『続・散歩日和の晴れた日に』
当世において准后の宮と呼ばれるその姫宮は、先々帝――俗に五条院と呼ばれている帝の皇女であり、先帝の御世において斎宮を務めた方でもある。
その先帝――五条院の第一皇子である一宮基信親王――が急な病に倒れられたのが先の春のこと。
彼には帝位を譲るべく御子があらず、政争を嫌い長く都の外にて隠遁生活を送っていた同母弟の二宮和信親王に譲位された。
この弟宮がただ今の帝にあたる。
この二人の兄宮と姫宮は異腹ながらも、母女御同士が昵懇であったこともあり、同腹の兄妹のように睦まじく、御世代わりに伴い姫宮が都に戻りて早々、下された准三后の宣旨からもその事が伺えるといえる。
その、准后の宮が住まう土御門邸が常ならぬ慌しい客人を迎えたのは、秋の除目を初めとする諸々の行事も一段落した、ある晴れた昼下がりのことだった――。
「先触れも無く突然伺いましたご無礼、お許しください」
几帳を挟んで座した公達――四位の大輔は冠正した頭を深々と下げ、挨拶代わりの謝辞を述べる。
その、父親を思わせる生真面目な所作に自然、准后の宮の頬も緩む。
「いいえ。そのようなこと気にせずとも良いのですよ、禎衡。ところで、妹君や俊通殿らは息災でおいでですか?」
和やかな問いかけに、四位の大輔も僅かに表情をやわらげ、顔をあげた。
「――はい、春宮妃も、父大納言も共に日々つつがなく過ごしております」
「それは何よりのこと」
宮の母である、今は亡き弘徽殿女御能子姫と大輔の父・一の大納言俊通卿、そして現関白師成卿(余談ながらこの人物は頭中将の父親である)の三人は同父母の姉弟にあたる。
生前の女御は末弟である俊通卿をことのほか可愛がっており、大輔自身もみづら髪の幼き頃は幾度も女御の御簾内に招き入れられたものだ。
その縁もあってか、女御の産んだ准后の宮にも大納言一家は懇意にされており、大輔の異母妹も過日、宮の後見を受けて春宮妃として入内している。
「それで? 何をそのように慌ててますの、禎衡?」
優しく笑み、軽く小首を傾げて宮が急の訪問の理由を問うと、大輔は表情を引き締め、懐から一枚の料紙を取り出した。
「本日突然の訪問を致しましたのは、宮様にこれを拝見して頂きたく……」
云いながら差し出された料紙を、女房の一人が仲介して受け取る。
渡された料紙を開き見て、宮はきょとんとした様相で首を傾げた。
「……これは、帝のお手蹟? これが一体如何したというのですか?」
どこか兄帝を髣髴とさせるおっとりとした声音での問いに、大輔の肩ががっくりと落ちた。
「――やはり……主上のお手蹟なのですね……」
ぽつり、とこぼれた呟きはやけに哀愁が漂っていた……。
それでも気力を振り絞り、大輔は顔をあげ、宮にこの訪問の目的をはっきりと述べる。
「――宮様。誠に申し訳ありませんが、その文面をお読み頂けませんでしょうか?」
妙に気負ったその言葉に、准妃の宮はしばし沈黙し――改めて料紙を眺めてから、やはりおっとりとした口調でこう訊き返したのだった。
「……禎衡。以前からそのような気はしていたのですけれど――やはり読めませんか?」
「……………………宮様」
そんな気がしていたのなら、本人に癖字を直すよう助言をしておいてくれ。
大輔の消え入りそうな呟きは、それはそれは哀愁と悲哀に満ちており、言外にそんな響きが混ざっていなくも無かった。
そんな大輔の声音に憐憫を感じたらしく、准后の宮は先の発言に対する答えをそれ以上求めようとはせず、再度料紙に視線を落とし、その文面を黙読する。
――文面を読解すること暫し。
奇妙な沈黙がその場に流れた。
「――禎衡。心を落ち着けて聞いて下さいね。何を聞いても驚かぬよう」
いくばくかの間を置いて、宮がそう前置きする。
その言葉に、自然大輔の居住まいも正される。
僅かに緊張を孕んだ空気の中、宮はゆっくりと口を開きその文面を読み上げた――。
「『長く宮中を離れていた所為か、内裏のことで忘れていることも多いと痛感する今日この頃。今日は議定も無いことだし、ちょっと大内裏の散策に行って来るよ! 日が落ちるまでには戻るから、心配しなくてもいいよ。和信』」
ごつん!
宮が文面を読み終えるとほぼ同時に、激しく固いもの同士がぶつかり合う音が周囲に響き渡った。
「四位の大輔さま!?」
「お気を確かに!」
続いて、几帳の向こうに候らう女房達の悲鳴にも似た騒ぎ声が上がる。
何とはなしに事態の予測はつきながらも、宮は几帳の向こうの様相を伺おうとそっと几帳の隙間から覗き見て――そして自身の予想が当っている事を知った。
几帳を挟んだその先では……四位の大輔が顔面から床に突っ伏していたのだった――。
「……ですから、何を聞いても驚かないで下さい、と申しましたのに……」
額をしたたか床に打ちつけ微動だにしない四位の大輔を介抱しようと慌しく動く女房達が騒ぐ中、准后の宮は困ったように溜め息混じりに呟くのみであった――――。
――今上が六衛府・摂関家の家司総出の探索により、主殿寮にて発見されたのは……それから二刻程後のことだった――――。
了