『花もほころぶ春の日に』
 ――後宮七殿五舎、その一舎、凝華舎に藤の花が咲きほころび始めたとある春の日。
 それは、日もようよう上がりきり、宮中に人気も薄れた、そんな刻限のことだった。



「――頭中将とうのちゅうじょう?」
 温明殿を辞し、清涼殿に足を向け――高倉の中納言は怪訝な声音で、その相手の呼び名を口に乗せた。呼びかけの形が変わって早半年と少し。以前の“三位の中将”ではなく現在の“頭中将”も口に馴染んできた。
 呼びかけられ、当の相手はゆっくりと振り返る。
 その顔は、何ゆえか、不自然に強張っていた。
 清涼殿、その孫庇まごびさしで呆然とした様相で立ち尽くしていたその様子からしておかしかったが、この表情はそれに輪をかけてどうかしている。
「どうかしたのですか?」
 中納言の、当然の問いかけに、頭中将は、何故か、言いづらそうに口ごもった。
「――実は……。先程、二条からつかいの者が来まして……」
 単に“二条”とだけ言えば、それは現関白の邸宅を指す。
 中将は、関白の脇腹の子息にあたるので、関白の邸の者が彼の元につかわされることにおかしい点はない。
 一体、どのような内容のことを聞かされたのかと、不思議に思いつつ中納言が首を傾げると、中将は躊躇いがちに、誰も予想だに出来なかったであろう驚愕の事実を言の葉にのせた。
「――皇后様、ご懐妊とのこと」
「……」
 一瞬、中納言は言われた言葉が理解出来なかった。
 出世に関心は持たぬが有能で知られる高倉の中納言が、たった一言の内容を理解するまでにかかった時間は十を数えるほど。
 それから、目を見開き、微妙に強張った表情で、言葉を選びあぐねたようにゆっくりと口を開いた。
「――中将」
「……はい」
「――確か、皇后様は私より二歳の年少でいらっしゃられたと記憶していますが……」
「……はい。御上おかみとは丁度十歳お年が離れていらっしゃいます」

 当代において、“皇后”とは院――烏丸の院の御所に住まわれる先帝――の正妃であられた、宮中では藤壺中宮ふじつぼのちゅうぐうと呼ばれていらした方を指す。
 皇子みこを産み国母となられたわけではないで皇太后とおなりになっておられず、また、出家なされたわけでもないので女院と称するわけにもいかず。
 ゆえに、今上の正妃であられる弘徽殿中宮こきでんのちゅうぐうと区別して、当世においてこちらは藤壺皇后と呼びならわされている。
 現関白の嫡出の姫として生まれ、先帝がいまだ春宮であられた頃に早々と入内なされ、その後宮にあること実に三十年近く。
 その間、一度として懐妊の兆しを見せることはなく――また、院も子宝に恵まれることのなかったお方ゆえ、帝位は弟宮であられる今上へと譲られることとなったのだが。

「――中将。私は先頃、四十の賀の祝いを受けたのですが……」
 それ以上、続ける言葉が出てこなかったのか、ただただ複雑な表情を浮かべたまま、中納言は口ごもる。

 この時代、四十歳――この場合、数え年である――から、初老とされる。そして、長寿の祝いと延命を祈る儀式として行われるのが算賀だ。算賀は四十歳から始まり、以後十年ごとに行われる。
 現代人の感覚に例えていえば、還暦の祝いのようなものだろうか。
 確かに、近頃の上達部かんだちめは長寿の方が多いが、三十代、四十代で世を去る事柄も珍しくはない世の中である。

 そういう世情を視野に入れて考えていただければ、中納言の驚愕も、中将の動揺も理解していただけるだろう。
「……」
「――」
 不自然に中将が目を逸らし、中納言も扇を口元にあて、横を向く。
 互いに、言うべき言葉が見つからず、何とはなしに無言のまま、視線を合わすことも無く、ただ立ち尽くすばかりであった。

 その時である。
 なんともいいがたい沈黙が舞い降りた孫庇に、ばさり、と御簾みすが舞い上がる音と共に、晴れやかな声音が降り立った。
「兄上に御子が生まれるのか? それは目出度いなあ」
 外の晴天にも負けぬ、その言葉どおりに浮き立つような、弾んだ声音に、中将も中納言も思わず振り返る。
 この宮中で――ましてや公卿の列に並び、殿上に名を連ねる公達で、この声の主を知らぬ者はいない。いや、いる筈が無い。
「――主上!?」
「……いつからそこにおいであそばされたのですか……?」
 清涼殿という場所を考えれば、ただいま至高の御位にいらっしゃるこの今上が、この場においでであることは不自然ではない。ない、が……。
 明らかに立ち聞きしていたであろうことがうかがい知れる登場の仕方に、中納言は声を絶し、中将は疲れたような呟きをこぼした。
 だが、帝はそんな臣下の反応に気にかかるものなどおありではないらしく、春の陽気そのままに晴れやかに微笑みながら、同腹の兄院の慶事に心浮き立たせておいでであった。
「そうかあ、うん、本当にお目出度いなあ……。それは是非、お祝いに行かねば!」
「主上!!」
 ぐっ、と拳を握り、くるりと身を翻そうとした今上の背に、頭中将の、彼らしからぬ強い語調での静止が投げかけられた。
「? なにかな、頭中将?」
 不思議そうな顔で首を傾げる今上のその仕草は、とても中納言より年長とは見えがたい。
「兄院への、率直な祝辞のお心、とても尊きことと存じます。が」
 最後の接続詞に必要以上に力を込めて、中将は今上の出で立ちを視線で確認しながらゆっくりと続きをつなげた。
「ただ今これより、御身お一つで院の御所へ参られようとなさることには、賛同いたしかねます」
 そうである。
 今上の出で立ちは、といえば、宮中には不釣合いこの上ない烏帽子狩衣姿。
 登極からいまだ一年も経たぬ今上は、御位につかれる以前は宮中を離れ雛の地で気侭にお暮らしだった所為か、仰々しさを厭われる節がある。
 それだけならばまだ良いのだが、気軽に内裏を抜け出し、兄院のおわす烏丸の院の御所はもとより、生母である女院の元や、異母妹であらせられる准后じゅごうの宮の住まわれる土御門殿をお一人でふらりと訪ねられたり、市を覗きに行かれたり、と、尊き御身分に相応しからぬお振る舞いで、上達部達の心労の種となっていた。
 未遂も含めて、先月の脱走は五回。
 登極から数えれば軽く三十は超えるだろう。
「尊きお身分のお方が軽々しく御身一つでお出ましあそばすはよろしからぬことと、私ども一同、幾度と無く言上奉ってきたと思われますが、主上に置かれましては臣らの嘆願をいかが思し召しでございましょう?」
 弁舌滑らかに、滔々と中将の口から言葉が流れ出す。
 その口上に、やや拗ねたように眉根をしかめて、今上はこう呟いた。
「……。中将。顔は似ていないけど、やっぱり親子だねえ。この間、関白にも似たようなことを言われたよ。言い方が本当にそっくりだ。あ、一の大納言にも言われたっけ。中将も気をつけないと、大納言みたいに癖になるよ、消えなくなるよ。眉間の皺」
 ……などと言いながら、今上は両の人差し指で己の眉間を押し寄せて皺を作って見せた。
 言われた当の中将のほうはといえば、薄く浮かべた柔和な微笑こそ完璧に取り繕われてはいたが、裏の顔には明らかに血管が浮いていることだろう。
 その心中を慮って、中納言は扇の影でそっと溜息を噛み殺した。

 先帝より、くれぐれも、と申し付けられ、異例の人事で蔵人頭となり、今上の傍近くに仕えること半年。もう一人の蔵人頭――頭弁が若年ゆえ、色々と頭中将の負担が大きいのだろう。
 そろそろ、関白のように「春宮さまが帝位に相応しい年齢になられるまでの中継ぎ」と開き直るか、一の大納言や四位の大輔たいふのようにあくまで口うるさく換言するか、内大臣のようにこういう方なのだと達観するか。いずれかの心境に偏ってしまったほうが頭中将も楽になれるだろうに。高倉の中納言は近頃そう思わずにはいられない。
 今の場面とて、関白ならば「主上にご心配頂くほど張りのない肌ではございませんので、ご安心下さいませ」と切り返すだろうし、一の大納言ならば「そのような話を何時いたしましたか!」とくるだろう。四位の大輔ならば「話題を逸らさないで下さいませ。さ、どうぞお戻りを」と強引にいくところだ。
 そういう意味で、臣下の遠慮が抜けきれない所為で中将はかなり損をしているといえた。
 一言で言ってしまえば型破りの今上の傍近くに仕えるには、頭中将はいささか思い切りが足りないのだろう。

「折角見目良い顔をしているのに、一の大納言みたいに眉間の皺が癖になったら勿体無いよ?」
 あくまでのほほんと、だが真剣に、“眉間の皺”を心配する今上と。
 言い返す気迫に欠け、礼節を軽んじられない頭中将と。
 二人を見比べながら、今の状況をどう収拾つけようか、思案する中納言だった――――。






サイト三周年、おめでとうございます。銀月嬢。
お祝い代わりの『散歩〜』続編です(笑)
当方贈答品目収納の『藤が枝』も踏まえております。
……ルビ、これくらいで足りてますかね?

二〇〇五年睦月中旬 月読遊




 今年も頂きました。
 ふ、ふふっ……相変わらずの二宮パパ(主上)が楽しいです〜。
 子どもたちはまともなのに、どうして、こんな性格なのか! 笑
 ルビ、お気遣いいただいて、ありがとうございます。
 ええ、大丈夫です。読めます!←ルビだから当然

 公私ともども、これからも宜しくお願いします〜。
2005.1 銀月 愁稀




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