ふと彼女は何気なく窓を見た。 その瞬間、数羽の鳥が木々を揺らして、蒼い空に飛び立っていく。 自由に、空を。 彼女は素直に羨ましいと思った。 (今の私とは大違い……) そして、彼女はゆっくりと今の自分の世界を見回した。 上等の絨毯が敷き詰められた床。 趣味の良い高価な調度品。 彼女の好みに合わせた部屋は居心地良く作られていた。 そのことがひどく疎ましい。 どんな人間であろうと、嫌なはずだ――三年も幽閉されていれば。 窓は嵌め殺しで、薄い癖に硬いガラスは壊れない。 部屋は広く、続きの部屋には入浴設備もあり、外に出なくても過ごせるように調えられていた。 外。 彼女がここに来てから、外の世界はどう変わったのだろうか。 (私と同じ年の子は……今は高校生……) 唯一、彼女と外を繋ぐ扉を見つめ、再び視線を窓の向こうの空に移した瞬間だった。 かちゃりとドアノブが回る音がして、扉が開く。 しかし、彼女は振り向かなかった。 扉を開くのは、ただ一人。 「おはよう、ちはや。食事を持ってきたよ」 ちはや――そう彼女を呼ぶのも、ただ一人。 三年の間、ずっと。 「相変わらず、口をきいてくれないんだね」 困ったような声を聞いても、彼女は微動だにしなかった。 ことりと食事を載せた盆をテーブルの上に置き、彼は彼女に近づいた。 窓にその影に映る。 中性的な整った容貌の青年。 「困ったね」 しかし、言葉と裏腹に青年の顔には楽しそうな微笑みが浮かんでいた。 長く伸びた彼女の黒髪を一房掬い取り、青年は軽くくちづけながら指に絡ませた。 「ちはやは頑固で困る」 さらさらと滑り落ちる髪の感触。 不意に、青年の手はちはやの顎にかかり、引き寄せた。 「!」 突然、唇を重ねられ、彼女は咄嗟に足掻くが、その容姿に反して力の強い青年には敵わない。 「ん、んん……ッ」 わずかな抵抗すら捻じ伏せ、青年は彼女の唇を割り、深くくちづけた。 執拗なくちづけ。 息すら貪られ、熱を移される。 足から力が抜け、ちはやの体が崩れそうになって、ようやく長いくちづけは終わりを迎えた。 くすくすと青年はちはやを支えながら笑った。 「随分と慣れてきたね」 その瞬間、ちはやの内で激情が走った。 怒りと憎しみを込めて、ちはやは青年を見つめた。 しかし、青年はうっとりと見惚れながら呟いた。 「……無駄だよ。お前の『力』では私を殺せない。虜にすることはできてもね」 そして、青年はそっとちはやの頬を撫でて、静かに離れた。 「さて、食事だ。温かいうちに食べないと冷めてしまう」 そう言っても動こうとしないちはやに気づいて、青年はくすりと笑った。 「それとも、また食べさせて欲しいのかな?」 その瞬間、ちはやの頬は朱に染まった。そして、再び睨みつけるが、青年は微笑みで受け流すだけ。 わずかな静寂の後、ちはやはゆっくりと青年を警戒しながら、席に座った。 くすくすと青年は笑いながら、ちはやの正面に座る。 「そんなに警戒しなくても今は何もしないよ」 その言葉に、食べようとしていたちはやの手が止まった。 「ほら、食べて」 青年は何でもなかったように食事を勧めた。 青年に観察されながら、ちはやは食事を始める。 どうして、こんなことになったのだろう。 自問に対する答えはいつも出ない。 自分の何がこの青年にここまで執着させるのか。 (この『力』のせい……?) 生まれた時から持っていた金色の左の瞳。 そのせいで、小さい頃からちはやは苛められていた。 時には心ない同じ年頃の子ども。 時には影で囁かれる大人たちの言葉。 しかし、今では彼らが気味悪がっていたのは間違いではなかったのかもしれないとちはやは思い始めていた。 金色の瞳には尋常ではない『力』が秘められていた。 だから、実の母は包帯で隠していたのだろうか。 『お母さん、どうして、私の左眼は金色なの?』 『さあ、そんなこと私が知る訳ないでしょ。ほら、さっさと寝て。お母さんは今から仕事なんだから』 『うん……』 『そう、ちはやはいい子ね』 物心ついた時、ちはやには母親しかいなかった。 世間には父親という存在がいることを知ったのは小学校に入ってからだ。 けれど、父親のいない子どもは多くて、それは気にするようなことではなかった。 それよりも色の違う金色の瞳が問題だった。 元々、内気だったちはやは左眼の包帯のことでからかわれることも多く、それを取られては金色の瞳で嫌な思いばかりしていた。 母親は小さな店を一人で経営して、毎晩働いていて、昼間は寝ていた。 いつも、ちはやは独りだった。 独りでなくなったのは皮肉なことに青年が現れてからだった。 最初は母の店で会ったことが始まり。 『こんばんは』 見下ろすのではなく、ちゃんと視線を合わせて青年は挨拶をした。 ちはやは青年の綺麗な顔に驚いて、母親の影に隠れてながら挨拶を返した。 『……こんばんは』 『ごめんなさいね、この子ったら人見知りが激しくて』 『いいえ、可愛らしいお嬢さんですね』 母親が会話に混じった時、ちはやは安心した。 母親に言葉を挟むまで、青年はその榛色の瞳でずっとちはやを見つめていたのだ。 ドキドキしながら、ちはやは母親に用件を告げて店の奥に逃げ込んだ。 綺麗で優しそうな人。 それが青年――瑞樹に対する最初の印象だった。 数ヶ月が過ぎた頃、青年はすっかり店の常連客になっていた。 他の客より格段に若い青年の存在を不思議だと思わないことはなかった。しかし、青年が来るようになってから母親は明るくなって笑うようになった。だから、ちはやは気にしなかった。 ある日、ちはやは彼と思いがけない所で出会った。 それが変化の兆しだとちはやは知らなかった。 人気のない神社でちはやは立ち尽くしていた。 大きな神木の高い位置にある枝に包帯が引っかかっていた。 もう何度目のことは分からない。からかわれて包帯を取られ、左の瞳を見られたのだ。その金色の瞳を見た瞬間、包帯を取った少年は驚いて、包帯を落とした。その時、運悪く風が吹いて、包帯は枝に引っかかってしまったのだ。 『あ……』 ちはやの細い声に我に返った少年は悪態をついて逃げ去った。 そして、ちはやは独りになった。 ちはやの背では包帯は取れない。しかし、他の誰かを呼ぼうにも左の瞳を隠さないまま会う勇気はなかった。 (どうしよう……) 『おや、こんなところで何をしているのかな?』 聞き覚えのある声を聞いて、安堵した瞬間、ちはやは慌てて神木の後ろに隠れた。 『ちはや?』 『ダメ。来ないで!』 『――どうしたんだ? 何かあった?』 『ごめんなさい、今はダメなの』 気味悪がれる。 そう思ったら、ちはやは動けなかった。 (もう、笑ってくれない) 怖かった。 怖くて怖くて身が竦んだ。 『ちはや?』 しかし、ちはやの思いなど知らない青年はあっさりとちはやの所に来た。そして、包帯をしていない左の瞳に気づいた。 『ダメ!』 咄嗟にちはやは座り込み、顔を隠した。 ほんの数秒の沈黙。 ちはやにとって生きた心地もしない時間だった。 『ちはや……』 びくりとちはやの肩が震えた。 『どうして、隠すんだ?』 いつもと変わらない、落ち着いた声に、ちはやは驚いて息を呑む。 『……気持ち悪くない?』 恐る恐る問いかけると、青年は不思議そうに答えた。 『どうして?』 『だって、みんな、変だって言うもの』 『ふうん?』 そして、青年はちはやの顔を上げさせようとした。 『ダメ!』 『いいから、見せてごらん』 『ッ!』 『大丈夫だから』 そして、ちはやの金色の瞳は青年の顔を映した。 『綺麗な色だよ』 『!?』 ちはやは驚いて、双眸を見開いた。 ずっとずっと嫌われていた金色の瞳。 母親でさえ隠すように言う左眼。 『……本当に?』 『本当に』 『嘘じゃない?』 『どうして、嘘を吐く必要があるんだ?』 『だって……』 『他の誰が何を言ったって、私には綺麗な瞳にしか見えないよ』 嬉しかった。本当に嬉しかったのだ。 嬉しさのあまり、声が出なくなるほど嬉しくて嬉しくて。 そう、ただ嬉しかった――その時芽生えた想いすら気づかないほどに。 「ちはや、どうした? もう終わり?」 食事する手が止まったのを見て、青年が声をかけた。 記憶の中と変わらない穏やかな優しい声。 けれど、それを素直に受け取ることができない。何故なら、青年の本質が穏やかさや優しさとは掛け離れていると知ってしまったから。 それは何の前触れもなく、起きた。 中学校から帰ったちはやは珍しく母親が起きていて、自分の帰りを待っていたことに驚いた。 『お母さん、どうしたの?』 『……ちはや』 『え?』 『どうして』 泣きそうな思い詰めた表情で母親はちはやを見つめていた。 『お母さん?』 『どうして、お前なの……? どうして……ッ!!』 その瞬間、ちはやは母親の手にナイフが握られているのに気づいた。 『お母さん!?』 ちはやの驚愕に弾かれるかのように、母親はナイフを振り上げた。 『お前さえいなければ!』 ちはやは必死に逃げた。しかし、驚愕と動揺は体の自由さえ奪ったのか、腕や頬に掠り傷を負い、左眼を覆っていた包帯が外れ、ちはやはすぐに追い詰められた。 『止めて、お母さん!!』 制止の声も届いていなかった。 今まで見たことのない恐ろしい顔で掴みかかられ、ナイフが間近に迫った。 ナイフの鋭い輝きがちはやの瞳を射る。恐怖に潤んだ双眸が熱くなった。 (嫌、死にたくない!!) ちはやが我に返った時、母親は倒れていた。 『……お母さん……?』 息も絶え絶えの様子で、ちはやは倒れた母親に近づいた。ゆっくりと触れて、その顔を見た瞬間、ちはやは言葉を失った。 母親は恐ろしい顔つきのまま息絶えていた。 『お、お母さん……?』 何が起こったのか全く分からなかった。 ただ怖くて、ちはやは震えながら壁際に座り込む。そして、自分の身を抱き締めた。 その時、扉が開く音がして、ちはやは大きく震えた。しかし、その向こうから現れた人物を見て、ちはやは息を呑んで抱きついた。 『瑞樹!』 ちはやは青年を名前で呼んでいた。 最初に会った時、『瑞樹お兄ちゃん』と呼んだら訂正されたためだった。 ――私はちはやの兄ではないからね。 けれど、名前で呼ぶのが何故か気恥ずかしくて、中々呼べなかった。 迷いなく呼べるようになったのは青年に金色の瞳を見られた時からだ。 『ちはや?』 『お母さんが、お母さんが、突然……!!』 泣きじゃくりながら、ちはやが訴えると、青年は宥めるように背を撫で、床に倒れて死んだ女を見て呟いた。 『……ちはやを殺そうとするなど愚かなことを』 その呟きを耳にした瞬間、ちはやは思わず青年の腕の中から顔を上げた。 『……瑞樹……?』 『可哀想に、ちはや。もう大丈夫だよ』 優しく微笑みかけられても、ちはやは安心できなかった。 母親に向けられた青年の言葉には冷たい響きがあった。 『瑞樹……どうして……笑って、いるの?』 青年はいつもと同じように穏やかに笑っていた。 目の前で人が一人死んでいるのに。 その呟きに、青年にはにこりと微笑んだ。その瞬間、ちはやの背筋がぞくりと震えた。 『ちはや』 そう呼ばれた瞬間、恐怖心が一気に弾けた。 『嫌ッ!』 青年の腕を振り払い、ちはやは闇雲に逃げようとした。しかし、すぐに青年の手によって引き寄せられた。 『ちはや、愛しているよ』 訳が分からなかった。 何故、突然そんなことを言い出すのか。 何故、そんなに嬉しそうに笑っているのか。 何故。 そして、ちはやはすべてを青年に奪われた。 「ちはや?」 いつもなら顔を背けるか、憎しみを込めた眼差しか向けないちはやが見つめてくることを訝しく思い、青年は呼びかけた。 「……どうして、私なの……?」 小さな、囁くような声に青年は軽く双眸を瞠った。そして、次の瞬間、蕩けぬばかりに優しい笑みを浮かべた。 「何度も言ったはずだけどね? 愛しているからだよ」 「……嘘」 不意に青年の榛色の瞳に鋭い煌きが過ぎった。 「何故、そう思う?」 怯えを追い払うかのように、ちはやは音を立てて立ち上がった。 「だって、だったら、どうして、こんなひどいことをするの!?」 強くテーブルを叩きつけ、ちはやは睨みつけた。しかし、その顔は半分泣きそうな表情だった。 「ひどいこと? 何が?」 「瑞樹!」 「あのまま放っておけば良かったと? 母殺しの罪を背負いたかったのか?」 ちはやは息を呑んだ。 「違う、私は……!」 「そう、お前のせいじゃない。悪いのは里絵だ。実の母親のくせに娘を殺そうとした彼女が悪い」 母の罪だと詰る青年の言葉に、ちはやは強張った。 「お母さんは、悪くない」 青年は軽く肩を竦めた。 「私は何故お前がそう言い張るのかが不思議だよ」 「悪いのは私の眼よ」 『邪眼』――ちはやの持つ金色の瞳に宿る力をそう呼ぶのだと教えてくれたのは青年だった。 その金色の眼差しはちはやの意志次第では死に至らしめることさえ可能だ。 (私の左の瞳がお母さんを殺した――) 「聞き分けのないことを」 そして、青年はゆっくりと立ち上がった。 ちはやは頬に触れようと伸ばした青年の手を躱して、後ろに下がる。そして、自分を叱咤して、長い間考えて抱き続けた疑問を口にした。 「お母さんは、どうして私を殺そうとしたの?」 ずっと分からなかった疑問。 「――何故、私に聞くんだ?」 ちはやは更に問いを重ねた。 「どうして、あの時、瑞樹はあそこにいたの?」 店が開く時間でもないのに。 (何故) 青年は穏やかに微笑んだ。 「ただの偶然だよ」 「!」 その瞬間、ちはやは大きく震えた。 「嘘」 青年の柳眉がわずかにひそめられる。 「ちはや」 「嘘だわ」 ぽたりと大粒の涙が零れた。 (嘘。嘘だわ) 「お母さんに何をしたの?」 「何もしていないよ」 「嘘」 ちはやは小刻みに震えながら後ずさった。 「瑞樹、貴方は知っていたのね?」 「何を?」 青年は静かに問い返した。 そのことが、逆にちはやに確信を齎す。 (知っていた……! 瑞樹は知っていた!!) 母親がちはやを殺そうとするのを。 逆にちはやが殺してしまうことも。 知っていて、止めなかった。否、それどころか。 (瑞樹は『そうなるように』した!) それは強い確信となって、ちはやの心を貫いた。 不意に背に硬い感触を感じて、ちはやは壁際まで追い詰められたことに気づいた。 「!」 「ちはや、言ってごらん。私が何を知っていたと?」 そして、瑞樹はゆっくりと手を伸ばし、ちはやの髪に触れ、愛しそうに梳いた。 「止めて、私に触らないで」 ちはやの弱々しい拒絶に、青年はくすりと笑った。 「ダメだよ、ちはや。お前は私の物なのだから」 何度も繰り返し聞かされた言葉。 所有権を主張する、その言葉。 どうしようもなく、身が竦む。 顎を捕えて近づいてくる瑞樹の顔をこれ以上見たくなくて、ちはやは双眸を閉じた。 「……嫌い、瑞樹なんて大嫌いよ……!」 「――それでも、私はお前を愛しているよ」 重ねられた唇はひどく温かかった。 To be continued |
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