迷子の約束





 久々の休日だった。
 天気は快晴、風もなく、澄んだ空気は少し涼しかったが、日差しは暖かく、文句なしの気持ち良い日だった。
 広い自然公園は緑の芝生が敷かれ、点在する木々が丁度良い木陰を提供していた。何種類かある木々の中で、彼は常緑樹の根元に座り、幹に背を預けていた。その手には一冊の本があり、彼は穏やかな気持ちで読書をしていた。
 ふと、子どものはしゃぐ声に惹かれ、視線を上げると仲の良さそうな家族連れが公園を巡る道を歩いていた。
 平和だ。
 そう、しみじみと実感した。
 しかし、次の瞬間、彼の視界に非常識な『物体』が侵入した。
 母親に懐く子どもの頭の上で、くるくると踊っている小さな生き物。
 見かけは――可愛らしいと言えなくもない。
 小さな体に不釣合いな翅。
 御伽噺の絵本に描かれる妖精に良く似ている。
「……」
 つと、視線を動かせば、公園に設置された長椅子に座って編物をしている老婦人がいた。
 しかし、ここでも非常識は存在した。
 老婦人の膝の上で丸くなって寝ている小動物……に良く似た生き物。
 光沢のある青毛に覆われた四肢。
 だが、その背には羽があり、尾は三つに分かれていた。
 ……平和、だ。
 この際、日常に混じる非日常に、彼は目を瞑った。
 精霊と呼ばれる彼らが見えるようになってから、彼の日常は崩壊した。しかし、彼らは無害だ。
 手元をくすぐられる感触に視線を落とすと、開いた本の上に木の葉が積もっていた。
 そして、それを楽しそうに運んでくる小鳥に似た精霊。
 小さな溜め息を吐き、彼は指先で精霊の頭を軽く小突いた。
 精霊は頭を押さえ、悪戯めいた表情で笑うと、ふわりと空に消える。
 この程度の悪戯は些細なものだ。
 再び、本に視線を落とした瞬間だった。
 突然、大量の木の葉が降ってきた。
「……」
 本は完全に木の葉に埋もれている。
 先ほどより大きな溜め息を吐き、彼は木の葉を振り払った。そして、本を閉じ、視線を周囲に泳がせた。
 すると、彼の前方、やや上に消えたはずの精霊が浮かんでいた。
 成功した悪戯に手を打ち、喜んでいる精霊に、彼は鋭く一瞥した。
 しかし、精霊はくすくすと笑うと、その小さな指で公園の奥の森を示した。
 何があるというのだろう。
 彼が不信を隠さず、眉をひそめて見やると、精霊は真剣な表情になった。そして、彼の腕の袖口を引っ張り出す。
 しかし、彼が動かないと知ると、険しい顔つきで見上げ、大きく両腕を上げ、勢いよく振り下ろした。
 次の瞬間、ずしりとした重みを伴って、木の葉が彼自身の上に落ちてきた。
 どうあっても行かせたいらしい。
「――――分かった」
 彼は低い声で呟くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、体中に積もった木の葉を振り払い、精霊が示した森へと歩き出す。
 それを見て、精霊は満足げに頷き、ふわりと姿を消した。
 森の中に足を踏み入れた彼は考えていたより森が深かったことを知った。
 それほどの広さがあるとは思えない。だが、ここは聖都と呼ばれる地だ。日常という現実に、非日常が息づいている。森が見かけどおりの規模であるとは限らないのだ。
 神の血を継ぐという聖王が築き上げた永遠の都。
 人ならざる者も集う処。
 だが、多くの人々は彼らの存在を知らない。否、知る者がいなくなったというべきか。
 彼自身、人ならざるものの姿を見る力『聖眼』に覚醒しなければ、見えることはなかっただろう――そう、恐らくは一生。
 不意に、彼の耳にか細い泣き声が聞こえた。
 小さな少女の声だ。疲れているのか、弱々しい。
 彼は立ち止まり、周囲を見回した。
 声は側の茂みの向こうから聞こえていた。
 彼が覗き込むと、その気配に気づいたのか、泣いていた少女が顔を上げた。
 白い洋服を着た少女が座り込んでいた少女は涙に潤んだ双眸を見開いて、わずかに後退する。きつく引き締めた唇と強張った体は明らかに彼を警戒していた。ここに来るまでに見かけた薄紅の花を強く握り締めている。
 その様子に、彼はわずかに苦笑した。
「どうした? 怪我でもしたのか?」
「……」
 少女は小さく顔を横に振った。そして、彼をじっと見上げる。
 彼はゆっくりと屈み、少女と視線を合わせた。
「――じゃあ、どうして泣いているんだ?」
 少女は一度瞬きをすると、躊躇いがちに口を開いた。
「……分からないの」
「ん?」
 少し舌足らずな幼い声で少女はもう一度繰り返した。
「道が分からないの」
 その言葉に、彼は少女の状況を理解した。
 迷子なのだ。
 この自然公園は広い。その上、この森は彼が見ても少し変わっている。先ほどから、精霊の姿をちらりとも見ない。
 気紛れな彼らは時として存在そのものがないかのように姿を隠す。
 だが、『聖眼』を持つ彼には精霊たちが残していく気配を見るときがある。いわゆる、残像のようものだ。
 この森には、それすら見つけることがなかった。
「そうか……。ここには誰かと来たのか?」
 少女は再び顔を横に振った。そして、表情をわずかに曇らせ、俯き加減で呟いた。
「待ってるの……」
「待ってる?」
「約束の場所で、お母さん、待ってるから、だから、わたし、行こうと思ったの」
「……どこだ、その約束の場所は?」
 少女は驚いて顔を上げた。
「お兄ちゃん、連れてってくれるの?」
 彼は苦笑しながら頷いた。
「私が知っていれば」
 そのとたん、少女は意気込んで話し出す。
「あのねあのね! 大きな木があるところなの! この森の向こうにあるはずなの!」
「じゃあ、とりあえず、森を出ようか。立てるか?」
「立てる」
 手を差し伸べる彼に、少女は素直に頷き、立ち上がった。
 小さな手はほんのりと温かい。
 その温もりに、自然と笑みを零し、彼は少女の歩調に合わせながら歩き出した。
 あの精霊はこの少女の存在を知って行かせようとしていたのだろうか。
 そして、二人は手を繋いで森を進み始めた。
「――約束、ということは、ここには一人で?」
 何気なく問い掛けると、すっかり警戒心を解いた少女はこkりと頷いて答えた。
「うん、そう。ホントは一人じゃダメなんだけど、だけど、お母さん帰って来たから」
「帰って来た?」
「あのね、ずっと、お母さん、いなかったの。だから、わたしが留守番してたのよ」
 少女の言葉に、彼は疑問を抱いた。
「――一人で?」
「ううん、違う。お姉ちゃんがいてくれた」
 そう言って、少女は頬を紅潮させた。
「お姉ちゃんは綺麗なのよ、すっごく、すっごく! 歌も上手なの。わたしが泣いていると、いつも側で歌ってくれるの。そしたら、わたし、いつも寝ちゃうの。優しく撫でててくれて、怒ると怖いんだけどね」
 そして、少女は夢見るような笑顔になる。
「でも、大好きなの」
 素直な言葉だった。
 聞いていて、微笑みが浮かぶほどの純粋な好意の言葉だった。
「そうか」
「そのお姉ちゃんがね、お母さんが帰って来たって言ったの。迎えに来るからって言って――でも、約束だもん」
「約束?」
「うん。約束したの。お母さんと会う時は約束の場所なの。帰って来たなら、お母さん絶対にそこにいる」
 要領を得ない少女の話では少し分からない部分もあるが、とりあえず、その約束の場所に母親がいるらしい。
 いなくても、少女がそこまで言うのだ。すぐに思い当たって、来るに違いない。最悪、来なくても、家を探す手立てはある。
「あ」
 不意に、少女の瞳が輝く。
 彼が視線をやると、いつの間にか森が途切れていた。
 その先には一際大きく高い樹。
 さわさわと風にそよいで揺れる葉擦れの音が優しく聞こえた。
「お母さん!」
 樹の影の中に立つ人影に、少女は弾けるような声で呼んで、走り出す。
 一目散で駆け寄ってきた少女を母親らしき女性は抱き止めた。
 何やら一生懸命話している少女に頷き、そして、彼の方を見ると、少女を促すように肩に手を置く。
 少女は振り向き、彼に向かって大きく手を振った。
「お兄ちゃん! ありがとう!」
 少女の母親がわずかに頭を下げる。
 そんな二人の姿を見て、彼は微笑みを浮かべた。軽く手を上げ、少女に振り返すと踵を返した。
 そして、来た道を帰ろうとした、その時。
 鳥の羽ばたきが聞こえた。
「!」
 彼は唐突に何かに気づいたように振り返る。
 そこには、見えるはずの樹も、母娘の姿もなく、特に変哲のない森の風景だけがあった。
「……」
 彼は緩々と手を自らの双眸を覆った。
 そこに在る力の確かな手応え。
 『聖眼』と呼ばれる能力の意味を反芻し、彼は苦笑した。
 何にせよ、迷子だった少女が無事母親と再会できたのだ。
 それでいい。
 こんな日があってもいいだろう。
 そして、彼は晴れ晴れとした思いで森を立ち去った。




リクエストは『黄昏の契約シリーズの彼の平穏で少し幸せな話』。
『彼』の平穏……? 幸せ?
そもそも、彼が不幸なのは『彼女』に会ったこと。
では、会う前なら平穏だったのか? ……平穏だったのでしょう。

しかし!

過去の『彼』のネタが浮かびませんでした。
だって、そんな『彼』では書いても少しも楽しくなかったんです〜!!
要は『彼女』なんです。『彼女』さえ出てこなければ、『彼』は穏やかな日々を過ごせるんです!

以上の過程を経て、こんな話が出来上がりました。
葵さん、ご希望には添えましたでしょうか?
謹んでお贈りさせて頂きます。




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