄嗟に男の手がディスクに伸びる。
「ラクス!!」
 その瞬間、ラクスが男に振り返り様に鋭い蹴りで銃身を跳ね上げる。
「ッ!?」
 ふわりと舞い翻る長い裾に惑わされ、男の視界からディスクが消える。それでも、手を伸ばしたと同時に、渇いた破裂音が響き渡った。
「ッ!」
 次の瞬間、男が見たものは撃ち抜かれて弾け跳ぶ黒いディスクだった。咄嗟に、次に見やった先には腰を落とし、低い体勢で銃を握っている少年の姿。
 力の加わった指先と、その銃口のわずかな震えに、何が行われ、何が起きたのか男は瞬時に理解した。
「……ッ」
 傷を負った腕で引き鉄を引いた衝撃が思ったより強く、表情を歪めて、キラは唇を噛み締める。
(まずい、傷が)
 破片が突き刺さった箇所はつい先日の戦いで傷を負った場所だった。
「キラ!」
 その声に、キラは我に返った。
 同時に、駆け寄ってくるラクスの背後で、男が気色ばった顔で、懐からもう一丁の銃を引き抜くのが見えた。
 咄嗟に、キラは銃を再び持ち上げる。
 だが、次いで、痺れるような熱い痛みを腕に感じ、キラは唇を噛み締め、銃を放り捨てた。
 伸ばされた手を掴み、その華奢な体ごと引き寄せ、抱き込む。
「キ」
 ラ!?
 ラクスの驚愕は強く押し付けられたキラの胸に押し潰された。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんッ!」
 幼い声の叫びが貫き、連続した銃声が轟いた。
 思わず、ラクスは目を瞑り、強く抱き締めるキラの背に自身の腕を回した。
 だが、次に来るはずの衝撃は、いつまでも訪れることはなかった。
「……?」
 緩々と二人が視線を巡らすと、ゆっくりと倒れていく男の体が視界に入った。
「な、にが」
 突然の異変に、キラが小さく呟いた瞬間。
「よお! 間一髪ってところだな!」
 届いた声に、二人は弾かれたように顔を上げた。
 キラたちが少し前までいた二階部分に、銃を手にしたバルトフェルドが笑って立っている。
「バルトフェルド、隊長……」
 ラクスの呟きが聞こえたのか、バルトフェルドはちらりと視線を寄越し、薄く笑んだ。
「驚かせたかな?」
 茶化した物言いで問うバルトフェルドに、キラとラクスは揃って頷いた。
 それを満足げに眺め、バルトフェルドは一階へと身軽に飛び降りた。そして、硬直している二人に歩み寄り、笑いかける。
「ん? いつまで、そうやってる気だ? そういうのは時と場所を選びたまえ」
「は」
「え」
 何のことだと二人して訝しげに思った瞬間、キラとラクスは自分たちの状況を認識して、慌てて離れる。
「えええええと、ラクス、平気?」
「え、えぇ、大丈夫ですわ」
 側で、バルトフェルドが「今更な」と呆れているのにも、二人は気付いていない。
「お、お兄ちゃん、お姉ちゃん……」
 弱々しい呼びかけに、二人はゆっくりと振り返った。
「ガヴィ?」
 ラクスの優しい声に、ガヴィは唇を引き締めた。
「……大、丈夫?」
 見上げてくる緑の瞳には怯えの色があった。
 それに気付いて、ラクスはふわりと微笑む。
「心配をおかけしてしまいましたわね。でも、大丈夫ですわ、そう申し上げましたでしょう?」
「う、ん」
 それでも、ガヴィは不安そうにしながら、視線をキラに移す。
 キラも気付いて、穏やかな微笑みを浮かべる。
「驚かせてごめんね」
「ううん」
 そして、ガヴィはぎこちなく、床に落ちているディスクを見やった。
 キラの撃った銃弾はディスクの中心を貫いている。
「あれ……」
「あ、うん」
 ガヴィの言いたいことを察して、キラは頷いた。
「あれに、移し替えたんだ。……本当は、ちゃんと君の了承を得てから処分しようと思ってたんだけど」
 ゲヘナを持ち出したのはガヴィたちだ。
 その結末を見届ける権利がある。キラたちの一存で、処分してしまうには躊躇いがあったのだ。
「ううん、あれで、いい。あれでいいんだ」
 緩々と幼い肩から力が抜けていくのに、二人は気付いた。
 まだ、保護者の手が必要な幼い身に、ゲヘナはどれほどの重みだったろうか。
「そうですわ」
 不意に、ラクスはポンと手を叩いた。
「宜しければ、ガヴィもわたくしたちと参りません?」
「え」
「ガヴィと同じ年頃の子どもたちもたくさんいて、きっと楽しいですわよ」
「うん、友だちもたくさんできるんじゃないかな」
 にこりと微笑んで告げられた言葉を受け、ガヴィの頬が赤らむ。
「……うん」
 小さく頷き、ガヴィは笑った。


「ありがとう」













13



 その嬉しそうな微笑みに、二人が顔を綻ばした、直後。
「……!」
 まるで、時が止まったかのようにガヴィの表情が固まり、小さな体が倒れていく。
「ガヴィ!?」
 咄嗟に手を差し出したキラは受け止めた瞬間、息を呑んだ。
 ぬるりと手に感じる、感触は何だ。
(どうして)
 何故、小さな体がこんなにも重い。
「なん、で」
 震える唇から呟きが零れた瞬間。
「二人とも、伏せろ!」
 バルトフェルドが顔色を変えて叫ぶ。
「!」
 我に返ったのはラクスの方だった。
 咄嗟に、キラを抱き締めるようにして屈み込む。
 ラクスの頭上を弾丸が掠めた。
 銃声のない射撃に、舌打ちして、バルトフェルドも応戦する。
 だが、襲撃者は引き際を心得ているのか、すぐに銃撃戦は終わりを迎えた。
 そのことに気付き、バルトフェルドは険しく双眸を細めると、次いで振り返った。
「キラ、ラクス! さっさとここを離れるぞ!」
 今まで激戦を潜り抜けてきたバルトフェルドの感覚が危機感を訴えていた。
 これ以上、ここに留まっていては危険だ。
 その声に、顔を上げ、ラクスは厳しい顔つきで頷いた。
「はい……!」
 そして、素早くキラとガヴィを見やった瞬間、ラクスは言葉を失った。
「キ、ラ?」
 キラはガヴィの体を支えたまま、動かない。
 紫色の双眸は大きく見開かれ、体が小刻みに震えている。
「キラ」
 キラの視線はじわじわと赤く濡れていく手に固定されていた。
「あ……」
 かすかに零れ落ちた声に、ラクスは突然言葉にできない衝動に襲われた。
「キラ! しっかりなさって下さい、キラ!」
(ダメ)
 いけない。
(このままでは)
 キラが壊れてしまう。
 そう思った瞬間、ラクスは悲鳴のような声で叫んでいた。


「キラ、わたくしを見て下さい!!」


 一瞬、キラの肩が震え、緩々と視線が動いた。ぎこちないそれは、とても生きた人間のようには思えず、ラクスは祈るような思いで唇を噛み締めた。
 光を失っている紫の瞳が、ラクスの泣きそうな顔を映し、かすかに揺らいだ。
「……ラク、ス?」
 ぽつりと小さく名を呼ばれて、ラクスは双眸を細めた。
 零れそうになる涙を堪え、小さく頷く。
「えぇ、そうですわ、キラ」
 その瞬間、キラの肩が大きく震え、溜め息が零れ落ちた。その双眸が強く閉じられる。
「……キラ?」
 不安に駆られ、思わず呼んだラクスに、キラは目を閉じたまま、無言でかぶりを振った。
 もう一度、呼びかけようとした矢先、正面扉を突き破って、一台の車が走りこんで来る。同時に、後部座席のドアが横滑りに開き、険しい表情の青年が顔を出した。
 急ブレーキがかかり、耳障りな音を立てながら車が止まる。
「皆さん、早く乗って下さい!」
「ダコスタ、遅いぞ!」
「無茶言わないで下さい!」
 咎める上司に一言叫び、ダコスタは続けた。
「隊長、予定外の箇所から爆発が起こってるんですよ!」
 その瞬間、バルトフェルドの表情が鋭さを増す。
「誘爆……いや……」
 そして、バルトフェルドは厳しい顔つきのまま、首を巡らした。
「キラ、ラクス!」
 その声に反応し、ゆっくりとキラがガヴィを抱えたまま立ち上がる。
「キラ」
 後を追うように立ち上がったラクスの手が無意識のうちに、キラの腕に触れようとする。
 だが。
「行こう」
 静かに一言告げて、歩き出したキラに、ラクスの手が届かずに宙で止まった。
(キラ……?)
 振り返ることもしない背に、ラクスは一瞬呆然となった。
(キラがわたくしを、拒んだ?)
 そう思った瞬間、それは事実なのだとラクスは理解した。
 そして、それが何に起因するものなのか、その意図も同時に理解できた。
(キラ、貴方は)
 だが、次の瞬間、かかったダコスタの声に、ラクスは我に返る。
「ラクス様、お早く!」
「……えぇ」
 そして、ラクスは届かなかった自身の手を引き戻して、強く握り締めた。
「今、参りますわ」










 状況とは常に予想外の要素によって覆る。
 今回もそれなのだろうと、老人は自身の置かれた危うい状況下で冷静に独白した。
 断続的に聞こえる爆発の音に、予め、設置していた爆破装置が予定通り作動しているのが分かった。
 爆発で、彼らがしてきたすべての証拠は消える。
 後は適当に医療実験による事故として処理させれば問題ない。ただ、奪われたゲヘナのデータは惜しいが――。
(まぁ、仕方ないかの。……得難い情報も手に入ったことじゃしのぅ)
 二人の護衛に守られ、老人が隠し通路を抜けた瞬間だった。
 突然、護衛の二人の体から血が噴き出して倒れる。
「!」
 素早く視線を巡らし、老人は双眸を細めた。
 警戒していた護衛の二人に反撃の暇を与えぬ速さで、的確に心臓を狙い打ちしている。
「……良い腕じゃ。だが、これはどういうつもりかの」
 逃げる様子もなく、泰然と佇み、老人は暗がりから現われた人物に憮然と問いかけた。
「このような迎えを望んだ覚えはないんじゃがのう?」
 そして、老人はかつりと杖で床を小突いた。次いで、老人の眼差しが鋭さを帯び、静かだが威圧感を伴った一言が放たれる。
「あの若造めが、何を考えておる?」
 その瞬間、老人の足元に銃弾が打ち込まれた。
「……言葉を謹んでもらいたい、アドレー・サマエル老」
 低く、感情を押し殺したような声は若かった。
(奴の子飼いか)
 老人の脳裏に、若造と称した『彼』と対面した時に見かけた少年の姿が過ぎる。
 そうして、思いを巡らし、老人は薄い笑みを浮かべた。
「なるほどの、読めたわ。此度の一件、デリー・ロスを唆したのは奴じゃな」
 自身を裏切り、『ゲヘナ』のデータと実験体『カナン32』を奪い去った研究者の名を呟き、老人はゆるりと視線を巡らした。
「大方、貴様らの企み事をデリーが察し、儂だけではなく貴様らも裏切った。それで、慌てて、奴はおぬしを放った、と言ったところかの」
 相手の気配を探るように眼差しを伏せ、老人は続ける。
「そうすると、狙いは……この儂か。さては、あの若造、この儂を足がかりにする気じゃな?」
 無言で答えようとしない相手に、くつくつと低く笑いながら、老人は頷いた。
「確かにのぅ、奴が我らの席に連ねるには何処かの席が空かねばならぬ。アズラエルが席はジブリールが埋めたゆえ、他の者の席を狙うは必定。その的に、長年の付き合いのある儂を置くとは迂闊であったわ」
 笑いを収め、老人は不敵に笑った。
 がちゃりと撃鉄を引き起こす音がし、いよいよ窮地に立たされて、尚、老人は笑みを消さなかった。
(だが、愚かよ)
 向けられる銃口を見据え、老人は嘲笑った。
「飼い主に伝えるがよいわ、貴様は大きな過ちを犯したと」
「黙れ」
「予言をくれてやろう。望むものが何であれ、貴様の思い通りにはなりはせぬわ」
 すでに、その予兆を見た。
 長い黒髪――調査と多少姿が異なっているが――の救国の歌姫『ラクス・クライン』。
 そして、その『盾』で、『剣』であると思われる夜明け色の瞳の少年『キラ・ヤマト』。
 この二人が、奇しくも一件に関わってきた、その事実。
 それこそが、何やら運命めいて思えた。
 そう、今、対峙する相手の背後にいる者が、クライン派を踏襲する穏健派に名を連ねていることを踏まえると尚更に。
 短時間での調査でも、二人の価値がいかなるものか、老人にはすぐに理解できた。
 片や、プラントに絶大な影響力を誇る存在。
 片や、最高のコーディネイターとして生み出された存在。
 想いを語る者と、力を有する者。
 彼らの望む安穏たる平和など興味もないが、まっすぐに相手を想い、意志を貫く様は見ていて清々しささえ覚える。
 そう思うのは、年老いた身であるためか。
 あの二人の姿を思い浮かべ、老人は笑った。
「黙れ!」
 老人の笑みに、激昂の叫びが轟いた。
 次の瞬間、引き鉄が引かれる。
 その動きをつぶさに見つめ、老人は、自身の死を望んだ人物の名を心の内で叫び、嘲笑った。
(その名に相応しき末路を、煉獄にて嘲笑おうやるわ!)





「――以上をもって、『煉獄』の消去を完了しました」
 落ち着いた声音の報告に、彼は柔らかく微笑んだ。
 傍らの通信モニターに画像はない。代わりに、音声のみの通信であることを示す表示が黒い画面に浮かび上がっているだけだ。
「そうか、分かった。すまなかったね、限られた休暇だったというのに」
「いえ……お役に立てるのなら構いません」
 生真面目に返ってくる言葉に、彼は思わず苦笑していた。
「だが、本当に助かったよ。あんな生態兵器をプラントに持ち込まれる訳にはいかなかった」
「はい。……それと」
「うん?」
「例の『約束の地』ですが――」
 続く言葉に、彼はわずかに双眸を細めた。
「そう、か……それは非常に残念なことだ。『彼』自身には何の罪もなかったというのに――」
 脳裏に、保護者の影に隠れるようにしてしがみついていた子どもを思い浮かべ、彼は嘆息した。
「ええ、本当に不幸なことでした。このような状況にさえ、ならなければ」
「全くだ」
 遺伝子ウイルス『ゲヘナ』に対する抗体ともいうべきナノ因子――cell collapse annulment attraction nano- factor――『C.A.N.N.A.N.』。
 その保持者であり、唯一、ゲヘナに感染して、尚、生き残った少年。
(あの時、あの場に居合わせなければ、こんなことにはならずにすんだろうに)
「本当に、不運だったとしかいえないな、『彼』は」
 小さく呟き、彼はゆっくりと続けた。
「ともかく、ご苦労だった。数日後には入学するのだろう? 早く帰還して休みなさい」
 それは、まるで父親か何かを思わせる内容と口調だった。
「はい。では、これにて」
「ああ」
 彼が応じると同時に、通信モニターの表示が終了のそれに変わる。
 そして、彼はちらりと机上の盤を見やった。
「まずは一手といったところか……」
 硝子製のチェス駒が薄暗い部屋の灯かりをほのかに反射していた。












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