ふわりと指先に止まった蛍に、女は静かに微笑みかけた。 水気を帯びた風が女の長い髪と衣をたなびかせる。 淡く、儚い光が乱舞していた。 無数の蛍たちに囲まれ、女は薄く瞳を伏せた。 金とも銀とも思わせる髪がさらりと揺れる。 繊細な美貌はまるで夢のように可憐で、溜め息が零れるほどに清らかだった。 女はゆっくりと空を見上げた。 星の瞬く空は遠い。 いつもなら晧々と輝いている月の光はどこか控えめだ。 「晴れて良かったですね」 不意にかかった声に、女の表情が厳しくなる。 「……何用じゃ」 硬い声に、背後の青年が苦笑する気配がした。 「何って……そうですね。今宵の七夕を共に過ごすため、じゃいけませんか?」 「戯れ言を」 一笑され、青年は軽く肩を竦めた。 「それはそうと、あの二人は何処ですか?」 女に忠誠と親愛を誓った二人の従者の姿がなかった。 「使いにやっておる」 「使い?」 「今宵の織女と牽牛は誰であろうのぅ……」 わざとらしい呟きだった。 「それをわざわざ調べに行かせたのですか?」 女は答えず、そっと瞳を閉じた。 一夜のみの逢瀬。 それを許された二柱の星神の伝説。 天上ではその夜だけ『織女』と『牽牛』に選ばれた神が星の川に架けられた橋の上で一時を過ごす。 「それで、何用じゃ、北斗の」 「いえ、ですから」 「これ以上、我が前で偽りを申せば、即刻滅ぼしてくれようぞ」 悠然と振り返った女の姿が漆黒に染まる。 「その力が妾にあること、ご存知でしょうに」 婉然と微笑む姿は美しかった。 女の持つ、もう一つの顔。 「月姫――いえ、朔……」 「妾の名を口にする権利はないはず」 蛍の光に照らされた青年の姿はどこか頼りなげだった。 「――貴女に殺されるなら、本望ですよ」 「北斗の」 「本当に、そう思っているんです」 青年は切なげに双眸を細め、躊躇いがちに女に手を伸ばした。 「私は、確かに嘘吐きだけど、貴女に告げた言葉はすべて真実です」 「北斗の」 「お願いですから、私の真の名を呼んで下さい」 そっと青年の手が女の頬に触れた。 その瞬間、女の姿が元に戻る。 月を司る、気高い魂。 それに相応しい、美しい姿。 青年が焦がれてやまない、唯一の存在。 「何ゆえ、我がそなたの名を呼ばねばならぬ?」 「私が望んでいるから」 青年の眼差しを避けるように女は瞳を伏せた。だが、その手を拒もうとはしない。 そのことに青年は少しだけ勇気付けられた。 「輝 女のもう一つの真の名を呼ぶと、華奢な肩が一瞬震えた。 「黙れ」 「貴女を愛してます」 「そなたが偽りに付き合う暇はない」 「……偽りにしているのは貴女自身ですよ」 「!」 不快げに眉根を寄せ、女は青年の手を振り払った。 だが、その手は逆に青年に捕われ、引き寄せられる。 「ッ!」 重ねられた唇に、女は瞳を大きく見開き、激しく震えた。 「七星 怒りに掠れた声で呼ばれた青年は、嬉しそうに微笑んだ。 「貴女だけです、私をそう呼べるのは」 明け方、最後の蛍を見つめ、女はゆっくりと身を起こした。 さらりと滑り落ちた衣を引き寄せ、女は嘆息した。 ふと視線を落とせば、いまだ眠りの海に漂う青年の顔。 その事実に、女は顔をしかめた。 そして、手際良く衣を身に纏い、音もなく青年から離れた。 別れを告げることなく、女が消え去ろうとした時。 山の向こうから日が昇る。 「一夜限りなら、偽りも真と信じられように……」 女の小さな呟きは朝の日差しに溶けて消えた。 |
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